裏井戸

「えーっと君、大野だっけ?」
「はっ、はい!」
 背後から投げられた、聞き覚えのある声に緊張しながら大野が振り返れば、予想どおりニヤアと悪い笑みを浮かべた斎藤の姿があった。
「この前、島田君に頼まれて大文字屋に新入り隊士の羽織の注文に行ったの、君だよね」
「え、はい、そうですけど」
「じゃあ注文の仕方、わかるよね」
「あの……?」
 ニコッと笑った斎藤が何かを差し出したので、反射的に両手で受け取る。ずっしりと重い小袋はジャラリと音を立てて、大野の手のひらに収まった。
「それだけあれば足りると思うから、幹部用の黒い羽織、数着注文してきてくれないかな。あ、受け取りも任せるから」
「幹部用の、ですか」
 新選組の幹部が増えたという話は聞いていない。それ以前に必要であれば、しかるべき方法で用意されるだろう。こんなこっそりと、平隊士に頼むようなものではないはずだ。
 つまりこれは、斎藤の個人的な注文であり。
「島田君にバレるとうるさいから見つからないように。近藤さんと土方さんにも。バレたらどうなるか……わかるよね?」
「えっと……」
「血ってさぁ、時間が経つと洗っても落ちないから。新しい羽織を用意した方が早いよね」
 黒地とはいえ血の量が多ければ目立ってしまう。それが自分のものであっても、誰かの返り血であっても。それは大野にもわかる。わかるのだが、いま大事なのはそういうことではないということもわかっている。
 こくこくと黙って頷きながら小袋を握りしめた大野の肩を、よろしくなーとバシバシと叩いた斎藤はそのまま笑って立ち去ってしまった。断るどころか反論する暇も与えられなかった大野は、仕方なくその足で大文字屋へと向かう。こういう面倒ごとはさっさと済ませてしまった方がいい。

 

 普段は使わない裏井戸のそばで、ひどく咳き込む声が聞こえる。
 またか、と袖をまくりながら声の主に近づいた斎藤は、井戸にぽーんと釣瓶を落とした。
「ん、はじめ?」
「汚すなら手と羽織だけにしておけよ。中まで汚したら隠せねぇぞ」
「ほんとは羽織も、汚したくないんだけど、なぁ」
「じゃあ脱いでおとなしく寝てろ」
「やだ」
 少し落ち着いたのか、笑いながら沖田は口元の血を手の甲で拭う。ほら手を出せ、と斎藤に言われて素直に両手を前に出せば、井戸から汲み上げたばかりの冷水をその手にかけられた。軽く血を洗い落として、残っていた水で濡らした手ぬぐいで口元を改めて拭って。
「その羽織寄越せ。新しいの持って来てやるから」
「でも羽織を着ないまま屯所内をうろつくなって」
「土方が言ったんだろ? じゃあ羽織を脱いでる間はあいつの部屋にいればいいだろ。ここから近い」
「あ、そっか」
 それもそうだねぇと笑いながら羽織を脱ぐ。黒い羽織の裾には吐いた血が飛び散り、けれどもこの量であればすぐに洗えば落ちるだろう。
 受け取った羽織をぐるぐると適当に丸めて抱えた斎藤に、でもさ、と立ち上がって袴の砂を払った沖田は笑いかけた。
「おとなしく寝ているだけの俺なんて、はじめも見たくないでしょ?」
「うるせぇ」
「新しい羽織、ありがとね」
「別にお前のためじゃねぇよ。俺がなんかやらかした時に、返り血で土方にバレたら面倒だろ」
 そのために自分の金で勝手に用意したんだと言い張る斎藤に、沖田は苦笑を浮かべる。
「隠しても土方さんには筒抜だと思うけどなぁ」
「お前もな」
「……うん、そうだね」
 それでも隠している間は、隠せる間は、戦いに出ることを止めずにいてくれるから。
 まだ大丈夫。今はまだ大丈夫、と。自分に言い聞かせて何度でも立ち上がり、誠の文字を背負う。
 この先の、未来のことなんて知らない。外にある世界のことなんて知らない。知る必要もない。
「ねえ、はじめ。俺ね、今が一番しあわせなんだ。近藤さんたちと駆け抜けている今が、一番楽しい」
「それならなおさら、おとなしく寝てる場合じゃねぇな」
「そういうこと」
 そうして笑い合えるのはきっと、斎藤も沖田と同じ気持ちだからだ。だからこそ何度も何度でも、沖田に新しい羽織を持って来てくれる。
 共に同じ夢を背負うために。

 

 


初出:2018/02/12 ぷらいべったー

斎藤と沖田のはなし。平隊士が大野なのは仕様です。

沖田の「稽古つけに行こうかな!」からの流れるような羽織の受け渡し何度観ても萌えすぎて死にそうになる。