夏来にけらし雪見草

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歴史創作再録本。維新後の新選組。
地方高官になった大野右仲と、過去を偽ってその部下になる安富才輔の話。

2016.07.23発行 詳細:紫雨文庫・BOOKS


 

二、慶応四年 夏

 宇都宮戦での負傷により、本隊より一足早く会津入りしたと聞いて、新選組の土方歳三が療養のため滞在している清水屋を尋ねる者は多い。
 鳥羽伏見、あるいはもっと先、禁門での戦いなどから実際の戦闘を見てきた者は労いの言葉をかけ、土方が見てきた戦況を詳しく知ろうとし、そうではない人間は勘違いも甚だしい配慮のない言葉を口にすることがあった。
「だからって客人に枕を投げつけるのはどうかと思います」
「それはさすがに反省している……」
 近状の報告のために訪い、話を聞いて呆れてしまった安富の言葉に、でも腹が立って仕方がなかったんだと土方は子供のように反論する。怪我がなければ刀を抜いていたかもしれないと考えれば、枕投げ程度で済んで良かったと言うべきなのだろうか。
「しかし、アイツは面白かったぞ。松川精一」
「それは、どこのどなたのお名前ですか」
「松川は偽名。唐津小笠原家中の、大野右仲、と言ったかな」
 団扇をひらひらさせながらのんびりと答えた土方に、彼よりも先に会津入りしていた安富は入手していた情報を急いで思い出す。
「唐津小笠原のご家中というと、老中だった壱岐守殿の供としてこの会津に来ている方々ですか」
「そうなんだが、あの大野と言う男はちょっと違うみたいだな」
 ぱたりと団扇を膝に置いて、怪我を庇いながらゆっくりと座り直す。幸い命に直接関わるような怪我ではないとは言え、足の指先を撃たれているため全ての動作に支障が出てしまう。当然、足場の悪い戦場での戦闘は難しい。
 それが余計にもどかしく感じるのだろうが、早く復帰するために大人しく治療に専念していた。もどかしいからと言って動き回っても良いことはひとつもないと、この短い間でとくと思い知ったからであろう。
「もともと壱岐守殿は旧領地だった棚倉あたりで隠居するつもりで、主戦論を唱えていた大野とは途中から別行動を取る予定だった。それが棚倉も安全ではなさそうだってことで、会津に移ってきて大野と合流した」
 唐津小笠原家は九州の大名だが、小笠原壱岐守長行は老中として幕府から第二次長州征伐の全権を任され、またそれに失敗して江戸へ戻った後、薩摩三田藩邸への討入りを指示した人物として、薩長双方から恨まれていると言われていた。そのため、敵方に捕まったらどうなるかわからないとのことで、大野たち家臣が動いて江戸から北へ逃がしたという経緯がある。
「主君を安全な場所へ移したら、自分は友人が多く苦難の最中にいる会津や長岡を手助けしたい、見過ごすわけにはいかないから、と。主戦派というよりは黙って見ていることが出来なかったのだろう」
「それで、会津に」
「先日、会津と長岡の橋渡しを頼まれたのでこれから長岡に行くと言っていた。その前にもあちこちへ顔を出していたようだし、随分と精力的な男のようだな」
「その彼とお会いして、どう思われましたか?」
「そうだなぁ」
 面白いと最初に土方は言った。けれど随分とその大野と言う男に好意を抱いたのだろう、楽しそうな顔で話すからその先の印象が気になった。
「諦めの悪そうな男だったな」
 場を読めない、ということはないのだろう。初対面の土方の様子をよく見ながら話を膨らませ、土方の話も一を聞いて十を察するくらいによく理解していた。打てば響くような、というのはこのことをいうのだろうと思うほどに。土方だけでなく様々な人間から直接話を聞くことで情報を集め、周辺状況の把握に努めているようだった。さすがは元老中の懐刀と言ったところか。
 けれど、それだけ冷静に状況を把握した上で、大事な部分で情に動く。このまま会津にいては分が悪いことを察しているはずなのに、何とかしようと走り回っている。
「大野が集めたという、周辺地域の状況を少し聞いた。――会津は駄目かもしれんな」
「土方先生、それは、」
「先に会津に来ていたお前も、薄々感じてはいるのだろう?」
 実際に来て見てわかったことがある。この土地は防衛に向いていない。険しい山脈に囲まれているが、奥州の玄関口であるため大きな街道も多い。
 それ故に、ひとつでも要所を突破されてしまえば敵は大軍で押し寄せ、その進撃を止めることは難しい。苦戦は必至だろう。
 だからこそ要所の全てに軍を配置しなければならず、そうなれば当然、本陣は手薄になる。周辺他国の協力や、江戸から脱走してきた土方たち新選組、それよりはるかに規模の大きい旧幕府陸海軍といったいわゆる脱走軍の力が必須になるが、険しい山脈があるが故に伝達に時間がかかり、それぞれの思惑の齟齬もあり、会津と庄内を救うために組まれたはずの奥羽越列藩による同盟の連携がうまくいっていない。
 大野が長岡と会津の橋渡しを頼まれたのも、敵軍との会談が決裂するまで中立を宣言していた長岡に対して、会津の兵が不信感を抱いているからだ。会津は会津の者が守る、と言って憚らない者たちも少なからずいる。そのせいで、脱走軍の中でも会津に対する感情が変わりつつあることはつい先日聞いたばかりの話。
「そんな状況をよく理解した上で、あの男はそれでも何とかしようと奔走している。もちろんあの様子だと、主君である壱岐守殿の身の安全が確保できなくなったら会津を離れるのだろうが、簡単には諦めそうにはないその姿がなんだか妙に懐かしくてな」
 振り返る暇などない。前へ進む以外に道もない。どんなに望んだところで、懐かしい過去の日々には戻れないのだから。
 自分たちも確かにそうやって走り続けてここまで来たはずだ。それをこの数日の間はぼんやりと忘れていたような気がする。
「会津には本当に世話になったし、恩義もある。だからギリギリまでここで戦うつもりだが、会津を死に場所にするつもりはない」
 自分たちは死に場所を探してここへ来たのではない。生きている限り戦い続ける。走り続ける。
「近藤さんが、命を賭して、繋いでくれたこの道を。そう簡単に途切れさせるわけにはいかねぇんだよ」
 そう言って笑って見せた相手を見て、ああ、こうやってこの人は、ようやく近藤の死を受け入れることができたのだと安富は理解した。
 訃報を聞いて、この会津の地に墓所を用意させてもらって。それでも、あまりにも受け入れ難い現実に、病床の土方はなかなか向き合えないでいるように見えた。
 しかし共に失意の中にいる安富たちのような新選組の隊士ではなく、部外者ではあるが土方の心境を慮ることができる程度には事情を知る大野に出会い、言葉を交わしたことで、やっと彼の中で答えを出すことができたのだろう。
「だけどこれは、俺の意地だ。お前は、お前たちは、自分の好きに選んでいいんだぞ」
「今更、何をおっしゃいますか。置いて行くと言われても、俺はどこまでも先生について行きますからね」
 他の者はどうだか知らないが、少なくとも安富はそう思っていた。それまでのすべてを捨てるために新選組へ入隊した安富に、帰る場所などどこにもない。彼もまた、進む他に道はないのだから。
「お前も難儀な男だな」
 そう言って仕方が無いというように苦笑を浮かべる、この男と共に行くためだけに、安富はここにいる。何もかも捨てて逃げてきた安富才輔という男を、土方は必要だと言ってくれた。必要としてくれた。
 ただそれだけの理由で。

 冬には雪深く閉ざされるのだと聞く、こんな北の国でも夏は暑いのだと、どこか不思議に思いながら筒袖をまくる。この数ヶ月ですっかり着慣れた洋式の軍装は、しかし夏の湿度には適していないようだ。
 風をいれるために開け放った障子の向こうに、賑やかな会津の町が見える。それを眺めていた土方がゆっくりと、決意を固めるように口を開く。
「まずは白河を死守する。あそこを破られたらどうしようもない」
「はい」
 ここは自分たちの死に場所ではない。今までの恩義に報いるために、力を尽くして守るべき場所だ。
 土方がそれを決めたのならば自分はそれに従うだけだ。しかし、土方にそれを思い出させた大野という男は、いったいどんな人物なのだろうか。
 主君にただ従うのではなく、主君を援けながら、自分の守りたいもののため走り回る。きっと大切なものがたくさんあるのだろう。何か一つを選んで他を手離すようなことはなく、何もかも持ち続けているのだろう。それはとても、怖いことではないのだろうか。
「会ってみたいと思うだろう?」
「……その機会があれば」
 自分とは違いすぎて反発してしまうような気もするが、会って確かめてみたいような気もした。
 どんなに必死になって手を伸ばしても届かず、手のひらからこぼれるように大切な何かを失い続けても、前を向いて走り続けることができるのかと。

 

 

<続>