早き瀬に - 6/6

五、

長く深い眠りの中で、不意に名を呼ばれた気がした。
いつから自分は眠っていたのだろうか。覚えている最後の光景は、安富の手紙と共に送り届けられた先、日野の佐藤という男の夫人が決して泣くまいと唇を噛んでいる姿だった。彼女が土方の言っていた姉なのだろう。
「あの子は最期まで、前を向いていたのですね」
それだけ聞ければ十分ですと、笑う。その笑みがひどく土方に似ていたので、自分はなぜだかとても満たされた気持ちになったのだ。
彼が本当に伝えたかったことは、伝えたかった相手にきちんと伝わったのだと。

それからどれだけの月日が経ったのかしれない。たくさんの声が聞こえた気がしたが、どれもよく覚えていなかった。
強く名を呼ばれて、それは自分の名だと思って。応えようと目を開けたら、薄闇の中に立っていた。ふわりふわりと蛍のような光が飛び交う中、その光のひとつが目の前でくるりと円を描いて人の形になる。
「よお、兄弟」
それは兼定に似た、けれど少し違う男だった。肩にあざやかな浅葱色の羽織を引っ掛けている。袖と裾に白抜きで山型のだんだらを描いた、やけに派手なその羽織にはなんとなく覚えがあった。
「その羽織は、京都の」
「新選組の象徴だ。末っ子のお前は知らないか」
「兼定は俺の後にもいくつも打っていたぞ」
「そうじゃねぇよ。あの人の刀としての未の子だ」
つまり目の前の彼は、京の町で土方が振るっていた兼定なのだろう。どうして彼がここにいるのだろうかと問おうとすれば、説明はもっと偉い奴に聞いてくれと笑った。
「なんにせよあの人の一番は、あの人の最期を見届けたお前に譲ってやるよ」
しっかりやれよと言いながら、するりと脱いだ羽織を兼定の肩にかけて笑う。そのまま、再びふわりとした光の玉になって消えてしまった。
それからも次々と土方の振るった刀たちが集まり、一人一人やけに律儀に兼定へ声を掛けて、光に包まれて消えていく。
「あの人は最後になんて言ったんだ?」
「退くものは斬る、と。仲間に、敵に、背を向けることはこの俺が許さないって」
「ああ、それな。宇都宮の戦いの時もそう言って、本当に斬り捨てたんだよ。俺で」
兼定ではないその刀は土方が宇都宮で振るった刀のようだ。北関東を転戦している時に携えていたものなのだろう。
「だけどその時に斬り捨てた兵を、そのあと、丁寧に弔った。それから供養を頼んだ寺に、俺を奉納したんだ。俺はそのまま眠っちまったから後のことは知らねぇけど、今に残ってないってこたぁ、謂れは伝えられずに破棄されたか供出されたか」
どっちだっていいんだけどさ、と笑いながらその刀は兼定の手を取った。
「そういう俺の、あの人との思い出も。お前がみんな持っていって、そして戦ってくれ」
あの人と、あの人と共に戦った彼らのために。そう告げてふわりと消えたその後ろに、もう一振りの刀が待っていた。
最初に現れた京都での兼定のように、兼定に似た姿をしているが、兄弟ではなさそうだった。先代や、もっと前の刀だろうかと兼定が首を捻ると、黙っていた相手がようやく口を開く。
「俺は十二代和泉守兼定」
「十二代? 兼定の子は兼定の名を継いだのか?」
「違う。たとえ十二代を継いでいたとしても、最後に土方の刀だったあんたよりあとに土方の刀として存在するはずがないだろ――俺は、この世に存在しないはずの刀だ」
だからここに呼ばれた理由もわからないとこぼす相手に、兼定は笑って手を差し出した。
「でもあんたも、あの人の刀なんだろ?」
「後世に、そう主張する人々がいたっていうだけの話だ」
「なんだよ、それで十分だろ。俺たちは『土方の刀』になるんだから」
既に兼定の中には、兼定の刀ではないものも混ざっている。それでも呼ぶ声はますます強くなっていく。声の主の意図するものが、なんとなくわかった気がした。
あの声は『土方の刀』を呼んでいるのだ。理由も目的もわからないが、それだけは確かだろうと思う。
だから存在しない刀が加わったところで問題などあるはずがない。土方の刀として呼ばれて、応えて、この不思議な場所に集まった。それ以上の意味など何もないはずだ。
そうして差し伸ばされた手を迷いながらも掴み取った十二代も、光に包まれてふわりと消える。最後に残った兼定は、まっすぐに天上を見上げた。
遠くで火花が弾けるような、ギラギラとした輝きが見える。かつて見てきた人々も、ここで出会った刀たちも、みんな目の奥にその輝きを持っていた。
戦いを見てきたものの、戦いに挑むものの目。
そしてとても、懐かしい光。

「オレは和泉守兼定。かっこよくて強い! 最近流行りの刀だぜ」

土方歳三の刀である『和泉守兼定』はそうして、愛した人々の歴史を守る刀剣男士として。再び戦いの中に生まれ落ちた。

 

 

「和泉守やか、そこで何をしちゅう?」
本丸の一角、審神者の部屋に続く廊下の奥にある木戸から出てきた和泉守兼定を見つけたのは、手入れ部屋から出てきたばかりの陸奥守吉行だった。
久しぶりの出陣で検非違使にぶち当たり、うっかり大怪我を負ったせいで陸奥一人だけ手入れ時間が伸びてしまったのを、和泉守は知らなかったのだろう。見つかっちまったとバツの悪そうな表情を浮かべる。
「こがなところに扉なんてあったがか」
「審神者に頼み込んで教えてもらったんだよ」
この扉の奥には書庫がある、と。他の連中には教えるなよと言いながらガシャンと鍵をかけた。
「この鍵もちゃんと審神者から借りたもんだからな」
「おんしはそん書庫で何をしちゅうがか」
「……少し、時間あるか?」
「お、おう」
なんだかいつもと違う和泉守に、陸奥は少し動揺してしまった。廊下を少し歩くと裏庭に面した縁側に出る。そこに並んで腰かければ、庇がちょうど影を作って、陽の光は足元でキラキラと輝いていた。
一軍はレベルを上げている最中で、二軍から四軍までは連日の検非違使戦で少し足らなくなってきた資材を集めるために、毎日フル稼働している。それだけで本丸に残っている者はかなり減っている上に、内番の畑も厩も鍛錬場も屋敷の反対側にあるので、とても静かな場所だった。
一番近い厨から、トントントンと包丁で何かを切る音がリズミカルに聞こえ、何やらいい匂いがふわりとあたりに漂っていた。誰かが夕餉の仕込みをしているのだろう。これは二代目の包丁使いだなぁと、和泉守がぼんやりとつぶやいた。
「覚えちゅうか」
「書庫を出て、ここでしばらくぼんやりしていると聞こえてくるんだよ」
覚えてしまうほど書庫に通ったということだろう。何から話したらいいかとぼやいていた和泉守は、そうだ二代目、とようやく口火を切った。
「歌仙にな。歌の話をしたことがあるんだ」
「得意の雅か」
「そう、雅」
イヒヒと笑って手を伸ばし、ぐうーっと伸びをする。まるで大きな猫のような仕草だ。それから少し、居住まいを正した。
「隊長討死せられければ――早き瀬に力足らぬか下り鮎」
「隊長……おんしの前の主か」
「ああ、そうだ」
なるほどいつもと様子が違うのは、その話をしようとしているからだったのかと陸奥は納得した。
彼の前の主が討死した函館には、彼と同じ部隊にいる時に行ったことがある。堀川国広との昔話も、その時一緒にいた陸奥は確かに聞いていた。
本丸に来たばかりの頃に抱いていた、彼ら新選組の刀だったものたちに対する苦手意識が薄くなっていったのはそれからのことだ。今ではすっかり確執もなく、むしろ活躍した時代が近いだけに他の刀よりも話が合うのでつるむことも多い。
「前の主が亡くなった時に、そのことを伝える手紙の最後に、あの人の部下が書き残した歌だ」
堀川国広はなぜか前の主の歌として覚えていた。加州清光は死んだ自分の主を下り鮎に例えるだろうかと首を傾げた。
それに対して、歌仙兼定は勝手な憶測だと断った上で、『下り鮎』に託したのは死した主ではなく詠み人自身のことであろうと解いた。力足らず、主とともに早き流れを乗り越えることができなかった自分自身を悔いる歌ではないか、と。
抗うことも乗り越えることもできなかった激流に、流された先には何があるのか。あるいは、共に激流を乗り越えられた先に何があるはずだったのか。
「歌を作ったその人は、俺を遺品として他の隊士に手紙と共に託して、自分は五稜郭に残った。あの人に託されたから、最後まで見届けると言って」
彼は、安富はそう言って、大野を弁天台場へと送り返した。土方が救おうとしていた仲間たちの後を託すために。それから五稜郭に残っていた、立川と沢という、やはり京都から土方に付いて来ていた二人にそれぞれ手紙と遺品を託した。兼定は日野の佐藤家へ運ばれ、それから土方の生家へと移った。
――思いを残した品を誰かに託すのは、それを残していく本人のためではなく、その人と共にいたいと願った誰かのためなのかもしれない。
持ち主の元を離れた後のことは、刀としては眠っているような状態であったからぼんやりとしか覚えていないけれど。それでも思い返せば大切にされた記憶ばかりが蘇る。
「そうやって寝ていた間もぼんやりと声は聞こえていて、だけど歌を作った人のその後はなぜか少しも聞こえてこなかった」
だから審神者に頼んで書庫で調べていた、と。
「あの扉の先には受付があって、『司書』って名札をつけた、刀装兵みたいなちっこいのがいてな。そいつに頼むと必要な本を探してきてくれるんだが、これがなかなか、時間がかかった。所蔵されている本の数が膨大なのもあるんだろうが、俺たちに見せられないものもあるんだろうな。あと、」
「あと?」
「情報が途中で変わっていたんだよ。もちろん敵に修正されたわけではなくて、単に長いあいだ本当のことが知られていなかったってだけの話なんだが」
よくあることなのだろうと思う。陸奥の前の主が殺された理由も、主犯も、事件の当時からはっきりとしなかったせいで様々な俗説が長らく飛び交っていた。
「百年くらいの間、その人は暗殺されたと言われていたんだ。仇討ちで殺されたってな。でも本当は違った。故郷で、不遇のまま病で死んだとさ」
敗者として、国賊として、裏切り者として、不忠者として。
刀を取り上げられたまま、許されないままに、亡くなったのだという。
「仇討ちで殺されていた方がマシだったとは、絶対に思わねぇ。だけどそれは、いくらなんでもあんまりじゃねぇか、って……」
彼が何をしたというのだろうか。この数日調べてわかったのは、彼が生国の江戸屋敷で勘定方として勤めていたことと、ある時それをやめて新選組に入ったこと。
鳥羽伏見での戦い以降、新撰組では離脱者や脱走者が増えた。土方はそれを、それまでのように引き止めようとはしなかった。そんな中で安富が最後まで残ったことは、彼を間近で見ていた『土方の刀たち』はもちろん知っている。
けれどそのあとの箱館で、榎本や大鳥たち上層部の人間と共に降伏会見の場に参加していたということは、ここで調べて初めて知った。
彼は、彼自身が言ったとおり、本当に最後まで見届けたのだ。激流のようだった戦いの終わりの、その瞬間まで。
いつまでもそばにありたいと願っていた、慕い続けた、ただ一人のために。共に越えることができなかった、見ることが叶わなかった早き瀬の先を、一人で流されながら見届け続けた。
それだけのことなのに。
「おんしは、そん人が好きやったか」
「ああ、好きになったよ。俺とその人の願いは同じだったから」
刀と人ではあったけれど。言葉を交わすことも、視線が合うこともなかったけれど。
願うことも、それを願う理由も、きっと同じだった。
「あのな、笑っちまうかもしれないけど、あの人は、あの人たちは本当に、あんな戦いの中でも死ぬつもりなんてちっともなかったんだ。いつだって勝つ気で、勝つために、生きるために必死で考えて。どんな時でも前を向いていた」
もちろん時には、敵に背を見せて逃げることだってあった。どうしようもないと撤退したことだって何度もある。それでも前を向いて、このままで終わらせてなるものかと笑って再び戦いに赴く。
そんな人だから『自分たち』は強く惹かれたし、彼に従っていた者たちも、だからこそ最後まで一緒に戦おうとしていた。
ギラギラと目を輝かせながら。
「龍馬も、そうじゃった」
戦うのは戦場だけのことではない。龍馬がいたのは銃弾飛び交い、刃を交える以外の方法で戦うような戦さの場所だった。だから和泉守の言いたいことはよくわかる、と。そんな陸奥が相手だからこそ和泉守も話を続ける。
「そうやって生きていた人たちの選んだ道を、他人の勝手な都合で変えさせるわけにはいかねぇよ。それは決して許されない、彼らへの冒涜だと、思わねぇか?」
和泉守の言葉に、俯いたままの陸奥は何度も何度も頷く。それを見て、あんたならわかってくれるんじゃないかと思ったんだと、土方の刀はどこか照れ臭そうに笑った。
一番近くで見てきたのだ。互いの思いを共有することも、声をかけ、尋ねることも言葉を交わすこともできなかったけれど。それでもそばにいて、わかることだってあったのだ。

戦うために生まれ変わった。戦うために、新たな生を得た。
出会ってきた人々が自ら選んだ道を、歴史を、守るために。
それが新たな生を得た自分たちが、自ら剣を取って戦う理由。
決して揺らぐことのない、力強い誓い。

――それでも、だからこそ。もっと一緒に居たかった。
少しでも長く彼の側にありたいと、彼の刀でありたいと願ったのは本当で。
そうして人の姿を得た自分たちは苦悩し、足掻き続ける。