「でもそれって、君たちの本心ではないんでしょ?」
やわらかなソファや高そうなカップに注がれた紅茶の香りにもそれなりに慣れてきた頃に、相手からそんな風に言われて浅草は苦笑を浮かべた。
「上の意向には逆らえません。だって俺たち公務員だから」
「その意向だって一枚岩とは呼べないじゃない」
「まあねぇ」
そりゃそうだと続けながらカップを戻した浅草は、降参とでも言うように両手をぐーっと上に伸ばした。それを見ながら銀座はにこやかに笑っている。それはいつもと変わらない光景だった。
都営地下鉄と東京メトロの統合の話は、発表された最初の頃ほど世間に取り沙汰されることが少なくなった今でも地味に会合が続けられている。都営地下鉄浅草線が東京メトロ銀座線の元を訪れたのもその会合の一環だが、その対話の内容のほとんどは雑談だ。
ただ、統合云々と利用者の利便性向上が別問題であることは両者とも理解している。そもそも統合の話が出たのはその本意がどこにあるにしろ、別会社であることによって利便性が損なわれている事実が現実問題としてそこにあるからだ。そのことについては両者が協力して改良していかなければならない。
だから、こういった話し合い自体は決して無意味なものではなかった。もちろん結果が伴われなければ意味を成さないものであることを、一応どちらも認識はしている。
「まったく銀座様には敵わないなぁ」
「君に勝つつもりなんてあったの?」
「勝つように言われていたこともあったなぁって」
浅草が走るのは都電時代にドル箱と呼ばれたルート、を、ほんの少し外れた場所だ。しかし銀座のバイパスも兼ねる彼の収益は当然銀座に及ばない。
そして今はそれどころではなかった。というか、複雑怪奇と化している乗り入れ運転を捌くだけで毎日が手一杯だ。もう慣れたこととは言え、わずかな油断が一都二県を巻き込む大混乱を招いてしまう。
「でも君が1号線じゃない」
「銀座様に言われると緊張しちゃうな」
便宜上でしかないナンバリングの順番など大した意味を持たない。路線愛称が決まるまでの仮称のようなものだ。特に、当初の計画どおり地下鉄⒔号線が東京メトロ副都心線として開業を果たした今、そのナンバリングそのものが意味を持たなくなっている。
「俺は名前ばかりの1号線だよ」
だいぶぬるくなってしまった紅茶に口を付けて、浅草は静かに笑って見せた。見慣れないその笑い方に、銀座がそっと目を細める。
「京急と京成にとっては都心乗り入れのための代替策。都にとってはそれこそかつての市電の代わりでしかないんだから俺は。あんたも本当に憎みたかった相手の代わりにでも何でもするといいさ」
例え何かの代わりだったとしても、必要とされることには変わりないのだから。そのために東京地下鉄の1号という名を背負うのも悪くない。
「とまあ、そう思っていた時期が、俺にもありました」
「あれ? 今は違うの?」
「今はそんなことを考えなくても良くなったからね」
あははと笑って行儀悪く紅茶を飲み干した浅草は、ひょいっと立ち上がった。
「さて、そろそろ仕事に戻らないと大江戸に怒られる」
「相変わらず、君はいつも楽しそうだね」
「何だって、楽しまなきゃもったいないからね」
そうだろう銀座、と。いつかのようにへらりと笑ってみせた浅草に、今なら同意できると銀座は小さく頷き返した。
「仲間ができると丸くなるものなんだなぁ」
「それは誰のことを言っているの?」
「もちろん! ……浅草のことだぞ?」
な? と笑った丸の内にそれ以上は追及せず、銀座は浅草が出て行った扉に目を向けた。
「仲間ができたからって、それだけじゃ変わらないよ」
それはあくまでも銀座の直感でしかなかったが、本質を突いている自信はあった。
彼と自分は、きっと同質の存在だから。
*
「……、なんだそれ」
呆然と聞き返したのはその言葉の意味を正しく理解したからなのだが、相手はそうと受け取らなかったらしい。ひらりと紙切れを一枚手にして、先ほどと同じ言葉をもう一度繰り返した。
「だから白紙だって。乗り入れの話」
「何故そうなったか聞いてる! だってオレは……!」
「だよなぁ。6号線は乗り入れの為だけにオレと軌間も車体も、検車場まで変えたんだもんなぁ」
狭い事務所には二人きり。東京都が運営する唯一の地下鉄として都営地下鉄線と呼ばれていた男は、続く計画で路線が増えることになったことから1号線と呼ばれるようになり、新規計画路線は6号線と呼ばれることになった。
都が戦前から切望していた自前の地下鉄である1号線は、千葉を拠点とする京成電鉄と、神奈川を拠点とする京浜急行電鉄を都心で繋ぐための路線でもある。そのため線路は国内における軌間としては一般的な狭軌ではなく、京急と同じ標準軌を採用し、その他の規格も同じように京急や京成と揃えていた。
その当初の計画で1号線と一部区間と検車場を共有する計画だった6号線はその後、東武鉄道、東京急行電鉄と乗り入れ運転をすることが決まり、東武と規格を揃えることになったため線路も狭軌を採用。その結果、1号線との乗り入れが不可能になったので、検車場もわざわざ別に用意することが決定されていた。
これまでにそういった経緯があって、すでに準備が進んでいるにも関わらず。
「でもダメなんだって」
「聞いてない!」
「だって今言ったし」
「1号線!」
ふざけるなと非難の声を上げれば、いつの間にか6号線に対して背を向けていた1号線は、顔を見ないまま「うん」と素直に頷いた。
「あのさ、」
言おうか言うまいか、少し悩むように言葉を濁した後、今ここで伝えなかったとしてもどうせいずれは知ることなのだと諦めたように1号線は口を開く。
「営団に8号線ってできるでしょ? あの方がいいって東武さんが言ってきてね。東急さんは東急さんで自分の路線を繋ぎたいんだって」
「馬鹿言うんじゃねぇよ! じゃあオレは!」
「軌間変えちゃったしオレともどうともできないし、一人でがんばってもらうしかないなぁ」
一人で、の言葉にやけに力を入れながら、振り返った1号線は立ち尽くす6号線の両肩をぽんっと叩いた。
「そんな訳で、一人でも強く走っていくんだぞ! 都営6号線! 頑張れ!」
「何をどう頑張れって言うんだ!」
ほとんど悲鳴のような悲痛な声を上げて、6号線は相手のシャツの胸元を掴んだ。目の前の相手が悪いのではないことは6号線にもわかっている。彼はただ事実としてそこにある現実を自分に告げただけだ。それでも、やり場のない思いを一人で黙って抱え、相手にぶつけずにいることはできなかった。
必要とされて計画されたはずなのに、その計画を白紙にされて。
「俺は不要なのか。必要とされないのか。だったら走る意味なんてあるのか? 俺がここにいる意味はあるのか? 答えろ、1号線!」
「……そんなの、走ってみればわかるさ」
縋りつくような、そのまま崩れ落ちそうな相手の黒髪をわしゃわしゃと掻き乱し撫で回して、何故か諦観したように笑いながら1号線が答える。その腕の中で6号線は訝しげに眉を顰めた。
「お前は、必要とされているんじゃないのか?」
東京都に。そして、乗り入れ相手である大手私鉄に。
「ある意味ではそうなんだろうねぇ」
はっきりとしない答え方は彼お得意のもので、それ以上は何を聞いてものらりくらりとはぐらかされてしまうだけだった。
*
それからしばらくの日々は、都営6号線こと三田線にとってひどく曖昧な記憶になった。乗り入れ計画が白紙になっても計画通りに建設工事を進めていくしかない三田を、都営1号線こと浅草線が毎晩のように連れ出し、足元も覚束なくなるほどに呑み歩いたからだ。
その浅草線も未だ全線開通を迎えてはおらず、未開通部分の工事と順次開業した部分の運行と、更に乗り入れ運転とをこなす毎日。暴挙に近い浅草のその行いに気付いて、苦言を呈したのは同じ地下鉄仲間ではない隣人だった。
「てめぇが倒れたら元も子もねぇだろ」
「まあ、そうなんだけどね」
国鉄総武線に見上げられながら、その鋭く突き刺すような視線に浅草は肩を竦める。千葉県を走る路線にとって兄貴のような存在である総武線は、浅草の直通運転先にとっては最大の競合相手だ。けれど浅草自身が彼のバイパス路線としての性質も持っているためか、何かと目にかけてくれている。
同じ地下鉄であっても微妙な関係に立たされている営団――かつて東京地下鉄道と呼ばれた男やその仲間に対しては、相談はおろか声をかけることすら憚ってしまう雰囲気があった。というか、この国における最古の地下鉄道は、なんというか、こわい。
「元々酒には強い方だし、オレが飲むっていうよりあいつに飲ませてるって感じだから、それほど無茶はしてないよ?」
「そりゃ、てめぇがそれでいいって言うならオレはこれ以上なにも言わねぇけどよ」
所詮は他社の路線だ。話し相手になったり助言をしたりすることはできても、それ以上の何かをすることはできない。そして直通運転を行っていても他社であることに変わりはなくて、だから京成や京急といった乗り入れ先も、浅草や三田のために何かができるわけではなかった。
けれど、だからと言って同じ会社のものだから何ができるのかといえば。
「オレは三田に、何もしてやれない」
どうしようもない現実に対してどうすることもできずに荒れている三田に、浅草は何もしてやることができなかった。酒の力を借りて酔い潰して、少しでも現実を忘れさせるくらいのことしかできない。
「それでもあいつにはお前しかいないだろ」
「違うよ、総武。オレにあいつしかいないんだ」
たったひとつの都営地下鉄線として開業を目指す日々の中で計画された、彼の存在がどれだけ浅草の救いとなったか。一人ぼっちではないということが、どれだけ心強いことだったか。
改めて口にしたことはないが、浅草にとって三田は大きな存在だった。
「それはあいつも同じことじゃないのか?」
「三田は最初からオレ以外にも必要とされているんだよ。そのことを忘れているだけだなぁ」
開業して走り出せばきっと思い出す。だからあんな風にひどく荒れているのは今だけだよと苦笑してみせた浅草に、今度は総武が諦めたように肩を竦めた。
*
最近の三田は黒いサングラスをかけている。完全な職務規定違反だったが誰も何も言わなかった。ただ浅草だけが「似合わなーい」とからかった程度だ。
以前は吸わなかった煙草も始め、いわゆるグレた状態なのだろうが、別に悪いことをするわけでもなくできるはずもなく、きちんと仕事はこなしている。荒れた感情の行き場がないだけなのだろうと、周囲は腫れ物を触るような扱いを続けていた。
「でもさ、三田。もうそろそろ良いんじゃないか?」
その日も酔いつぶれた三田を官舎まで運び、ふとんに転がした浅草がふとそんなことを言い出した。
「何が良いって言うんだ」
「直通の計画があったことなんて忘れちゃいなよって話」
「裏切られたことを忘れろってか?」
今やすっかり定着してしまった眉間の皺を深くして、不快げに声を荒げ始めた三田を宥めながら浅草は続ける。
「最初の計画を忘れてるよ三田。お前、元々直通のためじゃなくて、何かの代わりでもなくて、ちゃんと必要とされて計画されたじゃないか」
オレとは違って。そう言って笑う浅草の何かを諦めたような顔に三田は覚えがあった。思えばこの話をする時の彼は、いつもそんな風に笑ってはいなかっただろうか。
「お前だって必要とされているじゃないか」
「うん。でもオレは代わりでしかないからさ。京成と京急の都心延伸のための代替案で、複数の混雑路線のバイパスで、なくなった市電の代わりだよ」
何かの代わりとして必要とされる存在。それは本当に、必要とされているのだろうか、と。
「ふざけるなよ、浅草!」
声を荒げて、いつかのように相手のシャツの胸ぐらを掴む。以前は自分自身の行き場のない感情のためにした行為だったが、今は自分のためではなく、他でもない浅草のために三田は憤っていた。
「三田……?」
「オレには、お前しかいなかった」
決して何かの代わりなどではなくて。
路線としては三田駅で接続するだけの存在であっても、同じ会社に属していて、自分のために同じ立ち位置から考えようとしてくれる相手など、三田にとっては浅草しかいなかった。
どうすることもできない現実に対して、一人で抱えれなくなってぶつけた感情を笑って受け止めてくれたのは誰だったか。自分は何もできないと言いながら、毎晩飽きもせずにいつまでも愚痴に付き合ってくれたのが誰なのか。
「お前はお前で、それ以外の何ものでもないだろ」
少なくとも三田にとっては、6号線と呼ばれた最初からそうだった。そして多少の変更があったとは言え計画どおりに全開業した今、直通相手にとっても利用者にとっても、浅草線はなくてはならない存在となっているはずだ。
何ものにも変えられない、それ以外の何ものでもない、ただひとつの存在。
「そうだなぁ」
手を伸ばして、相手のサングラスをひょいと取り上げる。黒いレンズが隠していた、存外に優しい三田の両目を見つめながら、浅草はくしゃりと笑った。
「たぶんオレはずっと、その言葉が欲しかったんだ」
ありがとう。小さく呟くような浅草のその声に、三田は照れて赤くなった顔を隠すようにそっぽを向いた。
十年先も百年先も。きっと隣で一緒に走っているはずの相手が三田で良かったと。
ぼんやりといろいろなものを諦めていた浅草は初めて、己の未来を描いて笑うことができた。
「やっだなぁ、そんなにこわい顔しないでよ銀座様」
帝都高速度交通営団の事務所を訪れた浅草線が手にしていた紙の束を見て、銀座線は顔を歪めた。その顔に思わず苦笑を浮かべたものの、怯むことなく浅草は銀座の前に腰をおろす。
「僕は君のことが嫌いなんだ」
「知ってるよそんなこと」
その尖りきった棘を隠そうともしない銀座の言葉をさらりと笑って流して、浅草は書類をサイドテーブルに置いた。
「オレを嫌いでも何でも良いから、三田とのことは了承して欲しい」
当初の計画から路線や経由などは変更されたものの、再び三田線に持ち上がった東急との直通運転計画には営団も関係している。
新たな計画がまた潰えてしまうことがないように、浅草は忙しい業務の合間にこっそりと動き回っていた。
「それじゃあ、そういうことで」
あんまり油を売っていると三田や新宿に怒られてしまうからと、笑いながら立ち上がった浅草に憮然としながらも銀座は声をかける。
「最近の君はいつも楽しそうだな」
「何だって、楽しまなきゃもったいないからね」
そうだろう、東京地下鉄道さん、と。そう言ってへらりと笑ってみせた相手は、諦観した空気を漂わせていた、都営地下鉄線と呼ばれていた頃の彼とは確かに違っていた。
「上の都合に振り回されて、それでも君はそんなことが言えるのか?」
「そうだよ。だって、」
――オレたちはもう、一人ぼっちじゃないのだから。
そのことに、今は気づくことができたから。