匈奴の子守唄の話

「ちょ―――せ―――ん」
 厚い垂れ幕を捲り、情けない声を出しながら穹廬に入ってきた張遼は明らかに酔っていた。ここ数日、いくらなんでも飲み過ぎだと思っていた貂蝉は相手へ見せつけるように大きなため息を吐く。
「お酒はほどほどに、それができないならしばらくのあいだ禁酒、と約束したばかりですよね?」
「ほどほどだろ……たぶん」
「言い切れないなら嘘など吐かないでください。それでは約束どおりしばらく禁酒ですね」
「やだぁー」
 子供のように駄々をこねながら貂蝉の寝台にごろりと寝転ぶ。張遼、と貂蝉が声をかけると、相手は猫のように丸くなりながら声だけ返した。
「寝れねぇんだよ」
「それで毎晩、深酒を?」
「酒飲んで酔ったら寝られると思って。まあ無いよりマシ程度だけど」
「呆れた。そういう時にはもっと身体を温めるものを飲むんですよ」
「……そうなの?」
 そうなのって、と寝台に腰掛けて張遼の顔を覗きこめば、相手は驚いたようにきょとんとしていた。シラを切るのではなく本当に知らなかったのだろう。
「そうですね、今夜はもう遅いですからこのまま寝てください。明日からは何か温めたミルクでも持って行きますよ」
 そう言いながら灯をいくつか落として、よいしょと張遼の横に潜り込む。大きくない寝台に男二人で寝るのは、窮屈ではあるがだいぶ暖かいはずだ。
 酒が回っている張遼の身体は、冷えてはいないが温まってもいない。芯から冷えたままだ。これでは寝つきも悪くなるだろうと思いながら貂蝉は、何か言いたげな顔をしている相手を厚手の毛布でぐるぐると乱暴に巻いてしまう。
 自分も鮮やかな刺繍の入った毛布を掛けて横になって、それからぽんぽんと、相手の丸い背を撫でながら小さく、懐かしい唄を歌ってやる。まるで寝付けずにぐずる子供を相手にしているようだとひとり笑えば、されるがままになっていた張遼が毛布の中でもぞりと動いた。
「それは、子守唄か?」
「ええ、よくある子守唄です、けど……もしかして北では違いました?」
「知らないなぁ。聞いたことがない」
 確かに南に来てから子守唄を聞く機会など彼にはなかっただろうと納得しかけて、いや、違う、と貂蝉はすぐに気がついた。彼が知らないのは子守唄そのものだ。聞いたことがないと言うのは、つまり彼が北にいた頃のことで。
 だから寝付けない夜にどうしたら良いのかなんて、彼は本当に知らないのだ。酒を飲んで酔えば確かに眠りに落ちることはできる。彼はそれしか知らないからそうしてきた。それだけのこと。
「初めて聞いたが――存外に心地いいものだな」
 子守唄というのは。そう言って、とろりと眠そうに目を閉じた張遼の背を変わらず撫でながら、そうですね、と貂蝉は笑って答えた。
「あなたが望むなら、いつでも歌って差し上げますよ」
「それは良いなぁ……」
 毛布に包まれた身体もすっかり温まったのだろう。薄暗闇の中で、小さく穏やかな寝息を立て始めた相手の無防備な顔を眺めながら、貂蝉は小さな声で歌い続けた。
 それは愛しい相手の、安らかな眠りを願う歌。

「いるんだろ、貂蝉」
 暗闇の中で張遼の声だけが響く。窓を開けてもいないのに動いた風が寝ている彼の頬を撫でて、どこからともなく応えが返ってきた。
『どうしてわかったのですか』
 こんな暗闇でなくても姿なんて見えないのに。不思議そうな声に、何もない闇を見つめたまま張遼は笑った。
「なんとなく、だけどな。お前が来ると思ったんだ」
『張遼、』
「なあ貂蝉、歌ってくれないか」
 いつかの子守唄を、いつかのように。二人が共にあった日々のように。
 遠い北の地にある、もう二度とは戻れないであろう故郷の唄は、張遼の耳に残るだけになってしまった。ここでは誰も歌わない。聞くこともない。だからこそ。
「歌が聞こえる間、見えなくてもお前がそこにいるんだろ」
『……はい』
 あの懐かしい日々に戻ることはできないけれど。それでも彼が望むのならば歌い続けよう。いつかその歌すらも忘れてしまう日が来るまで。
 望むならいつでも、と約束したのは自分なのに。

 


2019.01.27発行『もののふの本/りんかねの本』から再掲。