軍師

 火を放った船から這々の体で陸地に上がった兵の、そのほとんどが無傷とは呼べない状態だった。そもそも重傷のまま敵兵に囲まれた主君救出のために無茶をした上での、ここまでの行軍である。誰もかれもが満身創痍だ。
 それでも中には、比較的まだ元気な者もいる。くるくるぱたぱたと忙しなく立ち回りながら負傷兵の手当を手伝っている姿を目敏く見つけて、曹仁は己の傷に響くのも構わずいつものように声を張り上げた。
「于禁! 楽進!」
 名を呼ばれて素早くと曹仁のもとへ走り寄り、その目の前でさっと膝をついた二人の動きを見て、やはりこの二人なら大丈夫だろうと曹仁は確信する。
「お前たち、単独で本陣まで走れるな?」
「で」
「こんな時にまでですが、を言うな!」
 再び声を張り上げたために脇腹の傷に響く。イテテと片手で傷口を押さえながら、しかし少しでも早くしなければならないと曹仁は顔を上げた。
「本隊のことは気にしなくて良い。夏侯惇がいる。それよりもお前たちは今すぐ急いで本陣へ向かい、荀彧に孟徳の――丞相と夏侯惇の無事を知らせて来い」
「曹仁、お前」
 少し離れた場所で聞いていた夏侯惇が驚いたように馴染みの名を呼ぶ。ここにあの軍師がいない理由に、夏侯惇はまだ考えが至っていなかった。もちろんそれがあの軍師の立ち位置であると、それが自然なことだと無意識に納得していたからでもあるのだが。
「お前らのせいで、孟徳を助けるためだけにあいつはひとり、本陣の留守を引き受けてるんだ。真っ先に知らせてやらんといかんだろうが。お前たちも、わかったか!」
「はい!」
「ならば行け!」
「はっ!」
 走り出した二人を見送り、やっとまともな返事を返したなばかもんが!と怒鳴って再びイテテと傷口を押さえた曹仁の背を、夏侯惇はバンと音を立てて叩いた。
「痛ッ……何をするんだばかもんが!」
「ありがとな、曹仁」
 小さな小さな夏侯惇の感謝の声に、それは荀彧に言ってやれと曹仁はため息を吐きながら返した。今頃、呉の本隊が本陣へと向かっているはずだ。重傷者を抱えた自分たちの帰陣はそれに間に合わないだろう。つまり、留守を引き受けている荀彧がひとりで敵軍の本隊と対峙することになる。
 彼のことだから間違いはないはずだ。けれど不安でない筈がない。全兵に曹操の救出を命じた時の彼の、迷いと決意を知っているのは曹操でも夏侯惇でもなくその場にいて彼を見ていた曹仁だった。だからこそ今は曹仁が命じなければならない。
「全兵、支度が整い次第、本陣への行軍を始める! 帰陣するまでが戦闘だ! 気を抜くんじゃないぞ!」
「「「ですが!」」」
「だーかーら! 何故ですがを言うんだばかもんがーーー!」
 曹仁の絶叫に、兵たちだけでなく夏侯惇も、深手の傷と出血で意識がやや朦朧としている曹操や張遼も思わず笑ってしまう。いつもどおりのその空気に、敗戦によって兵たちに広がっていた澱んだ空気が払拭されるのを感じた。
 やはり曹仁がいないとダメだな、と。弱々しくも笑って見せた曹操の言葉に同意しながら夏侯惇が立ち上がる。
「さっさと帰るぞ孟徳。急いで知らせたところで、お前の顔を見るまであいつも安心できんだろう」
「軍師っていうのはそれが仕事だからなぁ。だから、あいつなら大丈夫さ」
 疑うから、策を立てる。それでもやはり、より早く知らせておけばその判断を誤ることはないだろうと。
「ずいぶんと信頼してるんですねぇ」
 よろよろと立ち上がった張遼に言われて、夏侯惇に支えられながら立っていた曹操はいつものように不敵に笑って見せた。
「当たり前だろう。俺の選んだ軍師だ」


2013/9/26初出