重い扉を押し開ければ、カランカランと小さなベルが店内に鳴り響く。
薄暗いカウンターのいつもの席に座ってそのまま黙っている眼帯姿の青年に、マスターはいつものグラスへいつもの酒を満たして差し出した。そして、隣の席にも同様に。
昔と何も変わらないいつもどおりの流れに、けれど驚いたウィリーが顔を上げる。
「お前、見えるのか?」
「いいえ。でも、そこにいらっしゃるのでしょう?」
「確かにいるけど……なんでわかるんだ」
「ウィリー様の様子を見ていればわかります」
マスターがそう答えれば、隣の相手が何か言ったのだろう、「そんなことねぇよ」と少し不貞腐れながら、ウィリーが酒に口をつけた。
「天使、でしたか。どうしたら私にも見ることができるんですかね」
「死期が決まったヤツに見えるんだってさ」
「ああ、それなら。死ぬ前に会いに来てくれたら、最後にもう一度お会いすることができますね」
そう言って笑ったマスターの顔を見て、横をちらりと見たウィリーが相手の肩を軽く叩くような仕草をした。そんな様子を見ていれば、見えなくたって相手が誰かわからないはずがないのだ。
「って言うか、俺のことは聞かないの? なんで見えるのかって」
「昔、誰に聞いたか忘れましたが。片目になると『見えないはずのものが見えるようになる』そうですよ」
「なんだそれ、ほんとか?」
きょとんと目を丸くした様子は、片目分しか見えない。眼帯に覆われたウィリーの片目がどうして失われたのか、マスターも風の噂では聞いていた。だからこそ、そのことには特に触れずにそのまま話を続ける。
「本当かどうかは知りませんし迷信のようなものでしょうけど、万全には見えないからこそ別のものが見えやすくなる、というのはあるのかもしれませんね」
「ふーん?」
「あとはまあ、ウィリー様がそう簡単に死ぬとは思えませんし」
「まあな」
「生命力だけはしぶとい方ですので」
「言い方! お前も笑ってんなよ!」
あはは、と声を上げて笑っているのだろう。その笑い声はマスターには聞こえない。けれども差し出した酒は減っているし、ウィリーは楽しそうに笑ったり話しかけたりしている。
――ただそれだけを得るために、彼らが何をしてきたのか。どうやってここまで二人で辿り着いたのか。相手が語れば耳を傾けるが、マスターから尋ねることはない。それが海賊を相手にする酒場のマスターを長く続ける極意だ。
「そうだマスター。あのさぁ、アイツらがいつも飲んでた酒、ある?」
「ありますよ」
「出して。俺とこいつで飲むから」
「タマルさんの分も?」
「あー、タマルのはいいや。アイツは生きてるから。な?」
ウィリーが隣人に同意を求める。求められた相手も同意したのだろう。よろしく、と言うような視線を向けられたマスターはかしこまりましたと答えて、二人分の酒を追加で用意する。
彼らは皆、ボトルをキープしていたわけではなかった。けれどいつも頼むのはだいたい決まったものだから、それらの在庫は切らさないようにしていたのだ。その必要はもうないのだと、わかってはいたのだけれど。
「こちらがダーヴィッツさんの、こちらがブレグマンさんの好まれてた酒です」
「これは?」
三つ目のグラスを指差したウィリーが、隣を見て首をかしげたのを確認して、マスターは笑ってみせた。
「アイアデール様がお好きだった酒です」
「マジかよ……あのオッサンここに来てたのか」
「いえ、こちらに来たことはありません。私が勝手に、いつかのために用意していただけです」
その意図はたぶん、二人に通じたのだろう。いつかの日が来なかったからこそ、こうして今目の前に差し出したのだということも。
「……そっか。じゃあこれは、お前が飲んでくれ」
「私が?」
「ドラコにはダーヴィッツのやるよ。俺はこのブレグマンの……そういえばいつも気になってたけど、なんだこれ」
「ウォッカとドクターペッパーのカクテルです」
「なんだそれ!? あ、でも普通に飲めるぞこれ。え、待ってダーヴィッツの、そのなんか白いのは?」
「プロテインですね」
「そもそも酒じゃねぇ!」
白い液体で満たされているグラスがスススーとテーブルを滑り、飲まねぇよ!と答えたウィリーがそれを押し返そうとする。ではそれは私が飲みましょうとマスターが手に取れば、じゃあ俺はこっちだな、と先程マスターに渡したばかりの最後のグラスを手に取ったウィリーが、自分が持っていたグラスを隣人に渡した。
「しかし、あのオッサンが飲んでた酒なんか初めて知ったわ……。は? メフィストになっても飲んでた? ほんと、とんだ飲んだくれだなあのクソ親父」
そう言ってカラカラと笑ったウィリーと、マスターともう一人。三人で乾杯をする。
重なり合ったグラスの音が、酒場に小さく響いて消えた。
初出:2019.07.22
みんな大好きベル・ミカエルの酒場のマスター。