四、今宵の虎徹は
その夜、一文字則宗は意外な相手から晩酌に誘われた。
「清光と安定が世話になっているからな。特に清光は、先の特命調査の件もある。だから一度ゆっくり話をしたいと思っていた」
夕餉の後、先ほどまでの喧騒が嘘のように静かになった大広間の障子は空気を入れるために開け放たれたままで、吹き込む夜風が心地よい。その風で小さく波立つ大池の様子がよく見える、部屋の端に腰を下ろした二人の間に置かれた盆には酒と小鉢と盃が二つ。
「世話になっているのは僕の方かもしれないぞ?」
受け取った盃にとぷとぷと清酒が注がれるのを眺めながらそう言えば、相手――長曽祢虎徹が困ったように笑った。
「あのように酷い戦場で、他でもないあんたが隣に立つ意味は大きかっただろう」
「一人でも加州の坊主は何の問題もなく任務を終えたさ。僕はただそれを眺めながら話をしただけだ」
見たいものを見て、語りたいことを語り聞かせた。それだけのこと。
「あれは強いからな」
「……本当に」
心から同意するように低く呟いて、長曽祢虎徹はそっと盃を置いた。
「清光は強い。おれにあそこまでの強さはない。同じ場に立ったらきっと心が揺らいでしまった」
池田屋でも鳥羽でもそうだったように。
自分たちが守るべきもの、戦う理由を忘れたわけではないし、歴史を変えてはならない理由もわかっている。決して変えてはいけないものだと思っている。
それでもいざ目の前にしてしまうと、考えて、迷って、揺れてしまう。
「愛が強いからこそ、だな」
則宗がそう言えば、長曽祢は膝の上に置いていた拳にぎゅっと力を込めた。
「いや、だが、」
「迷って揺らぐのも愛。強く揺らがないのも愛。愛の形は様々なものだ」
過去を知るものがその過去を変えないための戦いを続ける以上、どうしたって迷いが尽きることはない。どんなに強くあったとしても終わりの見えない長い戦いの中で、絶対に迷いが生じないと言い切ることもできないだろう。
揺らいで、迷って、悩んで、立ち止まって。
それでも人の身を得た自分達は、自ら選んで過去の戦場へと向かい、変わらない過去と対峙する。
「生まれや立場や思いが違ったとしても、それだけは皆同じだ。戦い続けることができるのなら何も問題はあるまい」
「見守ってくれる主と、仲間たちのおかげだ」
仲間たちと共に、愛した人たちのために、揺らぎ、迷いながらも戦い続ける。
それで十分だろうと則宗は笑った。
「そうでなければ虎徹の贋作を堂々と名乗ることなどできまいよ。――ああ、これは皮肉などではなくそのままの意味だ」
「わかっている」
それが『近藤勇の長曽祢虎徹』にとっての、決して揺らがないもの。
かつての主が呼んでくれたこの名前で戦い続ける。それだけは最初から今に至るまで、誰に何を言われても譲らなかったもの。譲れなかった想いだ。
名を呼ぶ懐かしいその声を、忘れずに覚えているからこそ。
「しかしこうして言葉を交わしてみれば、ますますあの有名な台詞が作り話だということがわかるな」
「今宵の虎徹は血に飢えている――使っておいてなんだが、当時のおれ自身はもちろん、近藤勇も血に飢えていたということはないと思うのだが」
「作り話とはそういうものさ」
他でもない彼がそう言うのならそうなのだろうと、長曽祢も頷くしかなかった。
「それにしても、君たちはとんだお人好し集団だなぁ。こんなじじいの話を最後まで聞いてくれる」
清光も安定も、堀川も長曽祢も。まだゆっくりと話をしたことはないが、きっと和泉守兼定も同じだろう。
盃の中身を飲み干した則宗がしみじみとそう告げれば、継ぎ足そうと徳利を手にした長曽祢が不思議そうな表情を浮かべた。
「何を言っている。それはそうだろう。あんたも新選組の仲間だ」
「僕はあの菊一文字ではないぞ?」
「それでも新選組のことを考え、よく知り、愛している。おれたちと変わらず。愛しているからこそ清光と共にあの戦場に立った」
それで十分だと、今度は長曽祢が笑う。
疑いもなくそうやって言い切れることこそが、彼の強さだった。