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かけ隼の新選組隊士・大野右仲の過去と未来が史実通りだったら、という捏造設定の本。
2019.09.15発行 詳細:紫雨文庫・BOOKS
元治元年 京都
朝露に濡れた緑が目に眩しい夏の庭には、いくつもの円を描くように朝顔が花開いている。
「少し、歩くか」
困った様子で頭を掻いている佐川の提案に、大野は笑って頷いた。朝早くに来て欲しいと言われて黒谷の本陣まで来たものの、少々早すぎたようだ。
隅々まで掃き清められた庭に降りて肩を並べる。白い雲が浮かぶ青空を見上げて、今日も暑くなりそうだと大野が目を細めれば、隣の佐川があご髭を撫でながら口を開いた。
「何だと思う」
「えーっと、以前、私が勝手に会津藩士を名乗っていたこととかですかね」
「それは最初から黙認されていただろう。こちらにも利があったからな」
前回は江戸で藩の上層部に捕縛されそうになったから京へ来た、というのは大野本人の談であるが、半分真実で半分は建前であろう。そういう男だということを知っている江戸藩邸詰めの同僚たちから、佐川は大野についてあれこれと聞いている。
役職も何もない若き書生の身でありながら、いや、だからこそ自由に立ち回ることができる。幕府の老中である唐津藩の若殿、小笠原長行の懐刀。それが大野という男の立ち位置である。
その時は会津藩士を名乗って京都周辺に滞在している幕府や各藩の有力者、活動家と面会して回っていたが、そのために使っていたのは彼自身が持つ人脈そのもの。そしてその成果は、表面上は縁を切っていた唐津だけでなく、明言こそしていないが後ろ盾になっていた会津にも当然もたらされていた。公認はしていないが黙認はされている、というのはそういう事情からである。
今回は今回で、江戸で暗殺未遂事件を起こしたのちの病気療養からの、上洛して謹慎処分を受けている長行公の後を追っての京都入りである。彼の話だけを聞いていると無茶苦茶だが聞き及ぶ限りではだいたい実際のことで、けれどもやはり本当のところは明かされていないようにも感じる。ふにゃりと笑う相手に柔らかく肩透かしを食らったような気持ちだ。
「容保様は、というか会津は京都守護職を引き受けた時から面倒ごとを抱えている。そのうちのどれかを私に押し付けるおつもりでしょう、ということしか今のところはわかりませんね」
「残念ながらまったく同意見だ。ただまあ、その中でもあれだろうな、というのはあるだろう」
「そりゃありますけど、ええー……やだなー……」
大野の正直すぎる態度に佐川は思わず苦笑を浮かべてしまった。おそらく二人が予想しているのは同じものであり、正解に近いはずだ。会津が抱えているいくつもの問題の中でも大野のような外部の人間だからこそ頼みたい、と考えるものはそう多くはない。
先ほどまで二人がいた部屋の中から佐川様、と控え目に声がかかる。わかったと返事を返した佐川は、ため息を吐いている大野の肩をぽんぽんと叩いた。
「さあ行くぞ。殿の支度が整ったようだ」
先ほどの庭から摘んだのであろう、床の間に活けられた朝顔の藍色を目の端に捉えたまま、大野は鸚鵡返しに言葉を発した。
「新選組、ですか」
やはりそれかとでも言いたそうな相手の顔を見て、床柱を背にして座している京都守護職、松平容保はパチリと音を立てて扇子を閉じた。
「もちろん知っているとは思うが、説明が必要なら佐川に」
「あ、大丈夫です。なんなら殿より詳しいと思います」
「うん、そうだと思った。だからこそ君を呼んだ訳だが……先月、池田屋の一件があっただろう。これも知っているな?」
「この京にいて知らない者はいないでしょう」
祇園祭の宵々山の日、三条木屋町で騒動があった。場所は旅籠池田屋。二十数人の浪士を相手に踏み込んだのは新選組の局長、近藤勇率いるたった数名。しかし副長の土方歳三たち別働隊の合流もあり、半数を討ち取り捕縛。この大捕物を行なった新選組の名は大きく知られることになった。
「それで、だ。今まで以上の働きを行うために規模の拡大、つまりは新規に隊士を集めることになった。君にはそれに応募して欲しい」
「はい?」
「もちろん近藤土方には既に話を通してある。入隊後は他の隊士たちと同じように扱って欲しいと」
「え、それ死にませんか?」
京都守護職などという面倒ごとを背負った会津藩の、そのお預かりの組織である。何かあれば火中へと真っ先に放り込まれるのはその隊士たちだ。それこそ先日の池田屋の際には数人が重傷を負い、落命者も出たと聞いている。
「だが、お前は死なないだろう」
「若殿の命令でもなければ死にませんけど……いや何かあれば死にますよ普通に」
「いや死なない。お前はそういう顔をしている。なぁ?」
同意を求められた佐川が「はぁ」と是とも非ともわからない曖昧な答えを返した。死なない人間などいるはずがないが、容保から自信たっぷりに言われてみればそんな気もしてくる、ような気がする。
「殺しても死にそうにない男だなとは思いますが」
「ちょっと佐川さんまで何を」
「そういうわけだから、頼んだぞ大野。長行殿にはこちらから話をつけておくから心配しなくていいぞ」
「ええー……」
他藩の君主に対して臆することなくそういう態度を取るから、胆の太いやつだと思われてこういう面倒ごとを押し付けられるのだ、と、思っても口にはしない佐川だった。他人がわざわざ言わなくても自覚くらいはしているだろう。
「要するに、会津の人間でも全くの他人でもない第三者の目線が欲しいわけだ」
「新選組の内部に、ですね」
支度金などの用意をするから少し待っていて欲しいと言われた大野は、佐川とともに再び朝顔の庭に戻ってきていた。先ほどよりも日が高くなり、少しずつ花の円が小さくなってきている。
「容保公は近藤と土方という二人の男を大層お気に召したご様子でな。だからこそのお預かり、というわけだが。しかしこれから規模が大きくなればその二人だけでは目が届かない場所もあるだろうと」
「組織ごと切り捨てるか否かの判断材料を、その情報を私に持って来て欲しいと」
「まあ……はっきりと言ってしまえばそういうことだ」
大野の直截的な物言いに少し怯みつつ、けれども隠したところで仕方のない話なので佐川はため息を吐きながら頷いた。
「とはいえ、最初から切り捨てるつもりでいるわけでもないし、できればこのまま傘下に置いておきたいというのが実情だ。こちらは圧倒的に手が足りていないからな」
「いくらなんでも遠いですからね。会津と京とでは」
「人員的にも金銭的にも負担がなぁ……」
京都守護職拝命の際には、会津藩内でも反対意見が多かったと大野も聞いている。それでも受けなければならない理由が会津にはあり、だからこそ幕府も会津に命じたのだろうと誰もがわかっていた。それは神君家康公が天下を取った時からの決まりごとのようなもの。
「ところで私は、剣の方はあまり上手くないのですが」
「大真面目な顔をして嘘を吐くな。いや、今回は上手くない方がいいのか。『死なない』っていうのはそういうことだろう?」
物事の引き際をわかっているということだ。ただやみくもに突き進むのではなく、生きるために駆け抜ける。そういう人間ほど生き残るという意味なのだろうと佐川は主君の言葉を受け取っていた。
そして何としても生き残らなければならないと強く思う、確かな理由を大野は持っている。
「若殿以外の理由で死ぬわけにはいかないですからね」
だからこそ、会津はこの面倒な仕事の依頼相手を大野に決めた。新選組の内部にあってもその強い忠義によって、あくまでも『第三者』としての視点を持ち続けるであろう男に。
――それは半分正解で、半分不正解だった。
<続>