格別何か目的があったわけではない。夢や理想や、成したいことがあったわけではなく、ただ、生きるためについていくことを決めた。
六人兄弟の五番目。毎日必死に両親の仕事を手伝ったところで、僅かな食料はいつも奪い合いで。兄達に勝てるはずもなく、かと言ってまだ幼い下の弟から奪うこともできず。
黄色い旗を掲げる反乱軍に参加すれば、今よりはまともな生活ができるだろう、と。他の志願者たちのように国を変えるなどという大きな目的のためではなく、自分の生活を変えたいという理由で志願した。
なんの力もないけれど、ただ、生きるために。
そんな自分の話を聞いて、けれど彼女は笑ってくれたのだ。それでいい。仲間になってくれてありがとう。共に戦うことを選んでくれてありがとう、と。
何かとても大切な、尊いものを扱うように、彼の荒れた手を両手で握りしめて。
その弾けるような笑顔と、その言葉と。包まれた両手のあたたかさを思い出すたびに、戦場で何度転んでも、恐ろしさで膝が震えても、再び走り出すことができた。
なんの力も持っていない、弱い自分が生き残るためにできることといえば、決して立ち止まることなく走り続けること。それだけだったから。
「ハサイさんは、なんで俺の面倒を見てくれるんですか?」
怒られたりどつかれたりしながら、少しずつ敬語を覚え始めた頃、少年は以前からの疑問を兄貴分にぶつけてみた。
黄巾党首である張角の信頼厚く、一軍を率いる立場にいるハサイ将軍は、少年が入った時から何かと目をかけて面倒を見てくれている。
「なんだ、不服なのか?」
相変わらず訛りの強いハサイが手入れをしていた斧を置いて、眉根を寄せながら問い返せば、少年は慌てて両手を振って否定した。
「そういうわけじゃなくて!」
「はは、別に怒ってねぇよ」
そう言って笑いながら少年の頭をワシワシと乱暴に撫で回して、再び斧を手に取る。柄の布をぎゅっぎゅと力を入れて巻き直しながら、そうだなぁと少し間を置いて答えた。
「郷里になぁ、置いてきた弟に似てたんだ」
「俺が?」
「どこが似ているってこともないんだけどな」
なんとなくだ、なんとなく、と、彼にしては珍しく歯切れの悪いハサイの言葉に少年は首をかしげる。
「俺にも兄貴がいたけど、ハサイさんみたいには面倒見てくれなかったよ」
「それはまあ、そうだろうな……だけどな、俺が特別ってわけじゃない。俺だって郷里にいた頃は、 兄弟のことなんてちっとも考えられなかった」
少し俯いて、手にした武器をじっと見つめて。ふう、と小さく息を吐いたハサイは再び顔を上げて少年を見た。
「俺は、俺のことしか考えられなかったんだ。年老いた両親のことも、弟のことも考える余裕なんてなかった。だからこれは……」
罪滅ぼしなのかもしれない、と。小さな小さな声で溢れた言葉の意味が、少年にはわからなかった。
ただ遠い南方にあるというハサイの郷里に、彼を待つ家族がいないことを少年が知ったのは、それからしばらく後の事だった。
ハサイが自分に優しくしてくれるのは、もういない弟の代わりなのかもしれない。けれどそれでも良いと少年は思っていた。自分たちは兄弟ではなく黄巾党の、張角を慕って集まった仲間だ。
戦場でたびたび危機に陥る自分を彼が助けてくれるように、いつか自分も彼を助けられたら良いと。彼だけではない、支え合い助け合ってきた仲間たちの力に、自分もなれたら良いと。
夢も理想もなくただ生きるためだけにここへ来たはずなのに、いつしか小さな、とてもささいな、それでいてとても大切な夢を抱くようになっていた。
それをたどたどしい敬語で話したら、彼女は自分のことのように喜んでくれて。
だから。
「いきなさい!」
血を吐くような声で叫んで自分を殴った彼女の言葉を、何度も何度も、繰り返し思い出す。
行きなさいなのか、それとも、生きなさい、だったのか。
わからないからただ、彼女の言うとおり、闇雲に走り続けることしかできない。
はじめて、守りたいと思ったのだ。守るために戦いたいと。
自分のためだけではなく、誰かのために。みんなを守るために。
だけど、守れなかった。力が、足りなかった。
横たわり動かないハサイの前に跪き、額を押し付けて、その冷たさに自分の無力を思い知った。
どうすることもできなかった。ただみんなに守られて。生き残って。
だからもし、もしも生まれ変わることができたならば。
今度こそ誰かを守るための存在になりたいと。
例えば、党首として道を示すために、先頭に立ち続けた張角のように。その張角に常に寄り添って、支え続けた張曼成のように。最後まで力強く手を掴んで引いてくれたハサイのように。張角を守れと、彼女の元へ走れと叱ってくれた彼のように。
彼らのように強くなることはできなくても、それでも。
いつか生まれ変わるために、その日まで生きるために。
また、彼女と共に戦うために。今度は皆のように彼女を支え、守れるように。
今はただ、泣きながら走り続けることしかできないけれど。
2015/3/15HARUコミ配布ペーパー