「鬼の霍乱ってのはこういうことを言うのか」
「何しに来たんですか」
わざわざそんなことを言いに来たわけではあるまい。と、自室の扉を開けた先にいた、ほぼ毎日盛岡駅で顔を合わせている小柄な男の顔をにらみつける。だが、ほんのりと朱色に染まったその目元には涙が滲んでいた。
そのままゲホゲホと咳き込んだ宇都宮の背、には届かないので腰のあたりを押しながら部屋に上がり込んだIGRは、ちょっと借りるぞーと部屋に備え付けのミニキッチンに立つ。
勝手に何をと思うのだが、追い出すのも面倒なほどだるい身体で小言を言うのも億劫だった。もう好きにすればいいと思いながらベッドに戻れば、すぐにぐつぐつと何かを煮立たせる音が聞こえてきて、ずいぶん手際の良いことだと密かに感心する。
こう言う時に見舞いにくる一番近しい同僚や、直接の上司ではこうはいかない。その二人とも昨夜から東京にいるので、この盛岡の宿舎なら静かだと思っていたのだが。
「夜は様子を見にくることが出来るが、昼の間が心配だからと頼まれたんじゃ」
誰に、と言わなくても明白なことは言わないし、宇都宮も聞かない。余計なことをと思いつつも目の前に差し出された粥に浮かんだ、ほぐした梅干しにひとまず文句を飲み込む。
「放っておくと面倒くさがって何も食わんと聞いたからのう。しっかり食って、しっかり回復せんと」
「……いただきます」
食欲があまりないとはいえ、さすがに丸一日以上何も食べていない胃が空腹を訴えていた。上着を肩にかけ、添えられていた匙を手にしてぱくりとひとくち。またひとくちとゆっくり口に運ぶ。
味覚もぼんやりとしているせいか、酸っぱさよりも甘さが勝っている梅干し以外の味はあまり感じられなかったが、少しずつ身体の芯が温まって風邪特有の悪寒が軽減したように感じられた。しかしこのまま寝るには少し暑すぎるかもしれない。
「ごちそうさまでした」
ふう、と一仕事終えた後のような疲労感と共に匙を置けば、お粗末さまでしたと相手が笑った。あえて意識しないようにしていたが、食べているあいだ彼はずっと隣でその様子を眺めていた。
「まだ残っているから、夜に腹が減ったらあっためて食うといい」
「はあ」
気の抜けた返答も気にすることなく流しに皿を置いて、手早く洗って戻ってきた相手は何かカップのようなものを持っていた。コンと目の前に置かれた小さなそれをじっと見る。
「……これの出どころは貴方でしたか」
「出どころ?」
「以前風邪を引いた時に、これと同じものを上官が」
持って来てくれました、とまでは言葉が続かなかったのは照れからなのか。何やら楽しそうににやにやとしている相手に突っ込まれる前に、目の前に置かれたカップとスプーンを手に取る。
それはスーパーなどでよく見かける、三個パックの小さなプリンだった。少なめの粥に小さなプリンで、病床の空腹を満たすには十分な量だ。冷蔵庫で冷やされていたプリンは暑くなりすぎて汗ばんだ身体を適度にクールダウンしてくれる。
「アレが風邪を引いた時によく出してやったんじゃ」
自分の分のプリンの蓋を開けながら、覚えていたのかと懐かしそうに呟くから恐らく、それはまだ東北上官が候補生と呼ばれ、彼と共に住んでいた頃のことなのだろう。東北上官は滅多に風邪を引かない。彼は厳しく自身の体調を管理している。
雨の日も風の日も、深い雪の中でも、弛まず走り続けるために。そしてそれは、かつての自分の姿と重なるようで。
「雪原に一人、まっすぐに佇むお主は、絶対に風邪などひかないのだと思っていたよ」
「その役目ごと彼に押し付けましたから」
「アレはそれを、きちんと背負っているだろう?」
「そうあっていただかないと困ります。あ、お水ください」
そんなことはずっと前から、候補生が選ばれて集められた時からわかっていたことで。今更何をと肩を竦めながら小瓶の蓋を開けようとして、手に力が入らないことに気がつく。小さく舌打ちすれば水を置いた相手にひょいと小瓶を取り上げられた。
「困るのは東北の本線たるお主の立場か?」
「利用者が、ですよ」
蓋の開いた小瓶を受け取って、薬を飲み込む。風邪を引くような油断をしてしまったのは、連日の積雪と共に蓄積した疲労をきちんと解消していなかったからだ。
ずいぶんと甘くなったものだと思う。そして何よりも、それを許されてしまっている現状に問題があるような気すらしている。甘えられる環境と言うものは、最初はどんなに居心地が悪かったとしても次第に慣れてしまうものなのだと。
そんなことを考えながら、こんな機会は他になさそうだからとつい普段なら聞かないような質問が口を出た。
「あなたは彼を」
「うん?」
「……候補生11番を、甘やかしましたか?」
あれは自分以上に己自身を厳しく律しているように見せて、実はずいぶんと甘えたところがある男だ。
彼の候補生時代のことはよく知らない。視察で見かけた時に視界に入っていたかどうかも怪しい。そして彼が候補生の中から選ばれたばかりの頃は、自分の気持ちにあまりにも余裕がなさすぎて彼の様子にまで気が回っていなかった。
だから、恐らく候補生時代の彼を一番知っているであろう目の前の相手に問いを投げたのだが。
「おれからすれば、お主の方がよほどアレを甘やかしているように見えるぞ」
「それは心外ですね」
「いやいや。何だかんだ言っても見捨てないだろう?」
「他に誰が面倒を見るんですかあんなの」
「お主以外におらんのう」
上官に対するあんなの呼ばわりに少しも動じないのは、その気持ちをよくわかっているからだろう。時計を見上げて、そろそろ帰るかと片付け始めた相手を横目に肩にかけていた上着を畳み、ベッドに潜り込む。
「嫌ってはいないと、お主は言った」
覚えているか? と問われて、ええ、と布団の中から曖昧に答える。嫌わないで欲しいと言われて、確かにそんなことを答えた覚えはある。
「おれも同じだ。好きとか嫌いとかではなく、アレを放って置けなかったんだ」
能力はあるのに、だから選ばれたと言うのに、それでも無気力だった頃の彼も。未来を見出して、前に向かって走り始めた頃の彼も。
自分の未来が誰かの過去を奪うのだと知って、それでも走り続けることを選んだ彼も。
長い月日を走り続けた先で何もかも失った自分にはとても青臭く、そしてひどく眩しく見えた。
「とは言えおれが教えられることといえば、背をまっすぐに伸ばして走り続けることくらいだ」
「新規路線の拝命をしばらく頑なに拒んでいた貴方が言うせりふですか」
「あー、それは、……それのしんどさを、よく知っておったからのう」
奪われた日のことを、忘れられるはずがないし、忘れたこともないから、と。
「僕は、」
――ああ、自分はどうして、これを目の前の相手に言ってしまうのだろうかと。あとで絶対に後悔すると確信しながら、それでも何故か止めることができなかった。
「僕は自分が奪ったものを何ひとつとして忘れてはいない。その自分から奪っていった彼にも、そのことを忘れて欲しくない。そんなことは許せない」
勝手なことを言っている自覚はあって、だからずっと黙っていた。ただひとりを除いて、誰にも言わなかったことだ。
熱のせいか、薬のせいか。ぼんやりとした意識の中でふわふわと言葉が浮かんでいる。たまらなくなってまぶたを閉じれば、ひんやりとした手が額に触れた。
「アレはきっと、わかっているさ」
「ええ、だから腹立たしい」
「お主も結構わがままじゃのう」
苦笑して、けれどわからないこともないと曖昧なことを言って。
「昔は好きでも嫌いでもなかったが、今はアレを好いておるよ。アレは一度決めたら絶対に曲げない男だ」
だからきっと、ずっと、覚えている。言外に含まれた言葉に、お節介なひとだと思いながらも宇都宮は答えた。
「そんなこと、知らないはずがないでしょう」
たぶん、誰よりもよく知っている。
自分の上に立つものがそういう存在であることを、他でもない自分自身が望んだのだから。
だから、誰よりも彼に甘えているのもこの自分だ。そのこと自体も、その現状に満足しているという事実も、決して認めたくはないけれど。
フェイシャン発行『It was all because of snow.』寄稿