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大山に残された白い手紙の話。
西南戦争後の大山をめぐる人々との対話。
2017.08.27発行 詳細:紫雨文庫・BOOKS
一、
遠い異国の地で約束をした。
「日本に帰ったら、一緒に花を見よう」
故郷の酒を片手に、他愛ない昔話でもしながら。
長い冬を越えて咲く春の花。ほんのりと薄紅に染まる、白い花が咲き誇る様を。
けれどその約束が果たされることはなかった。
目の前に差し出されたのは宛名のない手紙。
「山川殿、これは?」
省内に残る人も稀になる夕暮れ時をわざわざ選んで、大山が一人になる頃合いを見計らって。その執務室にまで、普段ならば大山と目を合わせようともしない山川が自ら持ってきた封書だ。
どのような類のものなのだろうかと受け取ったまま困惑を隠さずに問えば、相手はいつものように表情一つ変えることなく答えた。
「戦が終わったら貴方に渡してくれと頼まれました」
そんな妙なことを言い出す人間など大山には一人しか思い当たらない。だからこそ、らしくもなく開封するための手が迷って止まってしまう。
迷いついでに、では、と立ち去ろうとしていた相手の背に声を掛けて引き止めた。
「なぜ山川殿に」
「それは私が聞きたいことです。――ですが、」
先を躊躇うように口を閉ざした後、山川は小さく息を吐いて振り返った。改めて大山と向き合う。
「この手紙がなければ、私は貴方と彼のことについて考えようともしなかったでしょう。だから、私で良かったのです」
どういう意味だろうか。封を開けていない手紙を手にしたまま、椅子に腰かけたまま大山は相手を見上げる。
「あの戦で、佐川さんを殺したのはその手紙の差出人、村田新八です。そして、その村田に引導を渡したのは貴方です」
山川が大山に向かって、西南での戦の話をするのはこれが初めのことだ。あれからまだ一年も経っていない。身体に負った傷も、心に刻まれた傷も、まだ生々しく残っている。
「貴方は結果的に、私の仇を代わりに討ったことになります。もとよりあの戦そのものが私たちにとっては弔い合戦であり、はじめからあれを最後にするつもりでした。だからそのことについて、今更何かを言うつもりはありません」
淀みなく続く長い言葉。それはこの冬の間、山川が一人で抱えていたもののひとつだった。心底憎いはずの相手から託された手紙を捨てられなかったのは、その前にどうしても聞かなければならないことがあったから。
「それでもひとつお尋ねしたい。貴方とあの男は同郷の、かつての仲間だったはず」
成程そういうことか、と。納得した大山はそこでようやく、いつもどおりに軽く笑って見せる。そうして答える声は自分でも驚くほど穏やかなものだった。
「幼い頃から共に過ごした、大事な幼馴染です」
たぶん、貴方と彼と同じように。
大山がそこまで答えなくても、わざわざ問いかけてきた山川はもう知っているのだろう。大山が山川と佐川のことを知っていたように、誰かに聞けばすぐにわかることだ。
それでも改めて尋ねるのはその先があるから。
「何故そこまで出来たのかと、貴方に聞くのは酷なことでしょうか」
「いえ、もう答えが出ていることですから」
それこそ最初から。山川があの戦を最後にするつもりで臨んでいたのと同じように、大山もあの戦に向かっていた。
似ているようでいて全く違う覚悟を決めて。
「私はこの国のために、未来のために貴方の故郷を砲撃した。貴方の家族を、仲間を、友人を殺した。ならば同じくこの国の未来のために、自分の故郷を砲撃できないはずがない。かつての仲間や友を殺せないはずがない」
そうでなければ自分にも相手にも嘘を吐くことになってしまう。そこで嘘を吐いてしまったら、敵も味方も関係なく、死んでいった者たちに顔向けできなくなってしまう。誰が許したとしても、自分がそれを許せないから。
「それが貴方の出した答えですか」
「はい」
「時代の勝者として貴方が背負ったものですか」
「ええ、そうです」
まっすぐに言葉にして伝えるのは、お互いにこれが最初で最後だろう。それがわかっているから大山は、山川の問いに素直に答えた。
いつもと変わらない笑みを浮かべながらまっすぐに相手を見上げる大山から、先に目を逸らしたのは山川の方だった。俯いたまま少し困ったように小さくため息を吐いて。改めて大山と目を合わせる。
「よろしければ手紙を、あけてください。彼が何を遺したのか、できれば私も見届けたい」
他人に託すくらいなのだから、見られて困るようなものは書いていないだろう。もちろん構いませんよと笑った大山は丁寧に封を開け、ゆっくりと手紙を広げる。
それは何も書かれていない、白い手紙だった。
「白紙、ですね」
「あー……」
これは、あれだ。手紙の差出人の意図を即座に察した様子の大山に、山川は確認するように尋ねる。
「何か意図があって白紙なのですね?」
「昔せご……西郷が、私たちにそういう題を出したことがあって。友から白紙の手紙が届いたら、その真意を何と受け取るか」
あの時、大山は絶縁状だと答えた。しかし新八は、書けない本音だと解した。その時は彼の言うことがよくわからなかったのだが、今なら少しわかる気がする。
手紙に書くことはできない。形にして残すことはできない。けれど伝えたい、伝えたかった本音がある。
「山川殿は何だと思いますか?」
「わかりません。ですが、春になったら渡してくれと託されたのです。思い出させてやって欲しいと」
「春になったら? 思い出す?」
何を思い出すというのだろうか。あの日、忘れないと誓って、こうして忘れずにいるのに。いったい何を思い出せと言うのだろうか。
大山が忘れてしまうとでも思ったのだろうか。
どこか不満げな、不服そうな様子を隠さない大山を見て、山川は少し笑ってしまった。彼の前で表情を緩めるつもりはなかったのだけれど。
「大山殿は、ここへ来るまでの道にある桜並木がいつ開花したかご存知ですか」
「……もう、咲いているのですか?」
「彼が言いたかったのはそういうことではないでしょうか」
どんなにつらくても、苦しくても、大山は絶対に過去を忘れない。先ほど聞いたばかりの彼の覚悟はそういうものだ。そんなことは手紙の差出人も当然わかっていただろう。幼い頃から共にいたのなら、そういう男であることを誰よりもよく知っていたはずだ。
忘れないからといって過去に囚われているわけではない。確かに前へ進んでいる。けれど、前しか見えていないこともある。待ち望んでいたはずの春の訪れに気が付かないほど、大山は前だけを見ていたのだ。
それはきっと、隣にいるはずの「誰か」がいないせいで。
いつもお調子者のように振る舞いながら実はなんでも卒なくこなすこの男にも、そんな不器用なところがあるのだと知る。その不器用さは、山川にとってどこか懐かしいもので。
彼は本当に愛されていたのだろうと思う。愛されていたからこそ愛してくれた人たちのために生きることを、その覚悟を決めることができたのだろう。白紙の手紙の本意はわからないが、それが大山を想う気持ちから出されたものだということだけは、山川にも分かる気がした。
その手紙を山川に託した意図は、まだ考えたくないけれど。
「外はもう、春ですよ」
そう言って浮かべる笑みもまだぎこちないけれど。
こうやって時間をかけて、二人に降り積もった雪も少しずつ溶けて行くのだろう。
「では、これから花見にでも行きましょうかおにいさん」
「………………」
「おっと、ここへ来て沈黙エーンド無表情だ! でも気にしない!」
うきうきと立ち上がった大山が、背の高いコートハンガーに掛けていた黒いシルクハットを手に取ってひょいと被る。見覚えのあるその帽子に少し目を丸くした山川はけれど、それについては何も言わなかった。
「そうですね、夜桜見物くらいはお付き合いしましょう」
真昼の花はまだ、春風に誘われて開けたばかりの目に眩しすぎるから。
<続>