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つむ鴨とかけ隼。酒を飲みながら昔話に花を咲かせる本。
2018.08.26発行 詳細:紫雨文庫・BOOKS
賑やかで騒がしい声が障子越しに聞こえる、縁側で休んでいた沖田は隣に座る横倉を気の毒そうに眺めた。今夜は月が丸いので、夜闇の中でも相手の顔が良く見える。
「せっかくの酒の席なのに。俺のことはいいから戻りなよ」
「いえ、そういうわけにはいきません。様子を見ているように命じられましたので。その、……斎藤さんに」
「それ、絶対俺に言うなって言われたでしょ」
「はい……」
けれどもそうでも言わなければ戻されてしまうし、戻れば斎藤に睨まれてしまう。困りきった様子の横倉に気が付いた沖田は、ごめんごめんとその肩を叩いた。
「まあ、部屋の中は人が多くて暑いし。ここでしばらく、一緒に涼もうか」
そうすれば斎藤にも顔が立つだろうと、沖田の言葉に横倉はそっと胸を撫で下ろした。それから、裸足のまま庭に投げ出している相手の足元へ視線を向ける。
「転んでぶつけた脛は、もう大丈夫ですか」
「大丈夫大丈夫。膳を思いっきりひっくり返したけどね。すごい音だったけどね。いやぁ膳が空になってて良かった」
ここの料理はとても美味しいから、無駄にしては勿体ない。そう真面目に話す沖田に対して、そういう問題だろうか、と首を傾げつつも横倉は大人しく「そうですね」と同意した。
「俺は飲まないけど、酒の席は好きなんだ。だってみんな楽しそうでしょ?」
「楽しそうと言うか酒を理由に騒ぎたいだけにも見えると言うか……」
「おや、横倉くんは結構毒吐きだね?」
「いやいやいやいや、決してそういう意図はないです!」
両手をぶんぶんと振りながら否定する横倉に、そういうことにしておこうか、と猫のように目を細めて笑う。
「酒の席で楽しそうなみんなと、一緒に居たいから。喧嘩とかして欲しくなくて」
「だから、わざと転んだのですか」
「うん、どうしてそう思う?」
「沖田さんは酒の匂いに酔ったと言いましたけど、全くそのようには見えなかったので」
むしろ敢えて飲まないだけで、本当は酒に強いのではないか。そう続けようとした横倉は沖田にじっと見つめられて、口を閉ざした。
酒の席でなくてもよくあることだが、今夜も斎藤と島田が言い争いになりかけていた。と言うよりも、土方に聞こえるように日頃の文句を言うも全く相手にされないことで不機嫌になっていた斎藤の神経を、島田がその生真面目さで逆なでしていたと言う方が正しい。まるで水と油のような二人だ。
辛抱しきれなくなった様子の斎藤が腰を上げかけたところで、ちょっとお手洗い、と言いながら沖田が先に立ち上がった。そして盛大にすっ転んだので言い争いどころではなくなってしまったのだ。
――沖田は新選組を、そこにいる人々をよく見ている。いつも楽しそうに笑いながら。本当に好きなのだろうと、新参の横倉でもすぐにわかるほどに。
「俺も、酒の席は好きです。もともとはそんなに好きじゃなかったけど、ここに来てから変わりました」
「ね。楽しいよね」
「沖田さんとこうして、ゆっくり話すこともできますし」
「そうかー。屯所というか道場だとどうしてもねー、厳しくなっちゃうからねー」
「はい……」
稽古の厳しさを思い出して口元をきゅっとさせた横倉の顔を見て沖田が笑っていると、廊下の左右からどたばたと慌ただしく走ってくる足音が聞こえてきた。
「沖田さん、羽織です!」
「沖田さん、ひざ掛けです!」
それぞれ手にしたものを同時に差し出した中島と市村が、互いの顔を見て首を傾げる。やかましいなと眉を顰める横倉の隣で、それどうしたの? と不思議そうに沖田が尋ねた。
「肩を冷やすといけないからって近藤局長に頼まれて」
「僕は土方さんに頼まれました。縁側は肌寒いだろうからひざ掛けでも持って行けって」
「……愛されてるなあ、俺」
新選組に。誰にともなく零した沖田の呟きに、横倉がそっと言葉を返す。
「沖田さんが誰よりも愛しているから、じゃないですか」
「ふふ。近藤さんと土方さんには負けるよ。あ、はじめには負けないけどね」
「誰が何だって?」
沖田の背後の障子がすっと開いて、呆れた様子の斎藤が猪口を片手に顔を出した。その姿を見て沖田以外の三人が反射的に後ずさりしたのを、ちょっと面白そうに眺めながら沖田の前に腰を下ろす。
「酔いは覚めたか?」
「すっかり」
「それならもう中に戻れ。横倉、市村、中島。島田が潰れたから介抱してやれ」
「あー、はじめが潰したんでしょー」
言い合いながら仲良く並んで近藤と土方の元へ向かう、二人の背中を眺めた横倉たちは顔を見合わせる。それから慌てて追いかけた。
*
雪でも降り出しそうな曇天の下、そういえば、と思い出したように口を開いた斎藤の吐き出すその息が白い。
けれどもここは東京で、二人が経験した北国の冬の寒さはこんなものではなかったと、斎藤の隣を歩く山川はぼやけた灰色でしか思い出せない景色の記憶に蓋をする。
「この前、大山が来た」
寒さとは対極にいるような男の名前に、はあ、と気の抜けたような声が出た。それからぴたりと足が止まる。
「待ってください。来たって、どこに」
「うちに。夜中に酒持って来て飲んで酔って、ぐーすか寝て帰った」
「サイトウハジメの家で……」
「そう。サイトウハジメの横で」
山川の言い方がおかしかったのか、面白そうに笑いながら返した斎藤の顔を思わず凝視してしまう。家へ帰る前にもう少し話そうか、と斎藤が視線を向けたのは小さな飲み屋だった。
「手紙のことを聞きに来たんだ」
今夜は一杯だけですよ、と先に釘を刺された酒をちびりちびりと飲みながら斎藤は、先ほどの続きを始める。
「手紙とは」
「西南の戦の時に、大久保が西郷たちに宛てた個人的なやつだ。それを届けたのも、中村の最後の言葉を聞いたのも俺だったから。それで、だろうな」
そのために異国の高価な酒を手土産に。けれどあれはもともと、大山が他の者と飲むために取り寄せた酒だったのかもしれないと斎藤は思った。本当に珍しい酒だったようで、西郷たちも呑んだことはなかっただろうと酔いの回った赤ら顔で、楽しそうに話していたから。
「あれはただ、昔の話がしたかったんだろうなァ。それを知る人間を相手にして」
酒を片手に。適当な肴でもつまみながら思い出話を。
戊辰の話であれば他にも誰かいただろう。けれど大久保も亡き今、西南の話を彼とできる者はたぶんもう、いないのだ。だから斎藤のところに来た。
「適当なことばかり抜かしている変り者だと思っていたが、いや確かに変わり者ではあるんだが。そういう風に見られることも計算して、自分の立ち位置を理解した上で立ち回ってんだろうな」
そうでなければあの山縣が、あそこまで大山を自由にさせておくはずがない。手に負えないので放置しているだけかもしれないけれど。
もちろん、彼に対する憎しみがないわけではない。それでもどうしてか彼を見ていると、最後まで憎み切ることができなかった。
新しい時代を生きていくために決着をつけなければならない、かつての敵であった相手と折り合いをつける時期、その感情の落としどころを、こちらが考えるよりも先に『ここ』だと差し示されているような気がしてならない。
自由奔放で、何も考えていないような素振りで、他の者が言い辛い言葉を何でもないことのように堂々と口にして。空気が読めないようでいて、実は誰よりも周りの様子を観察している。
己の立ち位置と役割をよくわかっているからこそ、良くも悪くも集団の空気を変えるのが上手い。大山とはそういう男であるのだろうと、あの戦いを経た今だからこそ思う。
大家族の末っ子のような、と何となく例えたところで、そんな男がかつて自分の隣にいたことを斎藤は思い出す。突き放しきれずに押し切られたのはそのせいだったのかもしれないと思わず苦笑を浮かべた。
「あの男のそういうところを、あんたも認めてるんだろ?」
「さあ、どうでしょう」
伏し目がちのまま曖昧に笑ってみせた山川は、斎藤が呑み干して置いた盃の隣に自分のそれを置く。二つ並んだ盃はいつかの日を二人に思い出させた。
「あの時。最後の宴で。貴方と手にした盃は、死者に対してだけではなく我々自身にとっても別れの盃だと思っていました」
今だから言えることですが、と山川が笑う。
死ぬつもりはないが、生き残るつもりもなかった。息の根が止まるその瞬間まで戦い続ける、そういう心つもりだった。きっと山川だけでなくあの場にいた多くの者が同じ気持ちを抱いていたのだろう。
負けたくない、と。泣きながら大声で叫びたかった。死ぬまで戦うことをやめなければ、勝てなくても負けることはないから。
「……そんなこともあったな」
「結局、あの酒を呑んだ貴方と私がこうして生き残って。あの人は、佐川さんは最後まで、私とは飲んでくれなかったので」
「佐川の代わりに俺が呑んじまって、悪かったな」
「いえ、あの時の酒は斎藤さんが呑まなければ他の誰かが呑みましたよ。それに、」
彼が酒に弱くなかったとしても、別れの盃を呑んではくれなかっただろう。
もしも彼がそれを呑み干して、ひとつの未練も残さずに訣別の覚悟を決めていたら。その先の時代で、刀を捨てることに迷いを抱くこともなかったのかもしれない。けれどそれができる人ではなかったことを他の誰よりも知っていると山川は自負している。
迷ってしまうのは、彼が優しい人だからだ。刀を捨ててしまったら、先に死んだ者たちから託された想いも過去に置き去りにしてしまうのではないかと。そんな風に思っていたのかもしれない。ただ生きて、新たな時代を共に歩んで欲しいと願う山川の気持ちもわかっていたはずなのに。何かを捨てるには、彼は優し過ぎる人だった。
強くて、優しくて、生きることが少し不器用で。そんな人の背中を、山川はずっと見て来た。
「誰もあの人の代わりになんてなり得ませんから」
死んだ者は帰ってこない。喪失による空虚は胸にぽかりと空いた穴のようだ。時間の流れと共に穴は小さくなり痛みも消えて行くかもしれないが、誰かがそれを、代わりに埋めることはできない。
いつかどこか、たとえば誰かのまほろばで。たとえば誰かの大和で。再会するその日まで、忘れることもできずに抱えて行くだけだ。
「だからこそ、こうして昔の話をするんだろ」
酒を片手に、適当な肴でもつまみながら戻らない過去を、帰らない者のことを語る。思い出話に咲かせる花々は、死者に手向ける花束だ。そして『いつか』までのぼり続ける坂道の、その足元に咲く花でもある。
「大山殿も、」
「まあ、そういうことだ」
「それなら……酒席を共にするくらいなら……」
ううんううんと悩む山川も、その様を眺める斎藤もわかっている。そうやって山川が悩む時間すら大山が用意したものだ。彼が上官として命じれば山川は拒むことができない。やかましく騒ぎながらも最後の一線は越えずに、山川が歩み寄る日をただ笑って待っている。
もちろん、それはそれでなんだか腹立たしいような気もして。悩みながらもどこか悔しそうな山川の表情に斎藤は笑ってしまった。
そうやって笑えるほどの、時は確かに過ぎていた。
<続>