パンドラの箱(NW)

 箱を開けても世界は終わらなかったし始まりもしなかった。
 ただそこに、古ぼけた箱が残っている。
「なんだ、何も変わらないじゃないか」
 世界が変わることを求めたのに何も変わらない。世界の終わりを望んだのに少しも終わりそうにない。終わらないから、新しい世界が始まることもない。
「つまらん!」
 苛立ちを込めて箱を蹴り飛ばす。ガコンと音を立てて転がったそれからぷいと視線を逸らして、男は声を上げた。
「おーい、ロジャー? どういうことだよー。これを見つけて開ければ、俺の退屈な日々が変わるんじゃなかったのかよー」
 頭上を覆う鬱蒼とした木々の中で、間伸びした声だけがゆわんゆわんと木霊する。昼なのか夜なのかもわからないような、薄暗い視界の中に人影を見つけることはできない。
「おい、ロジャー?」
 いつもなら名を呼べばすぐに返る筈の声がない。いつでもすぐに呼び出すことができるように、いつも側にいろと言っているのに彼は何をしているのか。
「あ、そっか」
 ぽんと手を叩いて、男は笑う。
「あいつは俺が殺したんだった」

***

「ロジャー! つまらーん!」
 ベッドに両手足を投げ出した船長を見て、副船長は溜息を吐いた。上から聞こえるいくつもの足音は、甲板の後片付けがまだ終わっていないことを伝えている。
 突然の敵襲を受けたのはつい先刻のことだ。舳先をぶつけて乗り込んできた海賊団を、先陣切ってあっさりと撃退した船長は年長者のマッコイに後を任せ、副船長を連れて船室へと戻って来ていた。
 最強最悪の海賊団と呼ばれるようになって、まず増えたのは最強の座を狙う百戦錬磨の海賊たちの襲撃だった。それから次に、名を上げるための腕試しと称する若手の海賊団と、仲間の仇討ちを叫び再戦を挑む復讐者たち。
 はじめこそ楽しそうに相手をしていた我が海賊団の船長は、それが毎日のように繰り返されるようになるといつもの飽きっぽさを発揮するようになった。
「ばかのひとつ覚えみたいに何の策もなく襲って来やがって。たまには奇を衒ってびっくりさせたりしろよなー」
「それはそれで困るだろ」
「この俺様が、びっくりした程度で負けるとでも?」
 笑いながら、戯けたようなセリフとは裏腹に冷え切った船長の声色に、ヒヤリとしながらも慣れている副船長は肩を竦めて見せた。
「あんたが良くても他が困るんだよ」
「ああ、対策を考えるのは副船長さんの仕事だもんなー」
 泣き虫アニーやひよっこヘイワードもビビって逃げちまうと、本人たちが聞いたら声を上げて反論するようなことを言いながら、だらんだらんとベッドからはみ出して振り回していた腕が不意にぴたりと止まった。
「こんなつまらん世界なら、終わっちまえば良いのにな」
「船長、」
「じょーだんだってぇ」
 ぴょんと上半身を跳ね起こした船長の頭に、副船長は拾い上げた海賊帽をかぶせた。
「面白いかどうかはわからないが、聞くか?」
「聞く!」
 なんだなんだと目を輝かせながら見上げてくる相手に、苦笑を浮かべながら手にした航海日誌を開く。船長を退屈させないのも副船長の仕事、であるらしい。
「サモトラケという小さな島のどこかに、箱があるんだそうだ」
「箱? 財宝だったらもういらんぞー」
 海賊らしからぬ発言は、過去の海賊たちが残した名だたる財宝のほとんどを集めてしまった彼だからこそ口にできるものだ。
「宝箱じゃない。だから今まで気にも留めていなかったんだが、財宝でないなら逆に何が入っている箱なのか。気にならないか?」
「財宝でもないのに、わざわざ隠しているのか」
「ある一定の条件下でしかログを示さない、特別なコンパスがあるんだそうだ。それがなければ箱には辿り着けない」
「……面白そうだな」
 不可解な箱の話は船長のお気に召したらしい。ニヤリと笑ってひょいと立ち上がった男は乱れた襟を軽く正して、副船長と向き合った。
「まずはどうする? 副船長」
「七鎖のコンパスを探す。話はそれからだ」
 コンパスの現在の所有者はもちろん把握している。まずは海賊らしく、それを奪いに行くだけだ。
「箱の名は、パンドラ」
「開けてはならない災厄の箱、か。たーのしみだなー」
 甲板の片付けも終わったようだ。そろそろビクトリーノかダスティあたりが呼びに来る頃だろう。
「船長」
 声をかければ、帽子をかぶり直した男が笑う。それは確かに凶悪な、海賊の笑みだった。
 海賊旗を高く掲げよ。航路を塞ぎ、邪魔するものは容赦なく斬り捨てよ。
「ジョバンニ海賊団の出航だ」

***

「なんだお前、生きてたのか」
「生きていたわけじゃないけどな」
 箱の前で確かに撃ち殺したはずの男が、あの時と少しも変わらぬ姿で再びそこにいる。何よりも誰よりも自分を楽しませてくれる。
 パンドラの箱を開けても何ひとつ変わらなかった世界を、この男が裏で少しずつ動かしていたようだ。一度死んだからできたことなのか、それともこの男だからこそできることなのか。
 どちらにしても、そういうことならば自分には天使も堕天使も必要ない。神すら不要だ。
 終わらないから始まらない。戻れないのに進むこともできない。そんな風にして長く続いた、牢獄のように退屈なだけの日々の中で、ようやく訪れた変化の兆しを逃すつもりはなかった。
 剣を握る手に自然と力が入り、口元には笑みが浮かぶ。
 全てが飛び出して逃げ去った後の、パンドラの箱に残っていたのは希望でも絶望でもなく、きっとこの男だ。
 だからこそ。
「もう一度殺してやるよ」
 なあ、俺の副船長。
 今度こそ、退屈なこの世界を終わらせるために。

 


2012/10/15初出