廊下にて

「総武って昔からあんな感じなの?」
 あんな感じとは一体どういうことだろうか。と言うよりも、彼のどの部分を指しての問いかけなのか。
 遠雷を響かせる夏の雨が、やや強い風によって廊下の窓に叩きつけられている。そんないつもの夕立を眺めていた東海道本線は、相手の唐突な問いかけに眉根に皺を寄せた。
 怒っているように見える東海道のその表情が、実はただ困惑しているだけなのだとわかっている京葉線は「あのね、」と問いを重ねる。
「千葉の路線ってみんなあんなに自由なのに、総武の言葉は絶対に聞くじゃない。まるで魔法みたいに」
「魔法」
 言い得て妙な表現に、東海道は小さく笑った。
 やりたい放題の千葉路線たちの中で、総武の言葉は絶対だ。それも押さえつけられているのではなく、総武の言葉に納得して自ら従っているようだった。
 千葉を走った最初の存在として慕われている、というのも確かにあるのだろう。けれどそれだけではないようにも見える。彼の何が、彼らをそうさせるのか。
「総武の言葉は、彼の真実だから」
「真実?」
 正論であってもなくてもまっすぐに、的確に相手を射抜く。それは彼の信念がはっきりとしていて、どんなことがあっても言動がブレないから。尚且つ、対峙する相手のことをよく見て、その本質を掴むことができるからだろう。
「主義と言動が一致していて、言われた相手が反論できないような核心を突くから説得力があるんだよ」
 思えば彼は初めからそうだった。自分自身の、若気の至りとも呼べるような過去を思い出して苦笑を浮かべる。少なくとも京葉が生まれるよりはるかに昔、自分が顔を見るようになった時には既に、今の彼は完成されていたように思う。
 まだ総武本線が両国止まりで、千葉にはまだ房総と呼ばれていた外房と成田くらいしか走っていなかった頃のことだ。

 てってってっと走っていた青年は、しまったという顔をして急停止する。力強く踏みしめた足元で、廊下に張られた板がギシリと音を立てた。
「あ、はは。東海道本線サンじゃないッスか」
「何故それを貴様が持っている?」
 問われた房総線が手にしている隠しようもない長さの黒いそれは、東海道の腰にあるものとほとんど同じ拵えの一振りの日本刀。本線格の路線だけに下賜されたものであり、千葉を走る一路線である房総線の手元にあるはずがない。
「えーっと、ですね……」
 あれこれは言っちゃったらマズいんじゃないか?という思考を丸出しにした顔で、房総は目を泳がせて言葉を探す。数年前、総武と共に国有化されるまで直接の接点はなく、その後も稀にしか顔を合わせることのなかった天下の東海道本線を相手にどのような対応をすれば良いのかわからない。
「答えろ房総」
「忘れたから持って来てもらったんだよ」
 背後から声が掛かる。房総に背を向けて東海道が振り返れば、小柄な体躯にぴったりとは言い切れない国鉄の制服をまとった総武本線が、京浜線と共にこちらに向かって来ているところだった。
「忘れた、だと?」
「こんなもん、持ち歩いたことないからな。たまに忘れちまうんだ」
 東海道の表情が険しいものになっていくのを気づいているのかいないのか。こわいこわいと房総の隣に立った京浜は、総武の刀を手にしたまま困り果てている房総に肩を竦めて見せた。本線同士の会話に口を挟んだところで面倒なとばっちりを食うだけだ。しかし、
「これだから私設の出身は困る。国の鉄道としての自覚が足りない」
「っ、東海道!」
 さすがにそれは言い過ぎだと京浜が止める前に、総武がははっと笑ってその跳ねっ毛の先を揺らした。ここで笑う意味が全くわからないと、刺すような視線を向けたままの東海道を総武は下から鋭く見上げる。
「自惚れてんじゃねぇぞ、東海道」
「どういう意味だ」
「どうもこうも、そのまんまの意味だろ。ちゃんと自分のまわり見えてっか?」
 総武が挑発するかのように首を傾げるのと、東海道が抜刀するのとが同時だった。背後の京浜が咎めるように二人の名を呼ぶが、それを聞くつもりはどちらも持ち合わせていない。
 美しい太刀筋で振り下ろされた東海道の刃を、総武はひょいと避けてみせた。一歩、二歩と踏み出しながら繰り出される白刃は、狭い廊下だというのに何故か総武に擦りもしない。
 威嚇、或いは軽く傷をつける程度のつもりだったのに余りにも思うようにいかない状況に苛立ちを隠せなくなった東海道は、顰め面のまま一度後ろに下がり、大きく踏み込んで上段から勢いよく振り下ろした。
 けれどその速さを感じさせないほどの軽い動作で躱した総武が、大きく刀を振り下ろしたことでできた東海道の隙を突いて彼の真横に迫る。素早くやわらかな動きで膝を曲げ、そこから伸び上がる勢いを使って握りしめた拳を相手の顎へと叩き込んだ。
 ゴッと鈍い音が響いて、東海道は板間の廊下へ強かに背中を打ち付けた。その横にカランと彼の愛刀が転がる。
 ふぅっと息を吐いた総武はひらりと両手を上げて降参のポーズを示す、その鼻先には別の刃が突きつけられていた。
「悪い、やりすぎた」
「どちらかと言えば、やりすぎたのは東海道の方だけどね」
 そう言って苦笑を浮かべながら京浜は、総武に向かってまっすぐに構えていた刀を降ろした。房総が持ったままだった刀を京浜が引き抜いて、東海道を殴り飛ばした総武に向けたのはほんの一瞬の出来事。
「てめぇの方がよっぽど油断ならねぇな」
「そうかな?」
 隣で硬直している房総から鞘を受け取った京浜は、思わず見惚れてしまうような動作で手早く刀を収めた。キンと軽い金属音を立てたそれを、元の持ち主に差し出す。
「東海道にはよく聞かせておくけど、これはきちんと扱ってくれないと困るよ」
「誰が?」
「他の路線たちが。これは本線としての、責任の所在を示すものでもあるから」
「そっか。そうだな」
 それもそうだと素直に頷いた総武は差し出された自身のための刀を受け取って、これからは気をつけると言って笑う。――それから総武が帯刀を忘れたことは、その刀そのものを返上するまで一度たりともなかった。

 冷たい水にさらして硬く絞った手ぬぐいを差し出す。険しい顔をしたままそれを受け取って、じわじわと痛む顎に当てた東海道の隣に京浜は腰を下ろした。
「総武の言うことにも一理あると思うんだよね」
「お前も俺が自惚れていると?」
「自惚れと言うよりは過信と言うべきかな。君は確かにこの国の大動脈だけど、国を背負っているのは君だけじゃないってこと」
 恐らく総武が言わんとしていたのも同じことだろう。彼の言うとおり、己のまわりの様子をきちんと見ていればわかるはずのことなのだから。
 総武本線は千葉県を最初に走った鉄道だ。利根川系の水運が栄えていた千葉において、その鉄道計画は容易なものではなかった。
 何度も嘆願を重ねて、水運と競合しないよう内陸部へ向かう路線へと計画を変更し、更には津田沼・千葉・佐倉といった点在する軍事施設を結ぶことで軍部の後押しを得ようとした。その結果生まれた総武鉄道は、過去二度の外征でも、近くを走る陸軍の演習線などと共に軍事的に利用されている。
「総武だけじゃない。国有化した鉄道も、しなかった鉄道も。国のために、この国で生活している人々のために走ってる」
 本線に与えられた刀が象徴するのは、力と、権力と、それ以上の責任。誰よりも前に立ち、何があっても走り続けることをその背に課せられた証。
 そしてその頂点に立つのが、三都を結ぶ東海道本線であることは確かなのだが。
「俺たちだって、刀なんざなくたって、最初から覚悟持って走ってんだ。てめぇ一人で背負っていると思うんじゃねぇよ」
「………………」
「総武からの伝言。まあ、つまりはそういうこと」
 国鉄であるとか私鉄であるとか、本線だとか支線だとか、そんなことは一切関係なく。走ると決まったその時その瞬間から、誰もが覚悟を決めて走っている。
 この国に初めて列車が走った時と、同じように。
「だいたいあんなこと東北本線に言ってみなよ。殴られる程度じゃ済まないよ」
「容赦なく斬り捨てられるか、或いは軽蔑しきった一瞥をくれるだろうな。いや、今回は完全に俺の失言だった」
 珍しく反省している様子の東海道本線は、苦い顔でまだ赤い顎を撫でる。総武の強烈な一発が余程効いたものと見えた。
「しかし井上さんにも殴られたことないっていうのに……」
「そりゃ、雷親父どのも僕らには甘いもの」
 だからこそ、あの廊下での出来事が必要だったのだと京浜は思う。他でもない、東海道自身のために。
 総武はきっとそれに気づいていた。あれは東海道本線に対する彼なりの警告。それに東海道が過剰な反応を示したのは、どこかで自覚があったからだろう。
「仲間が増えると面白いね」
「クセの強いやつばかり集まりやがって」
「それはだって、ほら、本線様だもの」
 言外に込められた「君も大概だよ」という京浜の声を聴きとって、東海道本線は苦虫を噛み潰したような顔で口をへの字に曲げる。
 反論はできなかった。

 

 

フェイシャン発行『本線本』寄稿