子守唄

「張遼様!」
 野営の準備を終えてさあ寝るぞ、という時に出鼻をくじかれる形になった張遼はムッとしたまま顔を上げる。その眼光の鋭さに、まだ年若い兵がヒッと声を上げて後ずさった。
「ああ、すまんすまん。どうした?」
 どうやら自分が思っている以上に疲れているようだと反省しつつニッと笑って見せれば、あ、はい、それが、と兵は報告を続ける。兵に恐れられるのは戦場にある時だけで良い。普段はそれなりに、一兵卒の話を聞ける将でなければ小さな綻びから軍は崩壊する。
「姜維殿が、どうも寝ておられない様子で」
「あの小僧が?」
 よくわからない理由で押し付けられた、一見すると青年にしか思えない子供がどうしたと言うのか。聞けば、毎晩与えられた閨に戻らず一晩中哨戒を続けているのだという。
「一時的な仮眠は取っておられるようですが、もう三日はまともに寝ていないかと」
「あの馬鹿」
 吐き捨てた声には、苛立ちよりも困惑が混ざっていた。どういたしましょうか?と兵に問われ、報告ありがとさんと肩を叩いて労う。そうして立ち上がった張遼が自らどうにかするつもりなのだと察して、拱手で応えた兵は姜維の居場所を伝えて下がった。
「なんで俺がこんなことをしなきゃならないんですかねぇ、丞相」
 ここにはいない主君に文句を言いつつ、しかしこのまま放っておくわけにもいかない。彼は一応魏軍の武将であり、彼の進退はこの部隊の士気にも関わる。溜息を吐きながらも先ほど聞いた彼の居場所、野営地から一番近い哨戒場所へと張遼は向かった。
 ――兵たちが気づいた彼の異変に自分が気がつかなかったのは、病み上がりの身体に連日の戦闘が響いているというのもあるが、自分が彼から目を逸らしていたことも要因であろう。
 己を従わせるために母を捕らえた曹操を恨みながら、けれどどうすることも出来ずに従っている。そんな彼の姿を自分に見せつけるのが、曹操と荀彧の意図なのではないかと張遼は疑っていた。
「おーい姜維、閨に戻れー」
「哨戒中だ。戻らない」
 そう言って背を向けて、更に野営地から離れようとする姜維にやれやれと息を吐いた張遼は剣先を向けた。
「そんなもの俺は命じてないぞ? 戻らないのなら命令違反として本隊に、丞相に伝える」
「チッ」
 舌打ちをしながらもようやく向き直った姜維の目を見て、どうしてこれに気がつかなかったのかと張遼は自分の失態を悟った。ギラギラとした目は新入りの若い兵にありがちな、連日の戦闘による強い興奮状態にある時のものだ。そのせいで寝付けなかったのだろう。
 野営地に連れ戻した姜維を簡素な閨に押し込める。青年くらいに見えるこの子供は、信じられないことにまだ六歳でしかない。子供のあやし方などこの張遼が知るはずもない。子守唄でも歌ってやれば良いのだろうかと考えて、ふとひとつの旋律を思い出した。
 子守唄かどうかも定かでは無いし、そもそもうろ覚えだが無いよりはマシだろう。
「俺が歌ってやるからさっさと寝ろ」
「そんなものいらない!」
「お前が寝るまで続けるぞー」
 狭い閨に横になった大きすぎる子供を布でくるんだ張遼は、その隣へ己の長身をねじ込むように横たわった。とんとんとゆっくりとした調子で相手の背を撫でながら、他の兵たちの迷惑にならないよう小さな声で歌い始める。
 はじめは不快げな顔をしていた姜維は、その歌を聞いて驚いたように張遼の顔を見つめた。それからどうでもよくなったのか、諦めたように目を閉じた。
 よほど疲れていたのだろう、すぐに小さく寝息を立てはじめた子供を眺めながら、ああこれはやはり子守唄だったのだと張遼は確信した。これは以前、孔明の元へ向かう途中の野営地で、見張りの番に立つ張コウがぼんやりと歌っていたものだ。
 静かで、やわらかで。けれどどこか物悲しいその旋律は、決してそれほど多くの回数を聞いたわけではないのに何故か張遼の耳に残った。これは彼女の、周瑜の故郷で歌われる子守唄だったのだろう。
 彼女は何を思って、紛うことなく敵である自分の隣でこの唄を歌っていたのだろうか。無意識のものであったことは確かなのだが、もう彼女自身にそれを聞くことはできそうにもなかった。
 この子供も彼女のように、いずれ向こうに、あの劉備の側に行くのかもしれない。その方がこの子供の為になるのだろうと何の根拠もなく張遼が考えていると、もぞりと動いた姜維がすり寄るようにして身を寄せてきた。無意識の甘えなのだろうと察して、張遼は今夜一番深い溜息を吐く。
「あんまり情を、移させるなよ」
 けれど疲れきった身体では、健やかに繰り返される寝息とあたたかな体温に簡単に負けてしまって。
 張遼もまた、ゆっくりと目を閉じた。

2013/9/18初出