暁の夢も、名を呼ぶ声も。何もかも愛しいと思う。
自分にはないもの、だからこそ。
一、
ふわりと夢から目が覚めた。
外はひどく静かで、障子越しにうっすらと部屋の中へ差し込む光はまだ弱い。それでも夜明けは近いのだろう。
「どうした?」
隣から聞こえてくる声は小さくもはっきりとしていて、こちらが起こしてしまったというよりは先に目覚めていたのかもしれない。
「夢を見ていた、気がするんだけど」
ふわふわとしたまま掴みどころのない夢の記憶を辿る前に、流れるように響く歌が耳に届いた。
「――あかつきのゆめをはかなみまどろめば いやはかななるまつかぜぞふく」
「いやはかな……?」
耳慣れない言葉をそのまま繰り返して、清光はそのまま目を閉じる。
再び寝息を立て始めた相手の顔をしばらく眺めていた則宗は、自分ももうひと眠りすることに決めた。
もうすぐ夜が明ける。淡く消えてゆく夢を儚み、追い求めるようにして微睡に揺蕩えば、暁の夢はますます儚くなって風に消えていく。
それが何の――誰の夢だったのか。知るのは夢寐の言葉を聞いた則宗ただ一人。
*
庭の大池を望む、涼やかな縁側に広げられていたのは、歌を書きつけた短冊だった。
歌仙兼定と古今伝授の太刀が、互いに持ち寄ったそれらを見せ合う会は本丸内で不定期に行われている。時々、五月雨江や他の刀たちも参加しているらしい。
楽しそうなその様子を眺めながら通り過ぎようとした清光は、ふと思いついて二人に声をかけた。
「ちょっと歌のことで聞いてもいいかな。お邪魔かな?」
「きみが歌の話とは珍しいね」
「ええ、何でも聞いてください」
「いやはかな、って何かわかる?」
首を傾げた清光の言葉に一瞬固まった歌仙は、「おやおや」と片手で口元を覆っている相手の名を絞り出すような声で呼んだ。
「……古今、」
「はい」
そして審議開始。
これは伊勢の……いやしかしあれは……それなら……おそらく……などというやり取りが漏れ聞こえてくる。それから同時にくるりと清光を見た細川由来の二振りは、もう一度お互いの顔を見てから頷いた。こほんと咳ばらいをひとつした歌仙が改めて口を開く。
「暁の夢をはかなみまどろめば、いやはかななる松風ぞ吹く」
「あ、それ」
「後鳥羽院の歌ですね。いやはかななる。いよいよ儚くなる、というような意味です」
古今の説明に、なるほどそういう意味なのかと清光は納得した。
「ところで、なんで二人で審議に入ったの。伊勢って?」
「この歌は本歌取り……元になる古歌がありまして。伊勢物語にあるのですが、そちらの方だと少々意味と状況が変わりますから」
「ねぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな」
――貴方と眠った夜の夢はあまりにも頼りなく、もう一度、と微睡んでみれば、ますます儚いものになってしまった。
「物語の中では、一夜を共にした相手に送った歌だ。それも少々見苦しい感じで」
「……あー、」
「きみに深い仲の相手がいることは僕も知っているから、まあ、今更ではあるのだけど」
それでも清光本人がわかっていない様子なのにそれを聞いてもいいものだろうかと躊躇したのと、かの御仁がまさかそんな歌を送るだろうかと疑問に思ったが故の緊急審議タイムだった。
「じゃあ、後鳥羽上皇の歌の方の意味は?」
「そのまま読み解くならば暁、夜明けに見る夢の儚さを歌ったものだろう」
しかしどのような思いでその歌を選び、口にしたのか。それは結局のところ、当事者同士にしかわからないことだった。
「八幡山、跡垂れそししめの内に、なおよろずよと松風ぞ吹く」
審神者に呼ばれた清光を見送ったあと、古今伝授が口にした歌を聞いて歌仙が頷いた。
「ああ、それも後鳥羽院の」
石清水八幡宮の神仏を讃える歌であるが、吹く風の意味が反対になっている。
はかななる風。万代の風。どちらにしても松の梢に吹く風の音が、時代によって変わることはない。変わらない風に吹かれて儚く消えてしまう夢。
それは歌仙兼定にも、古今伝授の太刀にも、確かに覚えがある。
二、
その日、京の都はたいそうな賑わいだった。
「なにせこれが二百三十七年ぶりというからなぁ」
「何が?」
「帝が内裏を出ることが、さ」
大行列を一目見ようと賀茂川に集まる人々に紛れた加州清光と一文字則宗は、姿を見せ始めたきらびやかな列を遠くから眺める。
屋根に輝く鳳凰を乗せた、帝の乗り物である御鳳輦(ほうれん)には孝明天皇、前後に従うのは百を越える臣下たちと、馬上の将軍家茂。列の行き先は賀茂御祖神社及び賀茂別雷神社。その目的は攘夷の祈願。
文久三年三月十一日。孝明天皇の賀茂行幸である。
「ここも特に問題はなさそうだね」
晴れた空の下で、この人混みの中で、敵の姿どころか気配も感じられない。
はずれだったかーと肩を竦める清光の横で、黙って列を見つめていた則宗が口を開いた。
「だと、思うのだが……」
「どうかした?」
「何かこう、あの行幸に対して引っかかるものがある」
珍しく歯切れの悪い則宗が、そのまま首を傾げる。
「しかし何が引っかかっているのか、僕自身もよくわからない」
「ふうん? あの列、前にも見たことがあるの?」
「いや、無いはずだ。――ああ、そうか。見たはずがないのに、なぜか覚えているような気がしている」
だから違和感が残るのだろう。行幸そのものであれば何度も見ているから既視感を覚えているのかもしれないが、それとも何か違う気がする。どこか座りの悪い気持ち悪さ。
「宿に戻ったら皆と主に報告しておこうか」
「それが良いだろうな」
未だ何もわからない手探りの状況だ。どんなに些細なものであっても、判断の材料は多くあった方が良い。
*
時の政府からの指令を受けた審神者によって部隊が編成され、この時代に飛ばされたのは賀茂行幸より数日前のこと。
今回の任務は場所と時期だけが特定され、詳細については何もかもが不明というひどく曖昧なものだった。改変による後世への影響力も測定不能。
感知されたのは敵の大きな動きや改変の予兆などではなく、時代の流れに対する小さな違和感のようなもの。おそらく、これから何かを起こすための準備が水面下で行われている状況なのだろう。
「と言っても、文久三年だからなぁ」
「それー」
和泉守兼定の言葉に清光が同意し、堀川国広がうんうんと頷いた。
西本願寺の裏手にある、大きな旅籠の一室。この場にいるのはため息をついている三振りと則宗を合わせた四振り。まずは揃って新選組の様子を見た後、同じく土佐藩邸の様子を見に行った陸奥守吉行と肥前忠広とはこの部屋で合流する手筈になっている。則宗以外の五振りにとっては勝手知ったる幕末、京の町だ。
「なるほど、こういう時のために僕がいるのだな」
「つまり?」
「文久三年だとどうして困るのか、坊主たちに改めて説明してもらうためさ」
幕末に強い縁がある刀たちにとってはわかりきっていることでも、第三者に説明することで新しい視点に気が付くこともあるだろう。見落としている問題点が見えてくることもあるかもしれない。則宗の言葉に頷いた清光と堀川が説明を始める。
「映像作品なんかで『時は文久三年』って、主題を問わず死ぬほど聞いたナレーションだよ。将軍が江戸から上洛したこの時期の京都に、どれだけの勢力が集まってると思ってるのさ、ってね」
「あまりにも事件や出来事が多すぎます。ただ、逆に言えば、本当に次々と事件が起こるので歴史の流れも自動補正されやすいみたいです」
「ひとつの事件の流れを多少変えたところで、すぐに起きる次の事件で辻褄を合わせる。歴史の大きな流れは変わらない、ということか」
死ぬはずだった者が生き残ったとしても、次の事件で命を落とす。まだ死なないはずの誰かが命を落とせば、同じ役割を持った誰かが代わりとして立てられる。小さな歴史が変えられても大きな歴史の流れが変えられることはない。常時ではあり得ない、混乱期だからこその乱暴な補正力だ。
本当は個々の歴史も守ってやりてぇけどな、という和泉守のこぼれる様な呟きを否定するものは、この場にはいなかった。
「そういうわけだから、小さな改変は多少見落としても問題ない。って言うか何も特定されていない今のこの状況じゃ、正直拾いきれない」
だからこそ、補正力を超えるほどの影響力がある変化が起これば、そこから元の流れに戻すのは他の時代よりも苦労すことになる。
「できれば事が起こる前に片を付けたいんだけど」
「たとえば、八一八の政変はどうでしょうか」
堀川の言葉に和泉守が首を振る。
「大きすぎるな。そこが変えられようとしているのならもっと大きな影響が観測されて、何かしら特定されているはずだ」
「ということは、今すぐどうこうなるって話じゃなくて、後々になってから影響が出てくるもの?」
「歴史の流れを大きく変えてしまうほどの大事件ではなく、小さくても決定的になってしまう正しい歴史との違い――後世の解釈が大きく変わってしまうもの、か」
「それが何か、分かれば話は簡単なんですが」
「面倒だが地道に調査を続けるしかなさそうだな」
やれやれ、と和泉守のため息に重なるようにして、聞きなれたにぎやかな足音がひとつ。それを追いかける静かな足音がもう一つ。
「遅うなってすまんの! 土佐藩邸に異変はなかったき」
「ちょうど良かった陸奥守、肥前。これからチーム分けするから」
「チーム分けだァ?」
「そう。肥前は堀川と組んでね。陸奥守は和泉守と。俺はじじいのお守り役。以上」
は? え? という声を無視して手を叩いた清光に、この時代のこの場所では当然、良くも悪くも最も気心知れた相手である陸奥守と組むものと思っていた肥前が反論しようとする。
「おい、加州」
「隊長命令でーす。さっきそこのじじいも言ってたけど、俺たちはこの時代に馴染みが深すぎる。ちょっとした違和感も『そういうもの』だと無意識に流しちゃうかもしれない。その場合、特に和泉守と堀川、肥前と陸奥守はいろいろと近すぎるから、一緒に見落としちゃうでしょ」
「それはそうかもしれねぇが」
「僕は大丈夫です。陸奥守さんなら安心して兼さんをお任せできますし」
「おい国広、オレが任される側だろうが」
やいのやいのとやかましい身内のことは気にせず流して清光は話を続ける。
「俺とじじいは御所の裏、朝廷と薩摩藩を中心に見て回る。和泉守と陸奥守は島原を拠点にして情報を集めながら、幕府側の動向を探る。改めて言うまでもないと思うけど、二条城と所司代は特に注意しておいた方が良いかもね」
「おう、まかせちょき!」
「肥前と堀川は祇園周辺の各藩の動向……長州と土佐、これから動きが増えるだろう勤皇党も見てもらいたいんだけど」
わかりました、と答える堀川の横で黙っている肥前に、清光はまっすぐに向き合った。
「俺たちは何度もこの時代に来てるけど、肥前はうちの本丸に来てから、普通の任務としては初めてでしょ。辛かったら無理しなくていいからね。これは思いやりとか親切心とかじゃなくて、一人が無理した結果全体がピンチになったら困るからっていう隊長判断」
「わかってる。おれが無理をしているように見えたらいつでも外せ。その為におれと堀川を組ませたんだろ」
「はい! 任務中は僕がしっかり支えますね!」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「大丈夫そうだね」
「清光、お前は大丈夫なのか?」
そう言って和泉守が則宗を指さす。あまりにも遠慮がないその態度に、指さされた本人はうははと面白そうに笑っていた。
「俺、今回は主から直接、じじいの面倒を見るように言われてるんだよね」
「へえ?」
「幕末の、この時期の京都には政府にいた頃もあまり来ることがなくてな。まあ僕も特に問題はないとは思うのだが、念のためだ」
ここには彼が――沖田総司がいるので。
三、
任務中の連絡は、こんのすけの首に取り付けられた通信機を通じて行う。
「賀茂行幸、ねぇ。特に妙な動きはなかったと思うが」
肥前の言葉に、そうだよねぇと清光も頷いた。
本来の歴史の流れどおりに行われた孝明帝の行幸は、それ自体は確かに歴史の中で大きな意味を持つが、それこそが正しい歴史である。これが行われなかったのならば問題になるが、中止されることも中断されることもなく、最初から最後まで恙なく終わったのだから何の問題もない。
ただ、則宗だけが違和感を覚えた。今回の部隊の中で特にこの時代、この場所に対する直接の縁が薄いはずの彼だけが。
「つーか、そんなものがあることも忘れてたな」
『俺も知ってはいたけど見るのは初めてだった。京の都も広いよねー』
「壬生狼は内部粛清やってる頃か。いや、いつもだな?」
『まだ始まってないよ。幕府の浪士組として上京して、清川八郎と袂を分けて、会津お預かりになった残留組がやっと分裂したかな、くらいの時期。まあその間もずっとゴタゴタしてるけど』
「……そうか。で、それも今回の任務に関わってくると思うか?」
『どうかなぁ。この時期はあんまり影響ない気がするんだよね』
だから島原に向かった二人にもそう伝えている。
歴史の大きな流れから見れば小さな集団の小さな歴史だ。もちろん清光たち新選組に所縁を持つ刀にとっては、何よりも大事な歴史であることに変わりはない。それでも、その歴史が僅かにでも変わることで後世に大きな影響が出ることがあるだろうかと、問われれば否定するしかない。
「お前とこういう話をするのも、なんだ、妙な感じがする」
『そうだね。ゆっくり話すような時間もまだなかったし』
「わざわざ話す必要もないと思ってたけどな。今回のことで少し気が変わった」
へえ、そうなの? と笑うような声で清光が問うので、肥前はふんと鼻を鳴らすだけで応えた。
「天誅騒ぎもだいぶ増えてきた。お前らも気をつけろよ」
『ん、ありがとう。そっちもね』
見回りついでに夜食を調達していた堀川が宿に戻ってきたのは、肥前が通信を切るのとほぼ同時だった。
「報告ありがとうございます。清光さんたち元気でした?」
「元気じゃない時があるのかあれは」
嫌味というよりも呆れた様子の肥前の言葉を聞いて、荷物を置いた堀川は不思議そうに首を傾げる。
「歴戦の猛者っていうのはもっとギラギラしてるもんだと思ってたんだが。あいつはそうじゃないだろ」
何度か同じ部隊で出陣したことも手合わせしたこともあるので、実力があることは知っている。最初期から本丸にいる古参として経験豊富なのもわかる。戦闘も調査も、隊長としての指示も無駄がない。
だからといって気負う様子はなく、何事も自然にこなしてしまう。肥前にかけた言葉を考えればそういう経験が――元の主と近すぎる時代での任務に対して、辛いと感じたことが全くないとは言えないはずなのに。そういうものも、きっと当然のことのように丸呑みにして、落とし込んで来たのだろう。
「強いですよね、清光さん」
そう言ってしみじみと頷くので、堀川たち身内も常々似たようなことを感じているのだろうということは肥前にもわかった。
「僕と兼さんがそうだったように、辛いことも苦しいこともずっと大和守さんと分け合ってきたから、というのが大きいとは思うんです。でも清光さんの、そういう強さの表れ方は前の主、沖田さんの影響じゃないかなって」
「ふーん」
沖田総司。あまりにも有名なその青年のことを、肥前はほとんど伝聞でしか知らない。後世に伝わるいくつもの偶像がある中で、けれども彼ら新選組に所縁のある刀たちにとってはそれが真実なのだろう。
「それより本題だ。賀茂行幸に何かあるんじゃないか、だとさ」
「それなら朝廷工作を活発に行っている界隈に重点を置いてみましょうか」
「この辺りなら長州か。まあ、今のところ他に手がかりもねぇし」
則宗の勘違い、気のせいかもしれない。しかしここまで何も掴めないのだから、今はまだ気のせいとしか思えないほど小さな変化でしかないのかもしれない。
*
「――血の匂いじゃ」
先に気が付いたのは陸奥守だった。同時に、悲鳴のような短い男の声。
隣を歩いていた和泉守と顔を見合わせることなく、揃って狭い路地を走り出す。
政府からのデータで今夜、凶事が起こらないことは二人とも事前に確認していた。歴史の流れの中で起こる誤差であれば問題ないのだが。
*
「今はそうでもないけど、後への影響が強いもの」
「どうした坊主」
「改めて考えると、そんなに多くはないのかもしれないと思って」
宿の格子窓から外を眺める。その視線の先にあるのは御所――帝がおわします場所だ。
「文久三年の京都、孝明帝……もう少し何かあれば繋がりそうな気がするんだけど」
「賀茂行幸からそろそろひと月。あの違和感の正体さえ掴めればな」
敵の姿は相変わらず見えないが、地道な調査によって確かに何かしらの動きがあったことは判明していた。特に堀川と肥前の調べで、自分たちの部隊がこの時代に到着する少し前に、長州藩邸に不審な出入りがあったらしいことはわかっている。それが朝廷に直接かかわるものかどうかまでは、まだわかっていない。
「もしかしたら、もう一度あの行幸を見れば何かわかるかもしれない、かなぁ」
「もう一度?」
「確かもうすぐ次の行幸があるんだよ。石清水の八幡宮で――あ、」
はた、と動きを止める。なぜ今まで思い至らなかったのか。
本来の歴史では回避されたはずの『それ』が起こることで、歴史の流れに対して今すぐ影響が出ることはないが、後になって大きな影響力を持つもの。歴史の流れを大きく変えてしまうほどの大事件ではなく、小さくても決定的になってしまう正しい歴史との違い。後世の解釈が大きく変わってしまうもの。
「則宗、節刀!」
「――攘夷決行の節刀か」
二人が刀を持って立ち上がるのと同時に、窓から部屋に飛び込んできたのはこんのすけだった。即座に首の通信機が発動する。
『慶喜が誘拐された』
和泉守の押し殺した声に「あーあ」と清光はため息をつき、則宗がゆっくりと頷いた。
「なるほど、当たりのようだな」
四、
文久三年四月十日。石清水行幸の、その前日。
石清水八幡宮が鎮座する男山の麓で、木々に紛れて潜んでいるのは清光と堀川、和泉守と肥前だった。
「将軍家茂は数日前から病で臥せっている。将軍の代わりに行幸のお供をするのは、将軍後見職である一橋慶喜だったな」
改めて確認する和泉守の言葉に堀川が続ける。
「その慶喜公が誘拐されてしまった」
石清水への移動中の襲撃。和泉守と陸奥守が現場に駆けつけた時、既に慶喜は連れ去られ敵は姿を消した後だったが、幸い死者は出ていなかった。化け物が、という慶喜と共に襲われた付き人たちの証言から考えるに、間違いなく時間遡行軍の仕業であろう。
「本来の歴史では慶喜も当日、腹痛を理由にお供を辞退している。攘夷の節刀は受取人不在で失敗に終わったはず」
「辞退される前に慶喜を誘拐して、何としてでも節刀の下賜を成功させたいってことか」
今ごろ一橋家や二条城、所司代や守護職では大騒ぎになっているだろうが、必死になって隠してもいるのだろう。騒ぎが大きくなる前に見つけ出したいはずだ。
「改めて聞くが、節刀ってのはそんなに大事なもんなのか」
肥前の問いに清光が頷いて答えた。
「あくまでも古い儀式の再現でしかないよ。だけどこれは、朝廷が実権を握っていた時代の儀式だ。朝廷が幕府に対して行う――帝の刀が将軍に下賜されること自体に意味がある。って、まあこれもじじいから聞いた話なんだけど」
「慶喜はまだ将軍じゃねぇだろ」
「……ああ、だからここまで何も観測されなかったんですね」
時間遡行軍が慶喜を誘拐するだけではこの作戦は成功しない。朝廷側に協力者がいなければならない。長州を経由して、水面下で着々と準備が行われていたのだろう。それらの動きが感知されなかったのは、その目的が『今』ではなかったから。
「本来の歴史の流れが改変されて節刀の下賜が成功しても、今すぐに何かしらの影響が出て歴史が変わることはない。本来の歴史で節刀が中止になっても攘夷の宣旨は行われるけど、既に開国している以上、攘夷が不可能であることは幕府内での決定事項で、朝廷から宣旨が出されたところで攘夷を決行することはできないからね」
攘夷を推し進める朝廷や長州がどんなに動いたところで、その事実が変わることはない。京都での動きとは別に江戸で進められている幕府内の計画もある。だからこそ今後の幕府は様々な方向に問題を抱えることになるのだが、とりあえず今は節刀の話だ。
「今すぐに大きな影響が出ることはない。だけど、誰よりも強い尊王思想を持つ慶喜が将軍に就任した時、帝から直接受け取った節刀――『帝の刀』が手元にあれば、きっと何かしらの影響が出るはず」
「だから家茂じゃなくて慶喜なのか」
「鳥羽伏見での逃亡どころの話じゃなくなっちゃうかもね」
もっと早く、もっと大きく歴史が動いてしまうかもしれない。
これは慶喜という、やがて将軍として立つことになる一人の男の精神に直接介入する歴史改変であり、一度そうなってしまえば修正することはとても難しい。何としてもここで食い止めなければならない。
清光と肥前の問答によって改めて結論が出たところで、本宮の偵察に出ていた陸奥守と則宗が戻って来た。
「わかっちゃあいたが、ぎょうさん敵がおった。こりゃあ骨が折れそうやき」
ここまで全く敵の姿を見かけなかったのは、この日のためにこの場所に潜んでいたからなのだろう。
「節刀の受け渡しが行われる前に慶喜を奪還する。まずは帝と朝廷側の人間たちを遠ざけるために騒ぎを起こそうか」
「近くで敵と派手に乱闘でもするか?」
「それがいいかな。なるべく大声を上げて威嚇する形で」
隊長を中心にしてとんとんと即席の作戦会議を進めていく。おおまかな流れと役割分担を決めたところで、それまで黙っていた則宗がようやく口を開いた。
「大変今更の話で言いづらいのだが、いいだろうか」
「どうされましたか、則宗さん」
「違和感の正体がわかった」
確かに今更だ。あとは敵の動きに合わせて作戦を決行するだけ、という今になって言い出すことではないが、一応聞いておく必要もある。五振りの視線を受けながら、扇子をぱちりと閉じた則宗は頷いて答えた。
「節刀として用意された太刀、恐らく僕だな」
「……はあ?」
節刀の下賜は神前で行われる。そうでなければ意味がない。つまり慶喜は山の上にある本宮の境内、本殿か拝殿の近くに必ず姿を現すはずであり、山中を闇雲に探すよりも周辺を見張っていた方が良い。
石清水八幡宮は平安時代に宇佐八幡宮から勧請された三大八幡宮の一つであり、京都の裏鬼門の守護として古くから重要視されて来た。八幡太郎の通称で知られる源義家が元服した地でもある。朝廷と武家の双方から信仰が厚く、この地にまつわる歴史や物語も多い。
いつもなら多くの参詣客でにぎわっているはずの境内は、帝の行幸のために人払いがなされているためひどく静かだ。そこに、敵の気配がひしめき合っている。
緑深い山中の、敵に感づかれないギリギリの距離から境内の様子を伺っていた清光が隣の則宗に尋ねた。
「行幸の列がそろそろ到着するけど、例の違和感は?」
「やはり、列ではなく境内の方から感じられるな」
賀茂行幸の時は列の中にあり、今回は行幸が到着するよりも先に境内のどこかに安置されているのだろう。
この状況にお誂え向きと言えばそのとおりの太刀である。
「幕府と戦った上皇ゆかりの太刀だ。帝の刀として、慶喜に対する効果は覿面だろうな。まったくどこから持ってきたのやら」
「回収した方が良い?」
「できれば。まあ、ここで使われなければ問題なかろうよ」
作戦の最優先事項は慶喜の奪還と節刀下賜の阻止である。
「そろそろかな」
まずは行幸の列が到着して慶喜が連れ出されるタイミングで、拝殿近くの神楽殿の裏手に潜んでいた四振りが騒ぎを起こす。そうすれば朝廷の一行は帝を守るために退避するはずだ。その隙に残りの敵を蹴散らして慶喜を保護する。
行幸の列の先頭が、最後の鳥居を潜った。それを待ち受ける総門の前には小さな駕籠と敵の影。裏手から怒声が上がる。敵が動く。ひと月ぶりに見る御鳳輦の担ぎ手と随身たちが慌てた様子で元来た道を戻るのを横目にしながら、清光と則宗も敵中に飛び込んだ。
行幸の列が崩れ、帝が八幡宮を離れた時点で敵の作戦失敗は確定だった。
だから次に危ないのは慶喜の命そのものである。駕籠から引きずり出されたまま呆然としている男を背に庇い、清光と則宗が奮戦している間に陽動役を終えた他の四振りも合流する。
「向こうは蹴散らしたぞ!」
「こちらも任せてください!」
和泉守と堀川の言葉に頷いた清光は、一緒に来て、と慶喜の手を掴んで走り出した。則宗がその背後を守りながら後を追う。
敷地内の建物に目立つ傷をつけないように戦うのは骨が折れるが、和泉守たちも慣れている。のちの国宝はきちんと守られるだろう。途中で遭遇する敵を次々と切り払いながら、清光たちもなんとか山を下りることができた。
木々を抜けた先に大きな屋根が見えたところで、一度立ち止まる。目の前に見えているのは、山の麓に鎮座する高良神社の裏側だ。
作戦開始の前に清光は、こんのすけを使って一橋家に匿名の書状を送っていた。『そちらの主を高良神社で預かっている』、と。
「あそこで御家の方々がお待ちです。えーっと、俺たちは貴殿のことを何も知らないので、貴殿も俺たちのことは何も知らない、ということで」
「うはは、へたくそか」
「ちょっと黙ってて」
思わず口をはさんでしまった則宗の脇腹を、清光は肘で小突く。その様子を呆然と眺めていた慶喜は投げられた言葉の意味と状況を理解して、ようやく我に返ったように立ち姿を改めた。
髪が乱れ、羽織も袴もぼろぼろになっていても、そうやって居住まいを正すと威厳が現れる。目の前に立つのはそういう生まれ育ちの人物なのだと、それだけで理解することができる。
「命の恩人に礼も不要、と」
「何も語らず、何も探らず。今日のことを黙っていてくれれば、それが一番です」
お互いのために何もなかったことにしましょう、という見知らぬ青年の提案に慶喜は頷いた。聞きたいことは山のようにあったが、詮索せずに黙っていて欲しいことも同じだけある。
将軍後見職が誘拐されるなど、それも朝廷が関係しているなどと、絶対に知られてはならないことだった。
「余は何も見なかった。道を見失い、山中をさ迷い、一人で下山した」
「そのまま腹痛で部屋に籠っていた、ということでひとつ」
このあと帝の行幸が仕切り直されても、そこに参列してはならない。詳しく語らずともその意図は伝わったのだろう。慶喜は深く頷いた。
「では、我々はここで失礼させていただくよ」
そう言って立ち去ろうとした則宗は、しかし動こうとしない清光にすうっと目を細める。
「どうした坊主」
「うん。偉い人の顔ってなかなか見られるものじゃないから、この機会にちゃんと見ておこうと思って」
清光の不躾な視線を受けて、しかし慶喜は何も咎めなかった。代わりにひとつ尋ねる。
「『偉い』から、余を助けたのか」
「ちょっと違うかな。助けた結果、俺が守りたい大事なものが守られる。それだけ」
「……そうか」
それ以上の詮索は互いに不要だった。
五、
文久三年四月十一日。正しい歴史の流れどおりに石清水行幸が行われ、歴史どおり攘夷の節刀の下賜は中止された。
――それから数日後。この時代に敵の気配が残っていないことを確認しながら、本丸の主と政府からの連絡を待つ六振りはそれぞれ、思い思いの場所に出かけていた。
清光と則宗が向かったのは、任務中には一切近づかなかった場所。まだ壬生浪士組を名乗り始めたばかりの新選組の拠点のひとつ。
壬生寺の近くにある小さな茶屋の、軒先に出された縁台に腰掛けて。
「見えた?」
「ああ、見えた」
大店の若隠居を装った則宗は、そう答えてのんびりと茶を啜った。若隠居の道楽に付き合わされる奉公人の姿をした清光も、隣で団子を頬張る。
茶屋の前を通り過ぎて行った浪士たちの一行。その中に沖田総司はいた。
「本当に驚くほど普通の青年だな」
「ねー。人気が出たからってだいぶ盛り過ぎ」
「その中に僕がいた、ということか」
金一万両の名刀。存在しない『菊一文字則宗』という幻の刀の物語。
「――って、俺も思ってたんだけどね」
「うん?」
「なんかちょっと、違う意味もあったのかなって。今回の件で『則宗の刀』が持ち出されたことで思ったんだけど」
節刀として用意されていた一文字の刀は、陸奥守と肥前の活躍によって無事に回収されていた。政府に送られ、どのような来歴でもたらされたものなのか調査中となっている。
「俺や安定が知る沖田君に、強い思想のようなものはなかったと思う。もしかしたら誰にも見せなかった、見せようとしなかっただけかもしれないけど」
過去をどんなに振り返っても、刀として振るわれるだけだった清光にはわからない。
「でも、あって欲しいと望んだ人が後世にいたんじゃないかなって」
「……勤皇思想、か」
「そう。明治になってからずっと先まで、それが必要な時代があった。だけど必要のない時代になって、いつしか忘れられて。理由が忘れられても、誰かが沖田君に望んだその思いだけが残って――菊一文字の幻が生まれた」
そもそも一文字派の祖である刀匠・則宗が打った刀の中に、菊の紋が刻まれたものは存在しない。菊の御紋に一文字の銘が入れられた、いわゆる菊一文字の刀は則宗よりも後の時代の刀匠による作刀である。
一文字則宗という名刀そのものの価値ではなく、上皇の御番鍛冶であったことと、後になって付加された伝承である「菊の御紋」の方に強い意味を見出された時代。
――沖田総司は、上皇ゆかりの菊の御紋の刀で戦う、勤皇思想を持つ志士であった。
歴史を変えたわけではない。そうであって欲しい、そうであれば良いのにと過去に対して願った人がいて、その思いの形だけが口伝として残った。やがて金一万両の名刀であることの方が重視される時代に至ってから、作り話が生まれた。
「本当のところはわからないけどね」
どんなに過去を知って、考え続けたところで答えは出ない。それはどちらもよく知っているし、伝説や、伝承や口伝、作り話をつくった者たちもまた同じだったのだろう。
そういった時代の変遷をも含めて、沖田総司という一人の男の歴史だった。
「ところで坊主。ずいぶん熱心に最後の将軍の顔を見ていたようだが、どう思った?」
「どうって……うーん、別に、かな。名前は何度も聞いたし、資料も見たことあるけど、こういう顔をしてたんだなーってだけ」
「あそこで坊主が彼に何かを告げれば、その後の歴史は変わったかもしれない。そうは思わなかったか」
「思わない」
即答だった。そんなことは考えもしなかったという毅然さだった。
そう言い切れることこそが、彼の強さの根底であることを則宗は知っている。加州清光という刀を愛してくれた、沖田総司という人間を形作る歴史への愛情。それを必ず守るという強い決意。
そして、だからこそ、と思う。
味は素朴だが意外と美味だった団子はとっくに食べ終えて、茶碗も空になっていた。ここへ来た目的も果たしたことだし、そろそろ戻ろうか、と立ち上がろうとした清光の袖を則宗が掴む。
「なに?」
「今回の出陣の前。夜明けに夢を見ていただろう」
「ああ、はかななるの歌の」
「坊主が見ていたのは沖田総司と共にあった頃の夢だ」
暁の夢の中で、大切なその名を呼んでいた。それを聞いていたのは則宗だけだった。
「幸福な夢を見ているのだと、すぐにわかった」
「そんな過去を変えようだなんて、思うわけがないでしょ?」
「そうだな」
目覚めと共に忘れてしまうほど儚いものだとしても。それが確かにあった過去の夢であるならば、明け方の微睡みの中で何度でも見ることができる。決して消え去ってしまうことはない。
松の梢を吹く風の音が変わらないように。歴史が変えられてしまうことのない限り。
――完全に消えてしまうことはないとわかっていても、目覚めた瞬間に淡く消える夢に寂寥感を覚えることはある。あの夜明けがそうで、だから大丈夫だと清光は改めて思う。
「ねぬる夜の夢をはかなむ必要はしばらくなさそうだし」
「うはははは。隣にいるからな」
変わらない過去はそのままそこに。選んだ未来は、今ここにある。
*
「おきたくん……」
夜明け前の部屋に小さく響いたのは、夢の中で懐かしい人の名を呼ぶ声だった。
そっと覗き込んでみれば、褥を共にする相手は穏やかな顔で眠っている。目覚めればふわりと消えてしまう、淡い夢の邪魔をしないように、則宗は隣でその寝顔を眺めた。
──沖田総司の過去にいない則宗は、彼と同じ夢を見ることはできない。夜明けと共に消えてゆく夢を惜しむこともできない。
ただ、名を呼ぶその声はあまりにも柔らかく響き、隣で聞いているだけの則宗の心をも締め付けた。
暁の夢も、名を呼ぶ声も。何もかも愛しいと思う。
自分にはないもの、だからこそ。そして、彼に会うまで「そうであれば良いのに」と思い続けていたからこそ。
命が消えても、物が壊れても、抱いた思いが消えることはない。手を伸ばせば消えてしまう淡く儚いものだとしても、確かにそこにあったと思い続けることができる。
長い歴史を見守り続けて来た──失って来た則宗には、その愛しさがひとつの救いのように思えた。
了