慶応甲府監査官顛末記 - 2/6

二、千駄ヶ谷の猫

 

「おや、加州清光は不在かな」
 庭に向かって開け放ったままにしていた障子の間から、ひょいと顔を出して見せたのは最近来たばかりの一文字の太刀だった。みかんの皮をむにむにと揉んでいた大和守安定が首を傾げつつ答える。
「急な遠征でいないよ。何か用?」
「いやなに、通りすがりに声をかけてみただけのことよ」
 そう言いながら一文字則宗は、そのまま部屋に入り安定の向かいに座った。暇なのだろうか。清光と共に非番をごろごろ過ごす予定だった安定は間違いなく暇なので、特に追い出すこともなくみかんをひとつ差し出した。
「あんたさぁ、一文字の祖なんでしょ? こんなところでぷらぷらしてていいの?」
「そういうものから隠居して、とっくに山鳥毛へ任せてある。ここにいるのはただのじじいさ」
「……平安鎌倉の刀ってみんなそんな感じなの?」
「さてなぁ」
 うっはっはと扇を叩いて笑った則宗は、そうだな一文字、と思い出したように改めて口を開いた。
「うちの南泉の、『呪い』の話は知っているか?」
「猫を切った話でしょ。……切ってないよ、沖田君は」
「話が早いな」
 先回りされた答えに怒るどころか、目を細めて満足気に頷く。
「確かに猫はいたと思うけどね」
「千駄ヶ谷のあたりであれば猫も多かろう」
「うん。沖田くんは猫を見ていただけで、切ったりなんかしてない。けど、」
「けど?」
「猫を見ながら何を考えていたのか、僕にはわからない」
 近藤たちが待っている戦場へいつでも駆けつけられるようにと、愛刀を枕元に置いたまま彼は床に伏せていた。そこから庭の猫を眺めて、何を思っていたのだろうか。
「刀の僕にはわからなかった」
「人であってもわからんだろうよ」
「でも人の身であれば聞くことはできるでしょ?」
「聞かれたところで、答えるかどうかは相手の自由。そしてその答えが本心とも限らん」
 人には本音と建前がある。心の中の、相手に聞いて欲しいと思う声と、決して相手には見せたくはない、知られたくはないと思う部分と。
 思うことすべてを語る必要はなく、黙っていることもまたひとつの答えだ。
「だからこそ、考える」
「答えがわからないのに?」
「答えが無いからこそ自分が納得できる答えを見つけるまで考え、思い続けるしかない」
「あんたはずっと、そうやってきたの?」
 青い丸い瞳が、まっすぐに相手を見ている。
「沖田君のことを物語でしか知らないって言った。それなのにすごく詳しい」
「彼を語る物語は大変に多くてな。それなりの時間をかけてはみたが、とても全てを網羅することはできなかった」
「そう」
「彼はとても、愛されていたのだな」
「……うん」
 数多の物語が作られるほどに、数多の人々に愛されていた。それを一文字則宗は確かに知っている。大和守安定は素直に頷いた。
「あ、でも今の話を聞いてわかった。沖田君のことを知るために、沖田君の刀である僕たちのことも結構調べたでしょ」
「どうしてそう思う?」
「清光が、なんか初対面なのにやけに馴れ馴れしくて距離が近かったって言ってたから」
「おっと、距離感を間違えたかな」
 そう言われて、改めて考えてみればそんな気もする。則宗にしてみればいつもどおりの態度ではあったのだが、初対面の相手に対して取る態度ではなかったかもしれない。
「あんたは僕らのことを調べて、いろんなことを考えたのかな。とにかくよく知っていたから、はじめましての気がしてなかったんでしょ。だけど対する僕らは『一文字則宗』のことを何も知らないからね」
 例の作り話のことはもちろん安定も知っている。けれどもそれは決して彼自身のことではない。この本丸に来た彼本人のことを知るところから始めなければならないのだろう。
 この先を考えるためにも。
「というわけで! さっそく一文字の祖とやらの実力を知りたいと思うわけですが」
「話のあとは実践か。良いぞ良いぞ」
 稽古場は空いていたかなと笑う。そういうところはきっと、この二振りともう一振りはよく似ている。