その部屋はいつも、わずかに花の香が漂っていた。
どんな季節でも同じ花の香だったから、好き好んだ香木でも燻らせているのだろうと、ただそんなことを思っているだけだった。
地方豪族の生まれとは言え、都一番の学者から教養深く育てられた彼が、季節に合わせた香を楽しむ習慣を知らぬはずがない。
だから敢えて、季節に関わりなく同じ香を漂わせているのだろうと思った。
そうしてある冬の日、そのわけを尋ねてみようという気になったのはほんの気紛れ。
「ねえ、どうしていつも同じ香なの?」
「何が」
脇息にもたれかかり、ぼんやりと庭を眺めていた男は、振り返りもせずに尋ね返した。
「だから、いつも同じ香を焚いているでしょう?」
「別に香を燻らせているわけじゃない。花が咲いているから香るだけだ」
そう言って、持っていた扇で庭の一角を示した。
確かに注意してよく見れば、降り積もった雪と同じ色の花が咲き乱れていることがわかる。
しかし、その花は。
「あれは初夏に咲くものだったと思うけれど」
「そのとおりだ。アレも以前は夏に咲いていた。五年前の冬に、突然年中咲くようになった」
閉じた扇を振りながらけだるげに話す男の横顔を、女はじっと見つめる。
「狂い咲き、って言うのかしら」
「だろうな。狂っているとしか言いようがない」
「――五年前と言えば、」
花が狂った、その年は。
「狂うのは、何も人だけではないさ」
そう言って男は目を閉じた。
狂い咲きの花が咲く庭は、丁寧で上品な手入れがなされている。
雪明かりに照らされた美しい庭を眺めていると、持ち主の気性をうかがわせた。
けれど女は知っている。
この庭を、持ち主以上に愛した者がいたことを。
そして狂い咲きの花の名は。
「五月待つ、花橘の香をかげば」
「昔の人の袖の香ぞする……古今か。どうした、急に」
「別に。花橘で、ちょっと思い出しただけ」
この庭を愛した人は、もういない。
目の前でその死を、奪われる様を見届けた男は、誰よりもそのことをよくわかっている。
それでも、彼の人の生前と変わらず、丁寧に庭を手入れしているのは。
五年前の冬に咲いた狂い咲きの花が、こうして今も咲き乱れているのは。
「あなたって本当に、かわいそうな人ね」
そんなことしか言うことのできない自分は、それでは彼にとっては何だろうかと思う。
答えは簡単すぎるほど簡単で、思わず小さく笑ってしまう。
「どうした」
「ええ、ちょっとね。あなたも結構、単純だなと思って」
その言葉の意味が通じたのか、男は珍しく苦笑してみせた。
男の名は西光。俗名は麻植師光。
後白河院の一番の腹心にして、亡き鳥羽院の寵臣であった中御門藤中納言家成卿の養子。
そして彼の乳母兄であり、養い親であり、主君であり師でもあった少納言入道信西が首を斬られたのは、五年前の寒い冬の日のこと。
花橘は、その人が愛した花。
懐かしい香を纏う袖の持ち主は、他に誰がいるはずもなく。
ただ、面影だけが夢の中。
2007/2/12初出