Free/まこはる
彼から伸ばされた手を取ることにためらいはない。
いつまでもいたいと思う水の中から自分を引き上げるのは、いつも彼の手のひらだ。それをしっかりと握りしめて陸へと上がる。水への憧憬は増すばかりで、歩くことよりも泳ぐことの方が楽だとすら思えるのに。
それでも自分は地上へと戻る。彼の手を掴んで。
ただの人になるまであと三年ほど。何がどう変わるのかなんてわからないけれど、少なくとも彼は今までどおりに隣にいるのだろうことはわかる。
彼がそうあることを望み、自分もまたそれを望んでいる。言葉にしたことはなくても、お互いにそのことをわかっているから大丈夫だと何の疑いもなく信じることができる。
そして、普通の友人ならばそんな風にはならないこともわかっている。
決して無音ではなく、けれど不思議と静かな水の中で、ぴんと伸ばした手を、身体をすべりこませるようにして泳ぎながらとりとめもないことを考える。くるりと回ってターン。壁を力強く両足で蹴り、再びストロークに入る。
タイムを計るでもなく、練習でもなく、ただただ気の済むまで泳いでいる。部活動を行う既定の時間が終了した後もまだ日が高く、明るくて帰る気になれなかったのだ。水に飛び込んだ遙に続くように泳いでいた他の部員たちも、どうやらみんな上がってしまったようだ。空の様子はわからないが、さすがにだいぶ暗くなってきたのだろう。
壁に手をついて立ち、水泳帽とゴーグルを外して見上げれば、星が瞬きはじめた夜空を背にしたいつもの笑顔がそこにあった。
「おつかれ、ハル。そろそろ帰ろうか」
もうずいぶんと暗くなっちゃったよと、八の字眉を下げた真琴はまだ水着姿だったが、渚と怜は既に制服に着替え、江と三人並んでプールサイドにいた。遙の視線にいち早く気が付いた渚が、帰ろうよーと笑顔で手を振っている。
うん、と頷いて見せて、遙は再び前を見上げた。
「真琴」
「なに?」
伸ばした手を取らずに名を呼べば、不思議そうに首を傾げる。その瞳の中に映った水面がゆらりと揺れていた。そこへ手を伸ばすように、伸ばされていた真琴の手のひらを握る。
「真琴、好きだ」
引き上げようとしていた相手はぽかんと口を開けて、掴んでいた手から力が抜ける。その手を握り返して、遙はグイと力いっぱい引っ張った。
「えっ、ちょ、うわあっ!」
バランスを崩した真琴がプールに落ちて、盛大な水飛沫が上がる。ぶつからないように身を引いていた遙は浮かんでくる真琴にするりと身を寄せて、ぷはぁと水面に顔を出した相手の両手を取った。
何事かと驚いて立ち上がっていたプールサイドの三人は、真琴の無事といつもどおりの様子に見える遙を見てほっとしたように談笑を再開した。
それを横目でチラリと見て、遙は真琴を見上げる。薄暗い中でもその顔が耳まで真っ赤になっていることがわかるほどの距離で、右手を伸ばして頬に触れる。
妙なところで察しの悪い彼だって、これが冗談や戯れの類ではないことくらいはわかるだろう。空いている遙の左手を両手で包むように握って、顔を伏せながら、だいじな秘密を見せるように小さく呟いた。
「俺も、ハルが好きだよ」
「知ってる」
「ううう……」
それならなんで今になってと小さく唸る真琴の額に張り付いた前髪を払って、濡れた髪を梳いて、遙はほんのりと笑って見せた。
「お前の腕の中は、水の中と同じくらい居心地が良い」
だからずっと一緒にいたいと。小さな声で告げれば相手は声を失ったように黙ってしまった。言い方を間違えただろうかと眉根を寄せた遥の、その剥き出しの肩に、はぁとため息を吐いた真琴が額を押し付ける。
「真琴、泣いているのか?」
「泣いてない」
ただ、嬉しくて、と。答えた声は熱を孕んだ涙声だった。