早き瀬に - 2/6

一、

自分はそもそも、容保公の所望した品であったらしい。
けれど容保の手元に置かれるためではなく、ある者に下げ渡されるために作られたという。小姓たちによって恭しく運ばれながら周りの話を聞いていると、どうやら今日、自分を受け取りに来るのは本人ではなく代理の者であるようだ。待ち望んだ新しい主の顔を見るのはもう少し先のことかと少し落ち込みながら、落ち着かなく周囲を見回す。
その刀、兼定の、まだ少し定まらずにゆらりとしている人に似た姿を見る者はここにはいない。新しい主にも見ることはできないだろうと刀匠の兼定も言っていた。何十年と使っていれば不意に見えることもあるかもしれないが、と。それも偶然の、何かのきまぐれのようなものだ。
謁見の間の隅からきょろきょろと見回していると、その広間に入って来た一人の男と目が合った、ような気がした。男はただ、赤錆色の石目塗に鳳凰と牡丹が描かれているという、兼定の拵えそのものに目を引かれただけだろう。
地味な風貌に感情の読めない無表情を浮かべて、筒袖の黒い洋装軍服の上からでも痩躯であることがわかる。こんな夏日にその格好ではひどく暑いだろうに、なぜか不思議とそれを感じさせない男だった。
やがて現れた容保公に、男は作法どおりの挨拶を述べる。主は未だ宇都宮での戦いの傷が癒えず療養中であり、代わりに部下である自分が来たことを詫びた後、近藤という男について、会津の家中の者でもないのに天寧寺へ立派な墓を建てて、手厚く供養していただいたことを主もたいそう喜んでいると、丁寧に礼を述べた。
近藤という男の名には聞き覚えがある。さてどの話の流れで聞いたのだったかと、小姓の手の中で記憶をたどりながら考えているうちにひょいと持ち上げられた。突然のことに驚いたが、もっと驚いていたのは周囲に控えていた家臣たちだった。
容保公が急に、自ら刀を手に取ったことで家臣たちが慌てる中、痩躯の男は落ち着いた様子で容保公が立つ上座へ膝立ちでにじり寄り、差し出された刀を押し頂いた。
そうして男を間近で見て、初めて気がつく。涼しい顔をしたこの男も、目の奥はギラギラと光っていた。振り返って容保公の目を覗き込めば、殿様然とした白い顔の、その細い目の奥でやはりギラリと光るものが見えた気がした。
日の光を弾いて輝く、川面のような煌めきではない。暗い闇の中で、火花が激しく弾けるような。懐かしい光。
これはきっと、戦を見てきた者の、そして戦に向かう者の目なのだろうと。
「土方に、宜しく伝えよ」
「はい」
――容保公がわざわざ自ら命じて兼定に刀を作らせた相手、新たな主の名は土方と言うらしい。
その土方に下げ渡された刀を抱えて、城門を出た男がふうと小さく溜息を吐いた。その横でふわふわと浮いていた兼定が、どうしたのだろうかと少し俯いた男の顔を覗き込めば、なにやらひどく嬉しそうに刀を眺めている。
自分が拝領したわけではないのに、そんなにも嬉しいものなのだろうか。兼定にはわからなかった。

ようやく出会えた土方という男は、役者のような切れ長の目をした見目の良い男だった。城で会った会津松平家の若年寄である横山も若く見目麗しい青年だったが、土方には歴戦の強者らしい凄みがある。
その目に宿ったギラギラとした光を、隠そうともしない。
療養中との安富の言葉どおり、土方は旅館の一室に着流し姿で楽な格好をしていた。足を崩しているのは足の指先を銃で撃ち抜かれたからなのだが、安富が刀袋に納めたまま丁寧に上座へ置いた、拝領の刀を前にさっと居住まいを正して一礼する。それから手に取り、するすると袋から出して、にやりと笑った。
「びっくりするほど俺好みの拵じゃねぇか」
「いったい誰に聞いたんでしょうね」
「お前じゃないのか」
「私はそこまで貴方の好みを把握していませんよ」
「それなら一人しかいねぇな」
あとで斎藤を呼んでくれ、あいつにも是非こいつを見せたいと楽しげに笑った土方が、鯉口を切ってすらりと鞘から刀身を引き抜く。しばらく口を閉ざして刀身を眺める目は真剣そのもので、相手の急な変化に妙に照れ臭くなった兼定は落ち着かなくそわそわする。
そんな中、不意に視線を感じて床の間に目を向ければ、刀掛けに一振りの脇差があり、その側でふわりと漂う気配を感じた。ゆらゆらとした気配はくるりと空気を揺らして、兼定よりも少し小さな人の形を作る。
兄弟以外に初めて見る、刀に宿るモノの姿だった。兄弟以外の刀は城で何振りも見かけたが、彼らは容易には姿を現さない。
その脇差はにこにこと笑って口を開いたが、なぜだかその声は聞こえなかった。お互いの声は聞こえないものなのだろうか。兼定が首を捻ると、相手も困ったなぁというように首を傾げて、またくるりと空気を震わせて消えてしまった。
同時に、小さな金属音を響かせて土方が兼定の刀身を鞘に納めた。城の方角に向かってしばらく黙って押し頂き、ゆっくりと崩した膝の上に降ろしてから安富に笑いかける。
「こんなに素晴らしい刀を拝領して、有難いことだな」
「ええ、本当に。刀なら以前にも拝領しましたが、今回は以前と違いますね」
「こいつは、戦場で振るうための刀、実戦のための刀だ」
これまでの忠義への労いとして拝領した刀は、名刀ではあったが今の世では実戦向きではなかった。拝領の品として家宝とし、子々孫々へと伝えるような逸物だ。
もちろんそれはそれでとても名誉なことであり、有難いものであったのだが。
「これまでを労うためではなく、これから先を託すための刀、ですね」
「託すおつもりなのかどうかはわからんけどな」
いずれにしても、この先を共に見るための刀だろうと。嬉しそうに笑って鞘を撫でる土方を、やはり嬉しそうに安富が眺めていた。
彼はたぶん、土方のことを心から慕っているのだろう。だからこそ我がことのように喜ぶことができるのだ。もしかしたらそれだけではないのかも知れないけれど、来たばかりの兼定にはそれ以上のことはわからなかった。

兼定が土方に下げ渡された翌日、一人の男が土方を訪った。さっと袴を捌いて腰を下ろし、いやあ今日も暑いですねぇと手扇でぱたぱたと顔を仰ぎながらにこにこと笑う、ひょろりと背の高い和装の男だ。
「兼定を拝領したそうですね」
「さすが大野君、情報が早いな」
「それが私の取柄ですから」
さらりと答えた大野は、それから床の間に目を向け、刀掛けの大小を目を細めて眺めた。もちろん彼にも人の姿の兼定の姿は見えない。そして兼定自身も昨日のあれ以来、脇差の人の姿を見ていなかった。脇差の中でも少し大振りであろうその刀は、刀の姿で沈黙したままだ。
「洒落者の土方先生に似合いの拵で……容保様の御心遣いを感じられますね」
戦場で振るうための刀ならば、持ち主の好みのものである方が良いだろうと。
「我々新選組なんて、会津にとってはお荷物でしかなかっただろうになぁ」
「そんなこと、」
「今はどう思っていただいているのか知らんが、はじめは確かにそういうものだったんだよ」
――そうだ、新選組だ。
土方のその言葉を聞いて兼定はようやく、近藤という男の話をどこで聞いたのか思い出す。新選組の近藤が処刑されたのだと、報せを聞いた刀匠の兼定が残念そうに肩を落としていた。そして、土方殿はさぞかし無念であろう、と。
「本当に有難い話だ。だが、俺たちにもそうやって情をお寄せになるほど、容保様はお優しすぎる」
「それは……」
「そうするしかなかったとはいえ、容保様の戦いへの決意は本物だろう。だが城下に敵軍が攻め入れば、或いは戦が長引き、国が疲弊すれば。きっと長くは持たない」
情が深すぎるゆえに、その想いも揺れやすい。
俺が今言ったことは他言無用だと土方が苦笑すれば、大野は神妙に頷いた。他の、新選組の連中には言えないからという土方の言葉で、この大野という男が新選組外部の人間なのだと話を聞いていた兼定は初めて知った。外の人間だからこそ言いやすいこともあるのだろう。
「とにもかくにも、国境で敵軍を食い止めなければならないだろうな」
「もちろんそうしなければ、交通の要所たる会津は守れないでしょう。しかしもしも、もし万が一にも『そう』なってしまった場合、土方先生はどうするおつもりで?」
「さて、どうしようなぁ」
容保様のお気持ち次第だな、と。曖昧に答えるのはまだ答えが出ていないからか。
「近藤さんもな、そういうお人だったんだ」
なにかひどく、大切なものを呼ぶような声でポツリと呟いた土方の言葉に、大野は黙って頷いた。

その後、傷を癒して戦場に復帰した土方は結局、会津を離れることを選んだ。
それを決める際、しばらく黙って手にしていた兼定をじっと眺めていた。兼定もまた土方の顔を見つめたが、彼が何を思って決意したのかどうしてもわからなかった。
人の気持ちは、その顔を見ているだけではわからない。土方の前以外では表情に乏しい安富も、にこにこと人好きのする笑顔を絶やさない大野も、対極にあるようでどちらも同じだけわからないように。
ただ、土方は容保公から拝領した兼定を手放さなかった。それが何か、ひとつの答えであるように兼定には思えた。