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西南戦争とその前後の大山と新八。
二人はポスト西郷と大久保だったっぽいよね、という話。
2016.10.09発行 詳細:紫雨文庫・BOOKS
見上げた先の、その肩越しに青空が見える。
青空と、桜島と。家族よりも身近な場所にあって、いつも走って追いかけてきたもの。
「俺はせご兄みたいになりたい」
「そりゃ大変だ」
頬を流れた涙の跡もまだ乾ききっていない小さな幼馴染の、膝に出来た深い切り傷に薬を塗りながら青年は笑う。手当てのために下を向いたままなので、少年からは相手の頭のてっぺんしか見えない。表情が見えなくてもその笑い声に否定の色は感じられなかったので、少年は力強く頷いた。
「なりたい、じゃなかった。なるんだ」
「そっか」
「だから新八は、俺の大久保さんになってよ」
驚いて顔を上げた青年の、珍しく呆然とした顔にニッと少年は笑って見せる。さっきまで傷の痛みに声を殺して泣いていたくせにと思いながら、けれど自分よりも大きな喧嘩相手に怯むことなく冷静に、少しも荒げた声を上げなかった少年はいつか、あの西郷にも追いつくかもしれない。
それはまだ遠い先の話で、それよりも先に確認しておかなければならないことがある。
「オレが大久保さんだって?」
「だって新八は大久保さんみたいになりたいんだろ?」
「そんなこと、一度も言った覚えはないけどねぇ」
「聞かなくたってわかるぞ」
同じ背中に憧れて、同じ背中に向かって走ってきたのだから、と。
並んだ二つの大きな背中を、その先に広がる故郷の青空を。それは郷中を同じくする若者たち皆に共通していて、決して自分たちだけの話ではないのだけれど。
「俺がせご兄みたいな大将になるから。新八は大久保さんみたいに、俺の隣にいてよ」
そう言って、小さな手をずいっと差し出すから。そこまで言うなら仕方ないなぁと笑って、新八は少年の手を握ってやった。
「約束な!」と笑った少年の手はあたたかく、まだ柔らかくて。幼いからこそ物怖じせずに言える言葉なのだと、彼よりも早く生まれた分だけ長く西郷と大久保を見て来た新八にはわかっていた。それでも。
憧れ続けてきた二つの背中のように、彼と肩を並べるのも悪くはないと。その時、確かに思ったのだ。
*
「西郷、今後何があっても、お前は絶対に謝罪の言葉を口にするな」
「相分かった」
大久保の言葉に深く頷いた西郷の背中を、揃いの洋式軍服姿で藩邸の広間に集まったそれぞれが、それぞれの想いで見つめていた。半次郎は当然だろうと言うように、大山は何かを思いつめるように、晋介はきょとんとした顔で。
自分の顔は自分で見えないけれど、きっと不服そうな顔をしていたのだろう。西郷の背中越しに視線の合った大久保が、少し目を細めてその顔を見つめた。お前の言いたいことはわかっていると、そう言っているような目だった。
「お前、あんな顔で大久保さんを睨むなよ」
会合の解散後、真っ先に部屋を出た新八を追いかけてきたのは大山だった。
非難するよりも案ずるような大山の顔を見上げながら、あんな顔ってどんな顔だよとわざと笑って見せれば、自覚があるならいいけど、と諦めたように溜め息を吐かれた。新八が何も言うつもりがないことを察したのだろう。さすがに付き合いが長い分、話が早い。
「そう言う大山だって、ガラにもなく深刻そうな顔だっただろ」
「今この時期に、あの言葉で何も勘付かないのは晋介くらいだって」
あいつは素直だからなぁとどこか羨ましそうな大山の声に新八は、今度は意図的なものでなく笑ってしまった。あれはまだ若いから気が付かないだけで、彼と大して変わらない年であるはずの大山が勘付いてしまうのは、確かに少し不憫ではある。
そして大山の立場上、気が付いても知らぬふりをしなければならない。西郷に親しい身内であるということは、たぶんそういうことだ。
「なぁ、大山。オレやっぱ納得できねぇわ」
「新八」
「大久保さんに聞いてくる」
どこか咎めるような声で名を呼びながらも結局大山が新八を止めなかったのは、彼自身も納得しかねる部分があるからであろう。
もちろん新八も大山も、大久保の判断に間違いはないと思っている。彼の選択に間違いがあったことなど、一度もないと心から信じている。それでも新八には確かめておきたいことがあった。
「なんでせごにぃにあんなこと言ったんですかね」
これから徳川と大きな戦が始まる、その時に。
自室に戻って朝廷内の要人への文を書いていた大久保は、新八の来訪を予期していたのだろう。少し顔を上げて目を合わせることで話の続きを促した。
「謝らないってことは、赦しを乞わないってことだ」
罪を赦して欲しいから謝るわけではない。けれど、謝らない相手の罪を赦すことはできない。赦すことも赦されることもないまま、双方に渦巻く感情をすべて持って行かなければならない。
「あんたはせごにぃに、これから起こるすべてを背負わせるつもりなのか」
これから自分たちが行う蹂躙によって、敵味方のどちらにも生まれるであろう恨みも、憎しみも、悲しみも、歪みも、理不尽も、すべて。
「その通りだ」と涼しい顔で答えた大久保はゆっくりと立ち上がって、珍しく今にも鯉口を切りそうな気迫の新八の肩をポンと軽く叩いた。それはとても、優しい手のひらだった。
「そして私も謝らない。西郷の行いが罪になるならば、それはそもそも私の罪だ」
西郷にそれを背負わせたのは、他でもない大久保自身なのだから。
「オレは、そのことにも怒ってるんですけどね?」
他の者がそこまで気が付いているのかわからない。けれど新八にはわかってしまった。西郷にとっての大久保のような男になりたいと、ただ支えるのではなく、ほとんど同一の存在として西郷の隣に立つその背を、まっすぐに見て来た新八だからこそ。
大久保が何を考えているのか、何をしようとしているのか。
西郷を人々の上に立て、表舞台に出し、大久保はその裏で画策している。一見するとその人柄だけで人を集めて何も考えていない西郷を大久保が「操っている」ように見えるが、実はそういう風に見せているだけで、いつだって最後の判断と決定は西郷自身が行っている。
大久保の判断は西郷の判断であり、西郷の決断は大久保の決断である。わざわざ言葉を交わして相談しなくても二人の間で最初から答えは決まっている。そういう関係だからこそ成り立つ強固な薩摩の指揮系統だった。
けれど西郷に何かあれば、彼を「裏で操っていた」大久保がすべての責任を取るつもりでいる。西郷不在時の苦労をその身を持って痛感した彼だからこそ。
西郷の目指す国を、彼が作る未来の姿を見たいと、誰よりも強く願っている大久保だからこそ。
「でもそこに、大久保さんもいないとダメだろ。そうじゃなきゃぜんぶ嘘になっちまう」
「お前は優しいな」
「優しいわけじゃねぇよ。オレにとってはせごにぃもあんたも、同じだけ大事なんだ」
二人が一緒にいなければ、並んでいなければ意味がないのだと。彼にしてはひどく珍しい、子供が駄々を捏ねるように文句を重ねる新八に大久保はふっと笑ってしまった。察しの良い彼は聞き分けが良すぎて、幼い子供の頃ですらこんな風に、誰かに対して噛みついたことはなかったはずだ。
いつも一歩引いた場所から、笑いながら眺めている。それが自身の立ち位置だと誰よりも理解し、冷静にその場の流れを俯瞰できる彼を西郷も大久保も重宝してきた。今の彼は、それを自ら放棄している。
それだけ新八にとっては大事なことであり、それが自分たちのことなのだと分かっているから、大久保はその気持ちをまっすぐに受け取った。
「ならばそうならないように、お前はお前の力でせごどんを支えてくれ」
他でもない、私の為にも。
言外に含まれた言葉を聞き取って、新八は口を引き結んだ。わざわざ改めて言われなくても今までずっとそうしてきたし、これからもそのつもりである。だが、それなら大久保のことは誰が支えるのだろうか。
もちろん今までと変わらず二人が一緒にいるならば、片方を支えることはもう片方を支えることと同義だ。
しかしもしも、万が一にも、そんなことは絶対にあってはならないことだが――西郷と大久保が道を違えた時にはどうしたらいいのだろうか。
彼ならばと一人の顔が浮かんで。けれどそんなことにはなるまいと、決してそんなことにさせはしないと。
新八がいつものように笑って頷けば、やっと笑ったな、と大久保はその肩を優しく叩いた。
<続>