花が舞い散る中、密やかに微笑むその人をずっと見ていた。
盛岡駅は、宇都宮――東北本線が自力で行くことができる最北地だ。五月頭の大型連休、その激務の合間の僅かな時間を使って、わざわざ見に行く花がそこにはあった。
「昔は桜雲石と呼んでいたのだそうだな」
「よく、ご存じで」
新緑よりも深い緑の制服に身を包んだ男を少し上からそっと見下ろして、宇都宮は小さく笑った。そんな相手を彼の上官たる東北新幹線は視線だけで軽く一瞥する。
「お前が私に教えた」
「そうでしたっけ」
ずいぶんと昔の事で、と。笑って誤魔化しながら宇都宮は、頭上に広がる花に視線を向ける。一年に一度花開く薄紅よりも少し淡い桜は、それだけならば春の景色の一つにすぎない。けれど、かつて桜雲石と呼ばれたこの花は特別だった。
さる屋敷の庭にあった大岩に、ある日雷が落ちた。そうしてひび割れた僅かな隙間に桜の種子が迷い込み、根を張り幹を鍛え、大きく枝葉を広げ、やがて立派な花をつけるようになった。
御一新の後に屋敷の跡地は裁判所となったが、その前庭は毎年花の時期になると休日でも一般に開放され、岩を割って花開いた桜は石割桜と呼ばれて今も盛岡の人々に愛され続けている。
その一連の話を、まだ盛岡までしか走っていなかった頃の東北に語ったのは、確かに東北本線である宇都宮だった。
「あの時は貴方がまだ盛岡までで、私が青森まで走っていて。今とは逆ですね」
盛岡から先へ、八戸を経て新青森まで開通した東北新幹線と、それによって盛岡から先を切り離された東北本線。
本線、と。東北が名を呼ぶ前に宇都宮はひらりと身を翻して出入り口へと足を向けてしまう。
「駅へ戻る前に、ついでですから城の方へも行きませんか、上官」
盛岡城跡公園へはここから歩いてすぐだ。ここからまっすぐ駅へ向かっても、城に寄り道しても距離的にはそれほど変わらない。少し寄り道する程度の時間はまだあるはずだと時計を確認してから、頷いた東北は宇都宮の後を追う。
裁判所の門を出て、車道を渡ればすぐに、掘の周りに植えられた立派な桜が咲き乱れている。鳥居を抜けてどこか裏路地のような参道を歩けば、目の前に見えるのは桜山神社で、鳥居の奥には桜と、盛岡南部藩の守り岩である烏帽子岩が鎮座していた。
神社の由来も来歴も、東北の名を持つ二人はもちろん知っている。この土地の人々が愛して守ってきたものを知って、そして彼らも守るべき立場にいるのだから。
「本線」
この地で本線と言えば宇都宮のことであり、ここで宇都宮と呼ぶことは逆に憚れるように思えて、東北は静かに隣に立つ相手をその呼称で呼んだ。
「先ほどの話が気にかかりますか?」
「盛岡から先も、お前は大切にしていた」
「ええ。だからこそ、貴方のお兄さんや青い森にはがんばっていただかないと」
ただただ微笑を浮かべながら、答えた宇都宮は歩みを止めない。花崗岩を積み上げた美しい石垣の間をぬけて行けば、今は公園となっている城跡でさくら祭が行われていた。
立ち並ぶ屋台に目を向けてから、東北に視線を向ける。お好きでしょう?と、言葉にはしないがその目が笑っていた。今日は随分と上機嫌だと思いながら、東北は黙ってその背について行く。
「私の大切にしていた、私の一部が貴方の為に奪われることなど、貴方が選ばれた時からわかっていたことです」
風が吹く度に木々が揺れて、薄紅の花が舞うように降ってくる。立ち止まった宇都宮は、肩に乗っていた花片をふわりと払った。
「お前は何もかも、受け入れているのだな」
思えば、盛岡以北が切り離されることが計画に上った時から、彼が難色を示したことはなかった。複雑そうな顔を見せることはあっても、決してそれを表に出そうとはしなかった。
何もかも飲み込んで、拒絶することなくすべてを受け入れて。
「貴方がこの地の、東北の為になるのならば。私は何だって受け入れるつもりでしたから」
ゆっくりと伸ばした宇都宮の指先が、東北の短く刈られた髪先に触れた。摘みあげた薄紅の花を、東北が差し出した手のひらにそっと乗せる。
「だからこそ、手を抜くことは許しません。すべてはこの地の為に作られたものであり、その名のとおり、この東北の為に走る存在なのですから」
私も、貴方も。
そう言って微笑む彼の言葉に嘘はなく、彼自身も確かに納得している。それでも割り切ることのできない思いを、きっと今この場所で、彼はすべて飲みこもうとしているのだろう。
去年は愛でるどころか、ゆっくりと見ることも叶わなかった桜の花が舞うこの場所で。東北という地を守りつづけてきた彼から受け取り背負ったものの大きさを、今改めて東北は想う。
「選ばれたのが貴方で良かったと、どうか私に思わせて下さい」
――北の花守が見る夢は、花咲き誇れる春の故郷。