帰る日

 障子を開くと、朝一番の空気は昨日よりも和らいでいた。
 こうして少しずつ寒さが和らいで、厳しい冬は終焉を迎えるのだろう。
 ―――ああ、もうすぐ春が訪れる。
 この最果ての地に訪れる春は、どのようなものなのだろうか。
 そんなことを考えながら、箱館の市街から少し離れた屋敷の庭に降り立ったのは備中松山藩主、板倉勝静。
 旧幕臣榎本武揚を中心として作られた、薩長に抵抗する勢力である箱館政府を遠目に眺めながら、僅かな家臣だけを連れて日々を過ごしていた。
 何をすることもなく、小さな庭をぐるりと巡って屋敷に戻ろうとした勝静は、近づいてきた足音に気付いて振り返る。
 そして目が合うと、足音の主は嬉しそうに、そしてほっとしたように笑った。
「お久しぶりです、勝静様」
 懐かしい声と、見慣れた面影。
 あまりにも驚いて立ち尽くしていると、相手はひょこひょこと近づいてくる。
「殿。ずいぶんとお探ししましたよ」
「……竹次郎」
 それは混乱の最中にあった大坂で別れた松山藩儒、川田甕江だった。

          *

「まずは、ご報告があります」
 通された座敷に落ち着いた川田は、上座に坐した勝静に向かってゆっくりと話し始めた。
「熊田怡が、腹を召しました」
「……熊田が?」
 突然もたらされた藩士の死の報告に、勝静は驚きを隠せない。
 熊田怡は、勝静の護衛をしていた藩兵の隊長だった。鳥羽伏見での戦いの際、慶喜の江戸帰還が極秘裏に行われたため、川田が同行を許されなかった熊田隊の勝静護衛の任を解き、藩兵百五十人と共にひとまず故郷に戻ることになった。
「私たちが飛び領地である玉島港に着いた、その前日、松山城は薩長の命を受けた岡山藩によって、既に開城されておりました。―――無駄な争いを避けるために領地に帰ったと言うのに、結局、私たちが新たな争いを呼ぶ火種となってしまったのです」
 熊田隊はもちろん、戦う意思がないことを示し、武器を手放して恭順の姿勢を見せた。だが、松山藩の目付け役である岡山藩は、彼らの処置を寛大に行うことを許されない状況にあった。
 すべてを察した熊田は、藩兵百五十人の助命と引き換えに、自分の命を差し出した。
「わたしの、所為だ」
 そう呟いた声は、確かに震えていて。
「わたしが彼らを置いて、慶喜公について江戸へ行ってしまったから」
 いや、違う。それだけではなくて。
「こんな場所まで、意地を通して来てしまったから……」
 どれもこれも、成り行きだったかもしれない。
 それでも、いつも最後に決断するのは自分自身だった。
「わたしが領地に帰らず、こんな最果ての場所にいるのは、確かに自分の意思だ。そのわたしの身勝手が、彼を死に追いやったのかも知れんな」
「そうですね」
 あっさりと認めてしまった川田に、軽く俯いてた勝静は顔を上げる。
「否定しないのか」
「否定しませんよ。私も同罪ですから」
「同罪?」
 不思議そうな勝静にゆっくりと頷いた川田は、小さく俯いて応えた。
「私は、熊田さんの死を止めることが出来ませんでした。彼に頼まれるままに藩兵助命の嘆願書の草案を書き、その処刑に立ち会った。私はただ、彼の最期を見ているだけでした」
 もっと早くに、松山城開城のことを知っていれば。彼らを連れて、玉島に戻らなければ。
 そうやって今更後悔してみても、何も変わることはない。
 自分は何も出来なかった。彼を死なせてしまった。それだけが事実で。
 だから同罪です、と。呟くように零した川田は、小さな苦笑を浮かべた。
「でも、良かった。もしも殿がここにいることを、自分の意思ではなく『成り行き』の所為にしたら、張り倒して来いと言われてきましたので」
「……そんなことを言うのは、方谷だな」
「他に誰がおりましょうか」
 勝静が最も信頼する部下であり、川田が心底敬愛している儒学者である山田方谷は、松山の地に残りさまざまな始末を行っている。川田を勝静捜索に出したのも、方谷だった。
 懐かしさに綻んだ頬は、けれどすぐに厳しい表情に戻ってしまう。
 最小の被害で開城し恭順したとは言え、今の松山は厳しい状態にあるのだろう。藩主である勝静がこうして反対勢力に属しているのだから。
「わたしは、夢を見ていたのだよ」
 この、凍えるような最果ての地で。
 強引な手腕で何もかもを奪っていった者たちに、対することのできる新しい国。
 実際に来て見れば、それはただの夢物語に過ぎなくて。
 どうしても足りない軍備と兵力、そして資金。その穴を埋めるために民に負担をかけて。
 身勝手な夢だった。国に残した者たちを思えば、はじめからわかっていたことだというのに。
「わたしはもう、松山には帰れぬ」
 このまま帰れば、他の者たちにも累が及んでしまう。熊田が命を張って守ったものを、壊してしまうことになってしまう。
 ならば、この地で終わりを迎えようか。
 故郷から遠く離れ、寂しく終焉を迎えるのも、当然の報いだと感じたのだが。
「それは違います」
 今度ははっきりと否定した川田が、ズイと膝を進めて勝静に迫った。
「殿には早く帰ってきていただかないと、困ります」
「何故だ? わたしが帰れば、薩長の心証を悪くするだけだろうに」
「それでも、です。方谷先生は、松山を救うために殿を独断で隠居させてしまったことを悔いておられます。その上、殿が松山にお帰りにならない、などということになったら―――」
 言葉を途切らせて、きゅっと眉を寄せた川田はそのまま黙り込んでしまう。
「竹次郎?」
 心配そうに顔を覗き込むと、自分の両膝を強く掴んだ川田がきっと顔を上げた。
 その表情は、勝静が今まで見たことがないほどの、悲痛な色を持っていて。
「帰りましょう、勝静様」
 今にも泣きそうな顔で、必死に訴える。彼が松山藩に仕えるようになってから既に十年が経つのだが、こんな彼の姿を見るのは初めてだった。
「松山で皆が、あなた様の帰りを待っております。勝静様がいない、それだけで、藩士も領民も不安で仕方がないのです」
 川田のその言葉に、改めて気付く。
 こんな時でも、いや、こんな時だからこそ、自分は『藩主』なのだと。
 そんな当たり前のことを今更のように気付いて。
 そして一国の『藩主』である自分には、成さなければならないことがある。
 どんなに悔やんでも、流れてしまった血を戻すことはできない。けれど、これ以上の流血を止めることはできるはずだから。
 生きて、帰って。そして成すべきことがある。
 守らなければならない、守りたいものが、確かにある。
 だから。

「帰ろうか、竹次郎」

 穏やかな春が訪れる、懐かしい国へ。