「それは君が悪いな」
ばっさりと切り捨てるような歌仙兼定の断言に、そうだよなぁと日本号はため息を吐いた。
その本体たる大身の槍と同じく大柄な日本号には窮屈に感じる厨は、この本丸が出来た時からすっかり歌仙の城となっている。襷を外しながら、情けない顔をするんじゃないよと歌仙は肩を落としている大男の尻を叩いた。この本丸の初期刀は容赦がない。
「どこからどう見ても、へし切長谷部は黒田の刀だろう。その拵えからしてそうだ。あれは黒田の宝刀、安宅切と揃いの拵えなのだろう?」
ご近所であったが故か、それとも初期刀としての心得なのか。歌仙は長谷部の事情に詳しい。だからこそ日本号もこうして泣きついたのだ。
「それに彼がただ『槍』と呼んだら、他でもない君のことだ。御手杵も蜻蛉切もそんな風には呼んだりはしない」
黒田の槍といえば、最も有名な逸話を持つ日本号しかありえない。だから黒田の刀である彼にとって号など呼ぶ必要がない。ただ槍と呼べばそれで事足りる。
「そんな彼がわざわざ織田の話ばかりするなんて、少し考えれば何かあるとわかるだろうに」
「顕現したばかりで勝手がわからなかったんだよ……」
「はいはい。僕に言い訳したって仕方ないだろう。さっさとこれを持って謝りに行きなさい」
盆の上には、里芋や牛蒡、人参といった根野菜とこんにゃく、鶏肉などを煮込んだものが小鉢に盛り付けられている。夕餉の残り物を少し濃い目に味付けて、温め直してもらったものだ。それに揃いの杯が二つ並んでいる。
この礼はそのうちちゃんと返してもらうよ、と。笑って見せた相手に日本号は黙って頭を下げた。
月の見える縁側に並んで腰かけて。この前の詫びに、と日本号が用意したのは博多の酒だった。
「別に詫びなどいらないのだが」
「まあ、俺の気持ちの問題だから。黙って受けてくれや」
そうか、と答えた長谷部は黙って杯を受け取り、なみなみと酒が注がれるのを眺める。それをくいっと一息に呷って、小さく息を吐いた。
「ならば俺も謝らなければなるまい。貴様が、それほどまでに黒田に恩義を感じているとは思っていなかってからな」
「そりゃあ……」
当然だろうと言いかけた日本号は口を噤む。すべての刀剣がそれを『当然』としているわけではないことは、ここへ来て数日を経た今ならわかっていた。
人間より長くこの世に残る自分たちの、持ち主は次々と変わっていく。どの主を、どの時代を、一番に思うのかはそれぞれの心次第。自分だって、福島正則が太閤から下げ渡された槍であることを一番に重視していたら、あんな風に長谷部に食ってかかることもなかったはずだ。
「俺たちは物であるが故に、人々の想いが込められるんだろう?」
「そうだと聞いている」
「ならば俺には、主家を思う『黒田家臣』の想いが一等強く込められたんだろうよ」
「母里家は譜代の忠臣だからな」
「あー、それもあるんだが」
そうか長谷部は知らないんだな、と。杯を揺らした日本号はそれをそっと盆に戻した。
「俺はなぁ、二度呑み取られた槍なんだよ」
「二度……?」
一度目は当然、黒田家臣である母里太兵衛が、福島正則から槍を呑み取った話であろう。酒は呑め呑め呑むならば、で有名な黒田節に歌われているのはこの逸話だ。
「二度目は母里家が訳あって俺を手放した後の話、だから御一新の後のこと。母里家から出た俺を引き取ったのは、同じく黒田の旧家臣である頭山某だった」
黒田の槍を福岡の地から出すわけには行かないと、大金で買い取った頭山の家から大野某という男が、かつての母里太兵衛と同様に大酒を飲み干して槍を持ち帰ってしまった。酒の席の、酔った勢いでの出来事とはいえ、頭山は決して槍を返せとは言わなかった。言えるはずがないのだ。
「その後、死んだ大野の遺族が槍を返そうとしたが、頭山は頑として受け取ろうとはしなかった」
「それはそうだ。黒田の武士であれば、呑み取られた槍を、ましてや貴様という槍を受け取るわけにはいかんだろう」
「とは言えこの大身槍だ。武士の世も終わった後の、普通の家に置くにはちと大きすぎるからな。頭山の強情さに弱りきった遺族を見かねて、助け舟を出したのも黒田の家臣だった」
「それがお前を黒田家に納めた安川か」
「そのとおり」
かの福島正則が、黒田家臣である母里太兵衛の度胸を評して吞み取られたままにした槍。それを同じ黒田の家臣が吞み取られて、返せなどと言えるはずがない。返すと言われても受け取れるはずがない。その心情を、同じ黒田の者としてわかっているからこそ、安川は槍を主家である黒田家に納めることにした。
普段ならば天下国家を語るような者たちが、一本の槍とかつての主家のためにてんやわんやと騒いだ話。
「まあそんなこんなで、二度呑み取られたことによって俺は名実ともに『黒田の槍』になったというわけだ」
「まったく、明治の世になっても黒田の家臣は黒田の家臣だったな」
困った連中だと呆れたように呟く長谷部の、その横顔をそっと盗み見れば、口元には淡い笑みが浮かんでいる。そしてその眼差しには普段の、鋭利な刃のような冷ややかさは微塵も見られなかった。
――忘れることにした、と彼が言った黒田長政のことは、忘れようとして本当に忘れてしまったのかもしれない。忘れたふりをしているだけなのかもしれない。その本当のところは、日本号にはわからない。
どちらにしても、彼が宝刀として黒田家に大事にされながら、黒田家とその家臣たちを見守ってきた刀であるという事実は確かにそこに在った。
そもそも彼が黒田家の宝刀となったのは『織田信長から黒田に下げ渡された刀』であるからだ。彼自身の刀としての評価以上にその来歴がことさら重視され、歴代の黒田家当主もその家臣たちも彼を手に取るたびに、目にするたびに信長を意識する。
へし切長谷部には、そんな人々の思いが染み込んでいる。紛れもなく黒田の刀であるからこそ、織田信長という男を強く意識せずにはいられない。それが今の彼を形つくるものであり、彼が抱えた矛盾である。
とはいえ、矛盾を抱えていないものなどこの本丸には一振りもいないのだろう。思い悩むほどの強い想いを抱えていなければ、人の姿を得て顕現することなどできるはずがない。その想いを聞くのが審神者の力であるのだから。
「酒はぁ呑めぇ呑めぇ呑むならばぁ日の本一のぉこの槍を」
「……吞み取るほどに呑むならば」
「これぞまことの黒田武士、ってなぁ」
人の身の、その心のなんと不自由で、愉快なものか。
こうして黒田の宝刀と槍が、並んで酒を飲みながら黒田節を口ずさむ日が来るなどと、いったい誰が想像できただろう。当の本人たちですら、くすぐったく感じられて思わず苦笑を浮かべてしまうというのに。
「長政さまが見たら卒倒するだろうか」
「いや、あの方なら目を丸くしたままその場に立ち尽くされるだろうな」
そう答えた長谷部は普段の辛気臭い顔が嘘のように、笑う。それがあまりにも穏やかな笑みだったので、忘れたと言いながら全く忘れてなどいないではないか、と。敢えての指摘はしないことにした。
それもまた、長谷部の抱えた矛盾のひとつなのだろう。
(矛盾だらけで難儀なこった)
家の宝刀となるものは情が深くなるのか、それとも情が深いからこそ自然と宝刀に選ばれるのか。どちらにしても、情が深すぎる故にたくさんの矛盾を抱えてしまうのだろうと察した日本号は、空になった相手の杯にとくとくと酒を注いでやった。
2016/05/30