少年が近藤の名を出した時、その内容よりも時期の悪さに、思わず少年を背に庇ってしまった。咄嗟のこととはいえ自分らしくもないと思いつつも、だからこそ、その後の土方の反応が齋藤には意外に思えた。
実は少年たちのために取り寄せていた会津の酒を残して酒宴を離れ、他の新選組隊士たちにも好きに酒盛りするよう伝えて。うっかり土方と二人だけになってしまった齋藤はしばらく盃の水面を眺めた後、静かに口火を切った。
「ようやく吹っ切れましたか、土方局長」
「別に、そういうわけじゃねぇけどな」
斎藤の言葉を否定して、けれど土方の笑顔はどこか晴れ晴れとしたものだった。
転戦に次ぐ転戦の日々の中で、目に見えて落ち込む様子こそ見せはしなかったが、それでも口数が減り、思いつめた顔をしていることが多かったのは事実だ。
近藤が死んだと、報せを受けたその日から。
「お前ら俺に気を使って近藤さんの名を出さなかっただろう」
「枕を投げつけられたくないですからね」
「うるせぇ。まあ、それで久しぶりに近藤さんの名を、あんなキラキラした目で呼ばれたらこう、な」
―――言っておきますけどぉ! 俺は近藤さん派ですから!
―――奇遇だな。俺も近藤さん派だ。大好きなんだ。
ずっと、ずっと。自分とひとつしか変わらないのに、あのまっすぐな背に憧れていた。隣に並び立ち、彼を支えたいと思っていた。
共に武士であることに憧れて、けれど一番近くで、嫉妬心すら覚えるほどに焦がれる思いで見ていたのは彼の背だった。それを思い出して、素直な気持ちを口に出したら、自然と笑っていた。
吹っ切れたわけではない。喪失はあまりにも大きすぎて。だからこそ、笑って前に進む。
「武士に憧れてここまで来た俺たちが、武士に憧れられる存在になるなんてなァ」
「―――いつか白き虎となり、狼よりも遥か高く、か」
「近藤さんにも聞かせてやりてぇな」
いつかまた、巡り会えた時に。
自分たちはバラバラになったのではなく、ちょっとはぐれてしまっただけだ。共に目指した高みに向かって走り続けていれば、きっとまた会えるから。
そう言って笑う土方の背を見ていた。キラキラとした目で彼に憧れる、少年たちよりもずっと近くで。
斎藤がその背中に手を伸ばそうとしなかったのは、わざと目を逸らしていたのは、いつでも届くだろうと思っていたからだ。いつも見えていた、高みへと駆け上がっていく彼の背中は、あまりにも近い場所にありすぎた。
上からの物言いが気に入らなかった。戦場でもずっと苛々していた。だけど最後まで、会津で別れるその日まで、離れることもできなかった。
『俺はいつも、あいつに憧れていました』
『憧れて、嫉妬していたのは俺の方です』
素直にそう言える少年たちが眩しかった。
憧れていたのだと、思う。
少年たちが土方に憧れを抱いたように。土方が近藤に焦がれたように。虎の秀才が、その友人に嫉妬したように。
手を伸ばしても届かないと知っていたから、目を逸らした。目指そうとも越えようとも思わずに、ただ傍にいた。そこは自分の場所ではないと思っていたから、並んで隣に立つこともできなかった。近くで、背を向けて、だからはぐれてしまった。
それなのに。
『お前は生きろよ、齋藤』
最後にそんな言葉を遺して逝くなんて、本当に嫌な奴だ。
土方と共に箱館まで転戦し、その言葉を伝えるために齋藤を訪れた西郷を見送って。そこまで平常を装ったのだから自分もたいそうな見栄っ張りだ。一人になった瞬間、膝から崩れ落ちて、声を殺して泣いた。
「その上からが、気に入らねぇんだよ…!」
最後までそこは変わらなかったなと、思わず笑ってしまう。笑いながら、涙は止まらない。十四年前もその前も、泣くことなどなかったのに。堰を切ったように想いがあふれ出して、笑いながら、泣きながら、蹲ることしかできなかった。
『俺たちは新選組だ。負けたことはないし、これからも負けるつもりはない』
―――彼はいつか、生きていれば勝ちだと言った。ならば自分が生きている限り、彼らの誠を背負って生き続けている限り、新選組も会津も決して負けてはいない。
そしてこれからも、負けるつもりはない。
「……もう一人、いたな」
泣き疲れてごろりと大の字になり、ぼんやりした頭で天井を見上げながら、思い出したのはかつての少年だった。自分がはぐれた狼なら、彼ははぐれた虎であろう。きっと彼は己を、生き残った自分自身を虎とは認めていないのだろうけれど。
お前も虎だと、確かに白き虎であったと言ってやるつもりはない。それはきっと、自分の役目ではない。
けれど彼に伝えなければならない言葉がある。
「高みに辿り着けなかった俺は、あんたみたいに上から言ってやることはできないからな」
隣で酒でも飲みながら、あの眩しい日々を共に振り返りながら。時間をかけて伝えてやろう、と。意地悪く笑いながら言ってみれば、なんだかそれが自分に似合うような気がした。皆で目指した高みで笑う彼を、その背を眩しく見上げることも、悪くはないと今なら思えるから。
そして時には、名を呼ぼう。その隣に立つ日が来るまで。
いつか、届くように。また巡り会うように。
「なぁ、土方さん」
久しぶりに呼んだ名は、不思議と唇に馴染んだ。
2015/10/4スパーク10で配布したもの。斎藤と土方のはなし。
続編(鴨)で土方の最期を斎藤に伝えたのは島田だったと判明したけど、それ以外の妄想が概ね合ってたような気がするし、むしろ妄想を大きく上回って来たので、もはや感謝の言葉を捧げながら五体投地する以外にすることがない。