三、
雪に閉ざされた北の大地で、出来ることはとても少なかった。
敵軍が津軽海峡の向こう側に続々と集結しているという報せは、向こうに潜ませた密偵から逐一入ってくる。ということはもちろんこちらにも敵の密偵が潜んでいるということで、それに注意を払いながら、そして迎え撃つ準備を整えながら、忙しくも不思議と穏やかな日々を過ごしていた。
土方は奉行所のある五稜郭と、箱館の市中取締を任された新選組らの拠点となっている、箱館山の坂の途中にある旧奉行所を行き来しながら、兵卒の調練や、四稜郭や権現台場といった新たな防衛拠点造営の指導に当たっている。
その合間に誘われた句会に参加したり、箱館で新たに作られた政権下で任命された陸軍奉行並という立場上、今まで以上に距離ができてしまった新選組の酒宴に顔を出すなどしていた。
穏やかで、賑やかな毎日だ。刀としての本分は鍛錬の時にしか発揮できず、少し拗ねていた兼定だったが、そんな日々が決して疎ましいわけではなかった。
言葉を重ね、酒を飲み交わす。まるで自身に言い聞かせるように未来を語るもの、誰にともなくぽつぽつと過去を語るもの、何も語らずにただ杯を重ねていくだけのもの。出自も経歴も違うものたちが、同じ目的のために、戦うために、ここでの日々を過ごしている。誰もかれもが、ギラギラとした目をしている。
それは兼定にとって、とても不思議で、けれどどこか好ましいものだった。
やがて雪が解けて、春が訪れるまでのささやかな日々。
大野という男はもともと、唐津小笠原家に父親の代から仕える儒学者の家の子で、次期国主であり元老中でもあった小笠原長行が弟のように可愛がっていた懐刀である。
長行はかつて、長州征伐の際に幕府より全権を任されて軍の指揮を執っていたことで幕府瓦解後も容易に降伏することができず、会津、仙台を経てこの箱館まで逃れていた。大野たちが仙台で新選組に入隊したのも、長行と共に蝦夷地に渡るためであった。
会津滞在中は、互いに不信感を抱いていた会津と長岡の仲を取り持つことを命じられるなど、主に交渉ごとを任されていたようだ。会津で療養中の土方の元を訪れたのも、そもそもは情報収集のためであったようで、かつて本人が言っていたとおりそういうことが取り柄であるらしい。
それからも度々土方の元を訪れるようになったのは、個人的に好意を抱いたからだったようだが。そのせいか知らないが、今も安富と共に陸軍奉行添役を命じられて、陸軍奉行である旧幕臣の大鳥や土方の補佐役を務めている。
経歴上も役目上も文官としての印象が強かったが、敵軍の上陸による戦闘が始まって以降、いざ土方の補佐として戦場に出ると、意外にも前線指揮などうまくこなすようであった。兵たちの扱いも心得ている。逆に新選組として戦地を転々としていた安富の方が、本職である勘定方としての能力を生かして、戦場よりも奉行所内での仕事を増やしていた。
刀である自分は、指揮刀として扱われることも多いとはいえ、基本的には斬ったり突いたりすることしかできない。けれど人は様々なことができる。できるけれども、それぞれに向き不向きは存在するようだ。選ぶものもそれぞれ違っている。
選ぶ道、と土方は言った。かつて刀匠兼定も同じことを言っていた。そうやって選んだ道の先には何があるのだろうか。
その日も戦闘を終えると、兵たちは火薬の煤で真っ黒になっていた。先に作っておいた胸壁から一日中敵軍に向かって銃をぶっ放し続け、特には刀を抜いて突撃を仕掛ける。ここ数日、土方率いるこの軍は、二股口と呼ばれる山中の要所でそんなことを繰り返していた。
戦端が開かれた時、土方はもう少し箱館寄りの市ノ渡という町で休んでいるところだった。だから兼定は緒戦の様子を知らない。けれど土方の補佐役として前線を守っていた大野が土方不在の間、的確に指揮を執ったであろうことは敵軍の進軍を少しも許さなかった結果を見ればわかる。
「土方先生、今日も勝ちましたね」
他の兵たちと同じように真っ黒な顔をした大野がそう言って、いつものように笑ってみせた。彼はそうして、戦場にあっても笑顔を絶やさない不思議な男だ。それにつられたのか土方もにやりと笑う。
「良い話と悪い話がある。どちらから聞きたい?」
「悪い方から聞きたいですね」
良い話を聞いて浮かれた後にがっかりしたくないですからと真面目に答えるので、それもそうだと土方は神妙に頷いた。
「木古内口の戦況があまりよくないようだ」
「大鳥先生ほどの方でもやはり、難しいですか」
「こっちは天然の要塞だが、あっちは地形的にもそれほど有利ではないからな。だからこそ大鳥さんが引き受けて、兵の数も向こうに割いたが、敵さん思ったより勢いよく兵力を投入してやがる」
「しかし向こうが破られたらこちらは本陣への退路を断たれて孤立しかねません。撤退しなければならなくなりますね」
せっかく勝ってるのになぁと残念そうだが、そこに悲壮感はない。敵軍の上陸が始まってからというもの、各地でじわじわと追い詰められているというのに変な男だ。けれど土方も同様の様子なので、そもそもここには変な男しか残っていないのかもしれない。
「それで、良いお話とは?」
「用意しておいた酒が今夜届くことになった。兵たちに振舞ってやってくれ」
「あ、それは本当に良い話ですね!」
久しぶりの酒だ!と満面の笑みを浮かべる大野に、けれど土方がしっかりと釘を刺す。
「但し一人一杯だ。それ以上は用意できなかったからな」
「命の水は一杯でも十分ですよ」
それから大野と、大野と同じく陸軍奉行添役である大島が、本当に運ばれて来た酒樽を引き連れて本陣を置いている台場山の胸壁をひとつひとつ巡り、そこにいる兵に杯を渡す。
渡された杯を手にして不思議そうにしている相手に、皆の者よく聞け、土方総督からのありがたーい振舞い酒である、と大島が大仰に伝えれば、おお!と兵たちの喜びの声が上がる。続けて大野が、但し一人一杯だけだ、とひどく悲しげに伝えれば、ええー!と不満の声が上がった。もっとよこせーさけをのませろーと騒ぎ、けれどみな笑いながら、一杯の酒を嬉しそうに飲み干していく。
その賑やかな声で、連日の戦闘でやや停滞していた空気が少しずつ晴れていくのを兼定も感じた。土方はそのためにわざわざ酒を用意して、こんな山の中にまで運ばせたのだろう。大野たちはその意図をよく理解して、場を盛り上げながら酒を振舞っていく。
土方自身はほとんど酒を飲まない。祝宴でも最初の一杯に口を付けた後はそのままで、それを知る周りの者たちも無理に勧めようとはしなかった。
大木に背を預け、兼定を抱くようにして座り込みながら、振舞い酒に沸く男たちを眺めているから、兼定もその顔を眺める。
穏やかに見えて、けれど何かを考え込んでいる顔だった。彼が何を考えているのか、誰かとの会話でしか自分には知ることができない。自分で話しかけることができたらきっと、少しは応えてもらえるのかもしれないのに。
今あんたは、何を考えている? 何を思っている?
大野という男は頭のいい男だ。土方の気持ちをいつもうまく聞き出している。それが誰にでもできることではないということは、他の者との会話の様子を見ていればなんとなくわかることだった。
安富がそうやって大野のように聞かないのは、聞かなくてもある程度わかっているからだ。それは過去の日々を知っているからなのだろう。
大野のように話しかけることはできず、安富のように過去を知ることもない自分がもどかしい。戦いが始まれば、自分の本領を発揮している間は、そんなこと考えもしないのに。
戦いの間はそんなことを聞かなくても、知らなくても、土方がどうしたいのかわかる。どの流れで刀を抜き、どうやって敵を斬ろうとしているのか、手に取るようにわかった。
共にいる時間はまだ短いけれど、自分は他でもなく土方のために打たれた刀だから。
松前、木古内と各地を撃破されたのち、ついに矢不来まで落とされたとの報せに、土方軍はついに二股口の撤退を決めた。ほとんど常勝だった二股口守備隊の士気は高かったが、五稜郭に戻るとその士気を維持し続けることは難しかった。
敗戦が続き、死傷者の数も増え続けている。箱館市中の旧奉行所近くに建てられた病院と、その分館だけでは手が足りず、五稜郭内でもあちこちでけが人の姿を見た。
敵軍は間近に迫っている。援軍はない。勝機も薄い。上層部はどうするつもりなのだろうかと不安に思う者が増えるのも当然のことで、脱走兵も日々増えつつあった。
「安富、頼んでいた件はどうなった」
日が暮れるとその日の戦闘は終了する。すっかり慣れてしまった砲撃の音が止む夜は、ひどく静かなものに感じてしまう。まるで人々がじっと息を潜めている中にいるような、ざらりとした静寂だ。
そんな夜に、報告のために土方の部屋を訪れていた安富が逆に尋ねられて、けれどすぐに頷いてみせた。
「手筈は既に整えてあります。しかし、」
「こうなった以上、わかってもらうしかないだろう」
二股口から箱館に戻ってすぐ、土方が何かを安富に命じていたことは兼定も知っている。船の手配や金の支度のようだったが、それをどうするのだろうかと見ていると、次に呼ばれてきたのは土方の小姓である市村だった。
まだ十五を数えたばかりの彼は会津以前からずっと土方に付き添っているが、土方は彼を戦闘には参加させずに、身の回りのことを任せていた。
戦闘には参加しないが、護身用にと脇差を持たされている。それは初めてのあった日以来、一向に姿を見せていないあの脇差、堀川国広だった。
「土方先生、お呼びでしょうか」
「これを、日野に届けて欲しい」
そう言って差し出されたのは一枚の切紙と写真だった。そういえば写真館で撮った自画像をいくつか持っていたなと思い出す。そのうちの一葉だろう。切紙には、これを届けた者のことを頼むと書かれている。
市村は寡黙で物静かな少年だ。だから土方も何も言わずに今までそばに置いていたのだろうと思うのだが、その彼が珍しく声を上げて意を唱えた。
「嫌です。私は先生と一緒に討ち死にするつもりでこの地まで付いてきました。ここで返されるなんてまっぴらです。その命令は、私ではなく銀之助に」
「市村!」
怒鳴られてびくっと肩が揺れる。それでもなかなかうんと首肯しない少年をどうするのかと見ていれば、土方は兼定の柄を掴み鯉口を切った。すらりと引き抜いて、切先を市村に向ける。
「それほど討ち死にしたいならここで斬ってやる」
戦闘に参加していないとはいえ、それなりの危険を乗り越えてきている市村でも、まっすぐに見据えられて怯まずにはいられなかった。それでもまだ応えようとしない少年の後ろから、ずっと黙っていた安富が声をかけた。
「市村、先生に謝りなさい」
「お前は黙っていろ」
「いいえ、言わせてもらいます。でないと市村も納得できないでしょう」
この男も意外に強情だ。というよりも、土方を筆頭に強情ものばかりが残っているのが現状なのだから当前のことだった。彼のために命じられて用意していた金子や荷物を手にしたまま、安富は市村の横に立つ。
「土方先生が怒っているのは市村が命令に逆らおうとしているからではなくて、討ち死にすると思っているからだよ」
「それを言っちまったらだめだろ安富」
ため息を吐きながら刀を鞘に収め、兼定もまた詰めていた息をふーっと吐き出した。さすがに彼を斬るのは遠慮したかったからだ。土方が本気で市村を斬ろうとしているわけではないことを、感じ取ってはいてけれども。
「だってそのとおりでしょう?」
「先生は、決して死ぬおつもりではないと」
そうおっしゃるのですか、と。今にも消え入りそうな声で尋ねるから、仕方ないなぁと苦笑しながら土方は頷いてみせた。
「何度も言わせるなよ。死ぬつもりで戦場に出るなんざ、俺の流儀に反する」
生きるために、守るために。勝つために戦いに行くのだ。そこに勝機があろうとなかろうと関係ない。戦うからには勝つことしか考えない。そうでなければ勝つことなどできない。
それから先のことは、その時に考えればいい。
「貴方がそういう人だからこそ、我々は信じてここまで付いてきました。市村も、そうだろう」
「……はい」
「それなら、日野へ行ってくれるな。あの人たちに、義兄や姉に、これまでのことを伝えて欲しい」
それはもちろん少年をここから逃すために、納得させるための後付けの理由だ。けれどきっと、どこかでは本心でもあって。
「わかりました」
ようやく頷いた少年に、土方は穏やかに笑いかけた。そうして兼定を鞘ごと引き抜き、仙台からそのままだった浅葱色の下げ緒を外す。
「これも持って行ってくれ。伊達公からの拝領の品だ」
以前拝領した品である越前康継の刀とともに、佐藤家で大切にしてくれるだろうからと。受け取ったそれを、荷物と共にぎゅっと抱えて、市村は静かに頷いた。
そうやって、誰かに何かを託すというのはどういう想いから行うものなのだろうか。代わりにこちらをお持ちくださいと市村が差し出していった、国広の脇差の赤い下げ緒を結ばれながら兼定はぼんやりと考える。
かつて浅葱色の羽織には、それを遺していった人の想いが込められていると土方は言った。ならば彼は、遠いふるさとにいる人々に、己の想いを伝え残すために託すのだろうか。
死ぬつもりはないと言いながら。