「あれはきっと、誰よりもヒトに近い刀よ」
そう言って誰よりも神に近い刀は、細い月のように艶やかに笑ってみせた。
モノには神が宿る。
十年、百年、或いは千年。長い月日を経たモノには自我が芽生えるのだという。
けれども刀である自分が、刀としての形を得た時には既に自我のようなものを持っていたのはおそらく、鍛治場の祭事の中で生まれるからだろう。ならばそれを行なう人もまた、常人よりも少しだけ神に近しい存在だ。
だから刀匠は、己が打った刀剣に宿る神を見ることができる。
「私の名は兼定。朝廷より和泉守を拝領した、古川兼定十一代の刀工だ」
まだぼんやりとした、人の形にもなりきれていない、ゆらゆらとした蜃気楼のような存在に向かってその刀匠は笑いかけた。
その頃の彼は、まだ三十路をいくつか超えたばかりであったはずだと思う。けれど目元は黒く翳り、頰もややこけて、明らかな疲労が見て取れた。
それでも、ギラギラとした目をした男だった。
後から打たれた兄弟たちが次々と新たな主を得て家を出ていく中で、なぜか自分だけが白鞘のまま、拵も作られずに取り残されていた。
兼定は休むことなく、次々と刀を打つ。屋敷の外からは、鍛錬の声であろう、空気をビリビリと裂くように気迫の込められた掛け声が聞こえてくる。あちこちの家で先祖伝来の鎧兜が蔵から出されているのだろう、自分と同じくモノに宿る神の気配がそこかしこから感じられた。
もちろん刀剣も例外ではない。けれど伝来の刀は室町や安土の頃に作られたものが多く、大振りすぎるそれらの刀は銃砲を中心とする今の戦いに適さないと、京や大坂での戦いを経た者たちは知っていた。だからこそ兼定の仕事は尽きることがない。
会津の国全体で戦準備をしているのだ。じりじりとした焦燥が、鶴ヶ城を中心に城下へ広がっていく。黙々と戦支度を整える男たち、慌ただしく身辺を片付ける女たち、そんな大人たちのいつもと違う様子に、そわそわと落ち着かない子供たち。そして、自分たちもついに戦いに出るのだと勇む青年たち。
古川兼定家は保科正之を祖とする松平家の会津入封以前からこの会津の地で刀を打っていた、会津松平家御抱刀工の中でも筆頭に数えられる鍛治の家だ。兼定の刀は次々と家臣たちに、特に主力となるであろう若者たちの手元に渡っていく。
そんな中で、自分だけが取り残されている。
「まあ、そう焦るな。お前の行き先はもう決まっている」
今どんな拵が好みなのか聞いているところだと、こんな情勢でひどく悠長なことを言う。刀は政治を知らないが、周囲で交わされる会話をじっと聞いていれば、わかることもある。
神君家康公以来将軍家が得ていた政権を朝廷に奉還して、徳川宗家は将軍家ではなく他の大名と同じ諸侯のひとりとなった。その上で、拠点としていた大坂城と京の間にある鳥羽・伏見での、薩摩、長州の兵を中心とした朝廷の軍に大敗した。旧幕府軍の総大将である、前将軍慶喜の逃亡という最悪の形で。
長年、京都守護職として慶喜と共にあった松平容保は朝廷に弓引いた賊とされ、徳川に替わる新たな政権を得た、新政府を名乗る薩長の軍に会津は攻め入られようとしていた。誰よりも朝廷を敬い、先帝・孝明天皇に心から尽くした容保の境遇には同情する声も多いが、相手は飛ぶ鳥を落とす勢いの新政府軍だ。
「鳥羽伏見では、敵軍の銃砲にやられたんだろ」
「そう聞いている」
「それなら、あんたが俺たちをいくら打ったところで、もう意味なんかないんじゃないか」
白鞘を作ってもらいに行く時に、銃隊の訓練というのを見かけたことがある。火薬の力で勢いよく飛んでくる鉛の弾に対峙した時に、刀にできることなんて何もないように思えた。しかも敵軍は最新の銃砲を恐ろしい数揃えているのだという。
「意味があるのかどうかは、私が決めることではない。私はただ、ひたすらに刀を打ち続けるだけだ。自分でその道を選んでここまで来たし、それが自分の為すべきことであり。今の自分にできることはそれしかないから」
「ふうん?」
「いずれお前にもわかる時が来るはずだ」
お前は『彼』に託すのだから、と。穏やかに呟いた兼定がようやく拵を用意した刀を携えて、降るような蝉の声を聞きながら鶴ヶ城へ登城したのはひどく暑い夏の日のことだった。
会津十一代和泉守兼定の手を離れた刀は、それから『和泉守兼定』と、茎に刻まれた生みの親の名で呼ばれることになる。
一、
自分はそもそも、容保公の所望した品であったらしい。
けれど容保の手元に置かれるためではなく、ある者に下げ渡されるために作られたという。小姓たちによって恭しく運ばれながら周りの話を聞いていると、どうやら今日、自分を受け取りに来るのは本人ではなく代理の者であるようだ。待ち望んだ新しい主の顔を見るのはもう少し先のことかと少し落ち込みながら、落ち着かなく周囲を見回す。
その刀、兼定の、まだ少し定まらずにゆらりとしている人に似た姿を見る者はここにはいない。新しい主にも見ることはできないだろうと刀匠の兼定も言っていた。何十年と使っていれば不意に見えることもあるかもしれないが、と。それも偶然の、何かのきまぐれのようなものだ。
謁見の間の隅からきょろきょろと見回していると、その広間に入って来た一人の男と目が合った、ような気がした。男はただ、赤錆色の石目塗に鳳凰と牡丹が描かれているという、兼定の拵えそのものに目を引かれただけだろう。
地味な風貌に感情の読めない無表情を浮かべて、筒袖の黒い洋装軍服の上からでも痩躯であることがわかる。こんな夏日にその格好ではひどく暑いだろうに、なぜか不思議とそれを感じさせない男だった。
やがて現れた容保公に、男は作法どおりの挨拶を述べる。主は未だ宇都宮での戦いの傷が癒えず療養中であり、代わりに部下である自分が来たことを詫びた後、近藤という男について、会津の家中の者でもないのに天寧寺へ立派な墓を建てて、手厚く供養していただいたことを主もたいそう喜んでいると、丁寧に礼を述べた。
近藤という男の名には聞き覚えがある。さてどの話の流れで聞いたのだったかと、小姓の手の中で記憶をたどりながら考えているうちにひょいと持ち上げられた。突然のことに驚いたが、もっと驚いていたのは周囲に控えていた家臣たちだった。
容保公が急に、自ら刀を手に取ったことで家臣たちが慌てる中、痩躯の男は落ち着いた様子で容保公が立つ上座へ膝立ちでにじり寄り、差し出された刀を押し頂いた。
そうして男を間近で見て、初めて気がつく。涼しい顔をしたこの男も、目の奥はギラギラと光っていた。振り返って容保公の目を覗き込めば、殿様然とした白い顔の、その細い目の奥でやはりギラリと光るものが見えた気がした。
日の光を弾いて輝く、川面のような煌めきではない。暗い闇の中で、火花が激しく弾けるような。懐かしい光。
これはきっと、戦を見てきた者の、そして戦に向かう者の目なのだろうと。
「土方に、宜しく伝えよ」
「はい」
――容保公がわざわざ自ら命じて兼定に刀を作らせた相手、新たな主の名は土方と言うらしい。
その土方に下げ渡された刀を抱えて、城門を出た男がふうと小さく溜息を吐いた。その横でふわふわと浮いていた兼定が、どうしたのだろうかと少し俯いた男の顔を覗き込めば、なにやらひどく嬉しそうに刀を眺めている。
自分が拝領したわけではないのに、そんなにも嬉しいものなのだろうか。兼定にはわからなかった。
ようやく出会えた土方という男は、役者のような切れ長の目をした見目の良い男だった。城で会った会津松平家の若年寄である横山も若く見目麗しい青年だったが、土方には歴戦の強者らしい凄みがある。
その目に宿ったギラギラとした光を、隠そうともしない。
療養中との安富の言葉どおり、土方は旅館の一室に着流し姿で楽な格好をしていた。足を崩しているのは足の指先を銃で撃ち抜かれたからなのだが、安富が刀袋に納めたまま丁寧に上座へ置いた、拝領の刀を前にさっと居住まいを正して一礼する。それから手に取り、するすると袋から出して、にやりと笑った。
「びっくりするほど俺好みの拵じゃねぇか」
「いったい誰に聞いたんでしょうね」
「お前じゃないのか」
「私はそこまで貴方の好みを把握していませんよ」
「それなら一人しかいねぇな」
あとで斎藤を呼んでくれ、あいつにも是非こいつを見せたいと楽しげに笑った土方が、鯉口を切ってすらりと鞘から刀身を引き抜く。しばらく口を閉ざして刀身を眺める目は真剣そのもので、相手の急な変化に妙に照れ臭くなった兼定は落ち着かなくそわそわする。
そんな中、不意に視線を感じて床の間に目を向ければ、刀掛けに一振りの脇差があり、その側でふわりと漂う気配を感じた。ゆらゆらとした気配はくるりと空気を揺らして、兼定よりも少し小さな人の形を作る。
兄弟以外に初めて見る、刀に宿るモノの姿だった。兄弟以外の刀は城で何振りも見かけたが、彼らは容易には姿を現さない。
その脇差はにこにこと笑って口を開いたが、なぜだかその声は聞こえなかった。お互いの声は聞こえないものなのだろうか。兼定が首を捻ると、相手も困ったなぁというように首を傾げて、またくるりと空気を震わせて消えてしまった。
同時に、小さな金属音を響かせて土方が兼定の刀身を鞘に納めた。城の方角に向かってしばらく黙って押し頂き、ゆっくりと崩した膝の上に降ろしてから安富に笑いかける。
「こんなに素晴らしい刀を拝領して、有難いことだな」
「ええ、本当に。刀なら以前にも拝領しましたが、今回は以前と違いますね」
「こいつは、戦場で振るうための刀、実戦のための刀だ」
これまでの忠義への労いとして拝領した刀は、名刀ではあったが今の世では実戦向きではなかった。拝領の品として家宝とし、子々孫々へと伝えるような逸物だ。
もちろんそれはそれでとても名誉なことであり、有難いものであったのだが。
「これまでを労うためではなく、これから先を託すための刀、ですね」
「託すおつもりなのかどうかはわからんけどな」
いずれにしても、この先を共に見るための刀だろうと。嬉しそうに笑って鞘を撫でる土方を、やはり嬉しそうに安富が眺めていた。
彼はたぶん、土方のことを心から慕っているのだろう。だからこそ我がことのように喜ぶことができるのだ。もしかしたらそれだけではないのかも知れないけれど、来たばかりの兼定にはそれ以上のことはわからなかった。
兼定が土方に下げ渡された翌日、一人の男が土方を訪った。さっと袴を捌いて腰を下ろし、いやあ今日も暑いですねぇと手扇でぱたぱたと顔を仰ぎながらにこにこと笑う、ひょろりと背の高い和装の男だ。
「兼定を拝領したそうですね」
「さすが大野君、情報が早いな」
「それが私の取柄ですから」
さらりと答えた大野は、それから床の間に目を向け、刀掛けの大小を目を細めて眺めた。もちろん彼にも人の姿の兼定の姿は見えない。そして兼定自身も昨日のあれ以来、脇差の人の姿を見ていなかった。脇差の中でも少し大振りであろうその刀は、刀の姿で沈黙したままだ。
「洒落者の土方先生に似合いの拵で……容保様の御心遣いを感じられますね」
戦場で振るうための刀ならば、持ち主の好みのものである方が良いだろうと。
「我々新選組なんて、会津にとってはお荷物でしかなかっただろうになぁ」
「そんなこと、」
「今はどう思っていただいているのか知らんが、はじめは確かにそういうものだったんだよ」
――そうだ、新選組だ。
土方のその言葉を聞いて兼定はようやく、近藤という男の話をどこで聞いたのか思い出す。新選組の近藤が処刑されたのだと、報せを聞いた刀匠の兼定が残念そうに肩を落としていた。そして、土方殿はさぞかし無念であろう、と。
「本当に有難い話だ。だが、俺たちにもそうやって情をお寄せになるほど、容保様はお優しすぎる」
「それは……」
「そうするしかなかったとはいえ、容保様の戦いへの決意は本物だろう。だが城下に敵軍が攻め入れば、或いは戦が長引き、国が疲弊すれば。きっと長くは持たない」
情が深すぎるゆえに、その想いも揺れやすい。
俺が今言ったことは他言無用だと土方が苦笑すれば、大野は神妙に頷いた。他の、新選組の連中には言えないからという土方の言葉で、この大野という男が新選組外部の人間なのだと話を聞いていた兼定は初めて知った。外の人間だからこそ言いやすいこともあるのだろう。
「とにもかくにも、国境で敵軍を食い止めなければならないだろうな」
「もちろんそうしなければ、交通の要所たる会津は守れないでしょう。しかしもしも、もし万が一にも『そう』なってしまった場合、土方先生はどうするおつもりで?」
「さて、どうしようなぁ」
容保様のお気持ち次第だな、と。曖昧に答えるのはまだ答えが出ていないからか。
「近藤さんもな、そういうお人だったんだ」
なにかひどく、大切なものを呼ぶような声でポツリと呟いた土方の言葉に、大野は黙って頷いた。
その後、傷を癒して戦場に復帰した土方は結局、会津を離れることを選んだ。
それを決める際、しばらく黙って手にしていた兼定をじっと眺めていた。兼定もまた土方の顔を見つめたが、彼が何を思って決意したのかどうしてもわからなかった。
人の気持ちは、その顔を見ているだけではわからない。土方の前以外では表情に乏しい安富も、にこにこと人好きのする笑顔を絶やさない大野も、対極にあるようでどちらも同じだけわからないように。
ただ、土方は容保公から拝領した兼定を手放さなかった。それが何か、ひとつの答えであるように兼定には思えた。
二、
対極であるゆえに、兼定の目から見てもあまり仲が良くないように思えた大野と安富だが、しばらく二人で新撰組をまとめることになった。紆余曲折の末にたどり着いた仙台で、大野が他の仲間たちと共に新選組入りすることになったからだ。
それを二人に命じた土方といえば、仙台集結していた旧幕府軍と再び合流した後、その代表の一人として仙台伊達家を相手に立ち回っていたため、新選組から少し離れている。それでも、会津に残ることを選ばずにここまでついてきた安富ら古参の隊士たちは、何かと理由をつけて土方の顔を見に来ていた。
お前らそんなに暇なのかと叱りながら、それでも追い返すことはしない。この人こそ情が深いのだろうと、側にいる兼定は何となく気が付きつつあった。
――そんな仙台での、ある日のこと。土方は兼定の下げ緒を、それまでつけていたものから浅葱色の組紐に変えた。黒を基調とした洋装の腰に差した、赤錆色の拵にその組紐の色は少しあざやかすぎるようで、すぐに気がついた安富が声を掛けてくる。
「先生、どうしたんですかそれ」
「慶邦様より拝領した品だ。懐かしい色だと思って、な」
「ああ、浅葱色の羽織の……」
言われてみれば、と、納得したらしい安富が改めて下げ緒を眺める。
「この兼定はあの羽織を知らないが、あれはやっぱり、俺たちの誓いの象徴みたいなもんだったから」
新選組のはじまりを作った男が、遺していったものだ。彼を排除したのは自分たちなのに、こうして彼の遺したものを想うのは勝手すぎるとは思うのだが。それでも思い入れの強いものだから、と。
「まあ、派手すぎて使わなくなっちまったけどな」
京の町でこの色の羽織なら確かに目立っただろうが、さらに派手であったという。いったいどんな代物だったのだろうかと兼定が首を捻っていると、安富が同意するように頷いて見せた。
「目立ちましたよねあれは。私が入隊した時にはもう、先輩隊士がとりあえず手元に残しているような状態でしたね」
「永倉なんかは特に大事にしていたな……」
土方はそうやって時々、兼定の知らない、ここにはいない人物の名を挙げては懐かしそうに笑うことがあった。かつての仲間の名なのだろう、ということしか兼定にはわからない。
ただそれが、土方にとってかけがえのない、大切な思い出なのだろうということは、その穏やかな笑みから察することができた。それほど大切なものを、彼はどうして手放してしまったのだろう。
「そうだ、安富。仙台を出る日が正式に決まったぞ」
「やっとですか。出ること自体はとっくに決まっていたのに、ずいぶんと時間がかかりましたね」
「まあ、ここに残る者も多くいるからな。各隊の再編成や調整に思ったより時間がかかった」
仙台伊達家と旧幕軍との交渉は既に決裂して、旧幕府軍は降伏を決めた伊達家の領地から離れることになっていた。
会津や、主戦場となった長岡や二本松などの惨状を聞いて、或いは目の当たりにした他国の、矜持よりも領民を守ることを優先させた苦渋の決断を、余所者である土方たちに責められるはずがない。しかし奥州の雄たる仙台を離れて次にどこへ向かうと言うのだろうか。軍艦、蝦夷地、箱館、という単語は土方たちの会話の中で何度か耳にしていたが、そこから想像することは兼定には難しかった。
行けばわかるか、と思っていたところに、いつもの笑顔を浮かべながら大野が土方の部屋を訪れる。ご所望のものを借りてまいりましたと、土方と安富の前にばさっと広げたのは大きな地図だった。
「予定どおり、榎本艦隊の軍艦が停泊している松島から乗船して、本州での最終寄港先はここ、盛岡南部家の領地である宮古湾だそうです。南部家はこの状況でもまだ降伏を決めていないので、追い返されるということはないでしょう。この辺りの海岸は断崖が多く、中でも大きな軍艦を寄せられるような場所は他にほとんどありません」
とん、と指を置いた場所が宮古湾であるならば、そこから南北に繋がる線は海岸線だろう。海岸線は途中で西へと折れてしまい、不思議な形を描いて日本海側へと繋がっている。その不思議な形の部分の西側に「津軽」と書かれていた。土方と他の幕臣の会話に何度か出てきた弘前津軽家のことであろう。
南部と津軽の北端から、海峡を隔てた先に大きな菱形の陸地が描かれ、そこに「蝦夷地」と書かれている。その先にはいくつかの島しか描かれていなかった。
どうやら土方たちは本州を離れて、北の果てへと向かうつもりらしい。蝦夷地は南側にしか地名の記入がなく、北側の大部分は空白地帯となっていた。これが本州で入手した地図であるのならば、あまり本州の人間が行くことのない土地なのだろう。
「この、蝦夷地の南端、本州側に飛び出した部分の窪んだあたりに箱館があります。箱館は開港地ですのでもちろん軍艦を停泊させることができる港がありますが、直接ここへは行かずに、まずはこちらの鷲ノ木に上陸するそうです」
そう言って大野が最後に指差したのは、箱館から少し離れた北側の海岸だった。
「箱館からだいぶ離れたところに上陸するんですね」
安富が不思議そうに地図を眺める。いくつもの軍艦で乗り込むのだから直接箱館に行けば良いのにと、兼定と同じことを思っているのかもしれない。
「蝦夷地とはいえまだ雪はないと聞きましたが、この距離を、大人数での行軍になりますよね? 用意できる兵糧にも限りがあるのに」
「直接軍艦で乗り込めば戦闘になる。箱館は開港地。横浜ほどではないとはいえ港町は賑わっているし、異国人も多くいる。できれば箱館の市街を巻き込むような戦闘は避けたい――そういうことだろう?」
「「あ、」」
そういうことか、と納得したように安富と兼定の上げた声がぴったりと揃ったが、それを知るのは兼定だけだった。土方先生の言うとおりですと大野が頷いて、再び地図に視線を向ける。
「我々の目的は箱館の奪還、というか乗っ取りです。そして箱館を拠点とした、蝦夷地での新政権の確立を榎本さんたちは目指しています。住民や、最終的には政権の承認者となってもらわなければならない異国人の心証を悪くするわけにはいけませんから」
開港地である箱館には奉行所があり、今は新政府側の支配下に置かれている。そこを奪還して、新しい政権を立てる。ただ戦いを続けるだけではなく、その先のことも考えていたのかと考えてみれば当たり前のことに今更驚きながら土方の顔を見れば、なにやら難しい表情を浮かべていた。
「箱館の奪還自体はそう難しくないだろう。我々以上に向こうは寄せ集めの即席軍だ。統率力も装備もたいしたことはない。だが問題はその後のことだ。榎本たちの思惑どおり、うまくいくと思うか?」
声を潜めた土方の問いに安富は首を左右に振り、大野は困ったように笑いながら肩を竦めた。
「いくら本州から離れた土地と言っても、敵さんが黙って見逃してくれるとは思いませんので」
これから徳川に変わる新政府として諸外国を相手に外交をしようという時に、国内に二つも政権があるというのは不都合な話だろう。奥州での戦闘が落ち着き次第、蝦夷地にも攻め入ってくるはずだ。それに対抗するだけの戦力があるとはとても思えなかった。
元幕府海軍の榎本率いる艦隊は、数年前に就航したばかりの最新の軍艦である開陽丸を筆頭にこの日本で最強の艦隊と言われている。とはいえその実力は、実際の戦闘がほとんどなかったためによくわからない。
それ以外の、陸戦での兵力と装備だけならば圧倒的に不利である。旧幕府軍が蝦夷地を押さえても、新政府軍が奥州を平定すれば蝦夷地以外のすべてが敵になる。
「それでも私は、箱館を死に場所にするつもりは全くありませんよ」
生きるために、大切なものを守るために戦い続けることを選んだのだから。大野がそう言えば、土方がそれはそうだと頷いた。そうして兼定と安富がじっと見守る中で、大野に向かって小さく笑ってみせる。
「戦って死ぬつもりなら最後まで会津に残った。恩義ある会津にそれでも残らなかったのは、この先も戦い抜くためだ」
それ以上でもそれ以下でもない。
自分でその道を選んでここまで来たし、それが自分の為すべきことであり。今の自分にできることはそれしかないから、と。
それは確かに、どこかで聞いた言葉だった。
海はひどい大荒れだった。まるで彼らの先行きを暗示するかのように。
けれど兼定はその船中で、そして予定通りに上陸した鷲ノ木から箱館に至るまでの行軍や、度重なる戦闘の中で。飛び交う怒声と銃砲の音を聞きながら、仙台で聞いた土方の言葉のことを考えていた。
彼には、兼定と共に託された容保公の想いがわかったのだろうか。この先も戦い続けるための刀を下げ渡された、その理由を。だから会津に残らなかったと、そういうことなのだろうか。
今までもそうやって、何かを手放してきたのだろうか。
三、
雪に閉ざされた北の大地で、出来ることはとても少なかった。
敵軍が津軽海峡の向こう側に続々と集結しているという報せは、向こうに潜ませた密偵から逐一入ってくる。ということはもちろんこちらにも敵の密偵が潜んでいるということで、それに注意を払いながら、そして迎え撃つ準備を整えながら、忙しくも不思議と穏やかな日々を過ごしていた。
土方は奉行所のある五稜郭と、箱館の市中取締を任された新選組らの拠点となっている、箱館山の坂の途中にある旧奉行所を行き来しながら、兵卒の調練や、四稜郭や権現台場といった新たな防衛拠点造営の指導に当たっている。
その合間に誘われた句会に参加したり、箱館で新たに作られた政権下で任命された陸軍奉行並という立場上、今まで以上に距離ができてしまった新選組の酒宴に顔を出すなどしていた。
穏やかで、賑やかな毎日だ。刀としての本分は鍛錬の時にしか発揮できず、少し拗ねていた兼定だったが、そんな日々が決して疎ましいわけではなかった。
言葉を重ね、酒を飲み交わす。まるで自身に言い聞かせるように未来を語るもの、誰にともなくぽつぽつと過去を語るもの、何も語らずにただ杯を重ねていくだけのもの。出自も経歴も違うものたちが、同じ目的のために、戦うために、ここでの日々を過ごしている。誰もかれもが、ギラギラとした目をしている。
それは兼定にとって、とても不思議で、けれどどこか好ましいものだった。
やがて雪が解けて、春が訪れるまでのささやかな日々。
大野という男はもともと、唐津小笠原家に父親の代から仕える儒学者の家の子で、次期国主であり元老中でもあった小笠原長行が弟のように可愛がっていた懐刀である。
長行はかつて、長州征伐の際に幕府より全権を任されて軍の指揮を執っていたことで幕府瓦解後も容易に降伏することができず、会津、仙台を経てこの箱館まで逃れていた。大野たちが仙台で新選組に入隊したのも、長行と共に蝦夷地に渡るためであった。
会津滞在中は、互いに不信感を抱いていた会津と長岡の仲を取り持つことを命じられるなど、主に交渉ごとを任されていたようだ。会津で療養中の土方の元を訪れたのも、そもそもは情報収集のためであったようで、かつて本人が言っていたとおりそういうことが取り柄であるらしい。
それからも度々土方の元を訪れるようになったのは、個人的に好意を抱いたからだったようだが。そのせいか知らないが、今も安富と共に陸軍奉行添役を命じられて、陸軍奉行である旧幕臣の大鳥や土方の補佐役を務めている。
経歴上も役目上も文官としての印象が強かったが、敵軍の上陸による戦闘が始まって以降、いざ土方の補佐として戦場に出ると、意外にも前線指揮などうまくこなすようであった。兵たちの扱いも心得ている。逆に新選組として戦地を転々としていた安富の方が、本職である勘定方としての能力を生かして、戦場よりも奉行所内での仕事を増やしていた。
刀である自分は、指揮刀として扱われることも多いとはいえ、基本的には斬ったり突いたりすることしかできない。けれど人は様々なことができる。できるけれども、それぞれに向き不向きは存在するようだ。選ぶものもそれぞれ違っている。
選ぶ道、と土方は言った。かつて刀匠兼定も同じことを言っていた。そうやって選んだ道の先には何があるのだろうか。
その日も戦闘を終えると、兵たちは火薬の煤で真っ黒になっていた。先に作っておいた胸壁から一日中敵軍に向かって銃をぶっ放し続け、特には刀を抜いて突撃を仕掛ける。ここ数日、土方率いるこの軍は、二股口と呼ばれる山中の要所でそんなことを繰り返していた。
戦端が開かれた時、土方はもう少し箱館寄りの市ノ渡という町で休んでいるところだった。だから兼定は緒戦の様子を知らない。けれど土方の補佐役として前線を守っていた大野が土方不在の間、的確に指揮を執ったであろうことは敵軍の進軍を少しも許さなかった結果を見ればわかる。
「土方先生、今日も勝ちましたね」
他の兵たちと同じように真っ黒な顔をした大野がそう言って、いつものように笑ってみせた。彼はそうして、戦場にあっても笑顔を絶やさない不思議な男だ。それにつられたのか土方もにやりと笑う。
「良い話と悪い話がある。どちらから聞きたい?」
「悪い方から聞きたいですね」
良い話を聞いて浮かれた後にがっかりしたくないですからと真面目に答えるので、それもそうだと土方は神妙に頷いた。
「木古内口の戦況があまりよくないようだ」
「大鳥先生ほどの方でもやはり、難しいですか」
「こっちは天然の要塞だが、あっちは地形的にもそれほど有利ではないからな。だからこそ大鳥さんが引き受けて、兵の数も向こうに割いたが、敵さん思ったより勢いよく兵力を投入してやがる」
「しかし向こうが破られたらこちらは本陣への退路を断たれて孤立しかねません。撤退しなければならなくなりますね」
せっかく勝ってるのになぁと残念そうだが、そこに悲壮感はない。敵軍の上陸が始まってからというもの、各地でじわじわと追い詰められているというのに変な男だ。けれど土方も同様の様子なので、そもそもここには変な男しか残っていないのかもしれない。
「それで、良いお話とは?」
「用意しておいた酒が今夜届くことになった。兵たちに振舞ってやってくれ」
「あ、それは本当に良い話ですね!」
久しぶりの酒だ!と満面の笑みを浮かべる大野に、けれど土方がしっかりと釘を刺す。
「但し一人一杯だ。それ以上は用意できなかったからな」
「命の水は一杯でも十分ですよ」
それから大野と、大野と同じく陸軍奉行添役である大島が、本当に運ばれて来た酒樽を引き連れて本陣を置いている台場山の胸壁をひとつひとつ巡り、そこにいる兵に杯を渡す。
渡された杯を手にして不思議そうにしている相手に、皆の者よく聞け、土方総督からのありがたーい振舞い酒である、と大島が大仰に伝えれば、おお!と兵たちの喜びの声が上がる。続けて大野が、但し一人一杯だけだ、とひどく悲しげに伝えれば、ええー!と不満の声が上がった。もっとよこせーさけをのませろーと騒ぎ、けれどみな笑いながら、一杯の酒を嬉しそうに飲み干していく。
その賑やかな声で、連日の戦闘でやや停滞していた空気が少しずつ晴れていくのを兼定も感じた。土方はそのためにわざわざ酒を用意して、こんな山の中にまで運ばせたのだろう。大野たちはその意図をよく理解して、場を盛り上げながら酒を振舞っていく。
土方自身はほとんど酒を飲まない。祝宴でも最初の一杯に口を付けた後はそのままで、それを知る周りの者たちも無理に勧めようとはしなかった。
大木に背を預け、兼定を抱くようにして座り込みながら、振舞い酒に沸く男たちを眺めているから、兼定もその顔を眺める。
穏やかに見えて、けれど何かを考え込んでいる顔だった。彼が何を考えているのか、誰かとの会話でしか自分には知ることができない。自分で話しかけることができたらきっと、少しは応えてもらえるのかもしれないのに。
今あんたは、何を考えている? 何を思っている?
大野という男は頭のいい男だ。土方の気持ちをいつもうまく聞き出している。それが誰にでもできることではないということは、他の者との会話の様子を見ていればなんとなくわかることだった。
安富がそうやって大野のように聞かないのは、聞かなくてもある程度わかっているからだ。それは過去の日々を知っているからなのだろう。
大野のように話しかけることはできず、安富のように過去を知ることもない自分がもどかしい。戦いが始まれば、自分の本領を発揮している間は、そんなこと考えもしないのに。
戦いの間はそんなことを聞かなくても、知らなくても、土方がどうしたいのかわかる。どの流れで刀を抜き、どうやって敵を斬ろうとしているのか、手に取るようにわかった。
共にいる時間はまだ短いけれど、自分は他でもなく土方のために打たれた刀だから。
松前、木古内と各地を撃破されたのち、ついに矢不来まで落とされたとの報せに、土方軍はついに二股口の撤退を決めた。ほとんど常勝だった二股口守備隊の士気は高かったが、五稜郭に戻るとその士気を維持し続けることは難しかった。
敗戦が続き、死傷者の数も増え続けている。箱館市中の旧奉行所近くに建てられた病院と、その分館だけでは手が足りず、五稜郭内でもあちこちでけが人の姿を見た。
敵軍は間近に迫っている。援軍はない。勝機も薄い。上層部はどうするつもりなのだろうかと不安に思う者が増えるのも当然のことで、脱走兵も日々増えつつあった。
「安富、頼んでいた件はどうなった」
日が暮れるとその日の戦闘は終了する。すっかり慣れてしまった砲撃の音が止む夜は、ひどく静かなものに感じてしまう。まるで人々がじっと息を潜めている中にいるような、ざらりとした静寂だ。
そんな夜に、報告のために土方の部屋を訪れていた安富が逆に尋ねられて、けれどすぐに頷いてみせた。
「手筈は既に整えてあります。しかし、」
「こうなった以上、わかってもらうしかないだろう」
二股口から箱館に戻ってすぐ、土方が何かを安富に命じていたことは兼定も知っている。船の手配や金の支度のようだったが、それをどうするのだろうかと見ていると、次に呼ばれてきたのは土方の小姓である市村だった。
まだ十五を数えたばかりの彼は会津以前からずっと土方に付き添っているが、土方は彼を戦闘には参加させずに、身の回りのことを任せていた。
戦闘には参加しないが、護身用にと脇差を持たされている。それは初めてのあった日以来、一向に姿を見せていないあの脇差、堀川国広だった。
「土方先生、お呼びでしょうか」
「これを、日野に届けて欲しい」
そう言って差し出されたのは一枚の切紙と写真だった。そういえば写真館で撮った自画像をいくつか持っていたなと思い出す。そのうちの一葉だろう。切紙には、これを届けた者のことを頼むと書かれている。
市村は寡黙で物静かな少年だ。だから土方も何も言わずに今までそばに置いていたのだろうと思うのだが、その彼が珍しく声を上げて意を唱えた。
「嫌です。私は先生と一緒に討ち死にするつもりでこの地まで付いてきました。ここで返されるなんてまっぴらです。その命令は、私ではなく銀之助に」
「市村!」
怒鳴られてびくっと肩が揺れる。それでもなかなかうんと首肯しない少年をどうするのかと見ていれば、土方は兼定の柄を掴み鯉口を切った。すらりと引き抜いて、切先を市村に向ける。
「それほど討ち死にしたいならここで斬ってやる」
戦闘に参加していないとはいえ、それなりの危険を乗り越えてきている市村でも、まっすぐに見据えられて怯まずにはいられなかった。それでもまだ応えようとしない少年の後ろから、ずっと黙っていた安富が声をかけた。
「市村、先生に謝りなさい」
「お前は黙っていろ」
「いいえ、言わせてもらいます。でないと市村も納得できないでしょう」
この男も意外に強情だ。というよりも、土方を筆頭に強情ものばかりが残っているのが現状なのだから当前のことだった。彼のために命じられて用意していた金子や荷物を手にしたまま、安富は市村の横に立つ。
「土方先生が怒っているのは市村が命令に逆らおうとしているからではなくて、討ち死にすると思っているからだよ」
「それを言っちまったらだめだろ安富」
ため息を吐きながら刀を鞘に収め、兼定もまた詰めていた息をふーっと吐き出した。さすがに彼を斬るのは遠慮したかったからだ。土方が本気で市村を斬ろうとしているわけではないことを、感じ取ってはいてけれども。
「だってそのとおりでしょう?」
「先生は、決して死ぬおつもりではないと」
そうおっしゃるのですか、と。今にも消え入りそうな声で尋ねるから、仕方ないなぁと苦笑しながら土方は頷いてみせた。
「何度も言わせるなよ。死ぬつもりで戦場に出るなんざ、俺の流儀に反する」
生きるために、守るために。勝つために戦いに行くのだ。そこに勝機があろうとなかろうと関係ない。戦うからには勝つことしか考えない。そうでなければ勝つことなどできない。
それから先のことは、その時に考えればいい。
「貴方がそういう人だからこそ、我々は信じてここまで付いてきました。市村も、そうだろう」
「……はい」
「それなら、日野へ行ってくれるな。あの人たちに、義兄や姉に、これまでのことを伝えて欲しい」
それはもちろん少年をここから逃すために、納得させるための後付けの理由だ。けれどきっと、どこかでは本心でもあって。
「わかりました」
ようやく頷いた少年に、土方は穏やかに笑いかけた。そうして兼定を鞘ごと引き抜き、仙台からそのままだった浅葱色の下げ緒を外す。
「これも持って行ってくれ。伊達公からの拝領の品だ」
以前拝領した品である越前康継の刀とともに、佐藤家で大切にしてくれるだろうからと。受け取ったそれを、荷物と共にぎゅっと抱えて、市村は静かに頷いた。
そうやって、誰かに何かを託すというのはどういう想いから行うものなのだろうか。代わりにこちらをお持ちくださいと市村が差し出していった、国広の脇差の赤い下げ緒を結ばれながら兼定はぼんやりと考える。
かつて浅葱色の羽織には、それを遺していった人の想いが込められていると土方は言った。ならば彼は、遠いふるさとにいる人々に、己の想いを伝え残すために託すのだろうか。
死ぬつもりはないと言いながら。
四、
朝からとても風が強く、遠くの砲撃の音までもが良く聞こえるようなその日、敵軍は箱館への総攻撃を宣言していた。
箱館湾では朝から軍艦同士の砲撃戦が行われている。最主力たる開陽丸をはじめ、所有していた軍艦のほとんどを失った榎本海軍は、しかし最後に残った蟠竜丸によって奮闘していた。
箱館の最も海側にある箱館山に、敵が現れたのはその日の早朝のことだったらしい。そのまま戦闘になったというが、傾斜の急な箱館山の山頂からの攻撃になすすべもない。
「っていうか無茶苦茶すぎろうだろう」
報告を受けた土方のつぶやきに、安富が応える。
「敵軍は昨夜、反対側の海側に船を寄せて箱館山に登ったということですけれど……獣道もないような断崖でしたよね?」
「よじ登ったのか。すげぇな」
もはやすごいとしか言いようがない。敵がそんな無茶をするとは思っていなかったので警備も薄かった。むしろそこから襲われたらどうすることもできないと、軍議でもやや投げやり気味だったのだ。それほどあり得ない戦略である。
思ってもみなかった背後からの強襲に箱館市中の配備兵は総崩れを起こし、大半は対箱館湾の砲台のひとつとして用意されていた弁天台場に逃げ込んだという。そのまま箱館市中を敵軍に押さえられたら、海に突き出した形の弁天台場は完全に孤立することとなる。
そしてそこには、もともと箱館市中取締を任されていた新選組もいた。
「出ますか」
「そりゃあ行くしかないだろう」
そうしなければ何のために戦っているのかわからないと、土方が笑う。それを見て、安富も久しぶりに笑みを見せた。
既にかなり激しい戦闘になっているであろうことが予想される戦場へと向かうのだ。今まで以上に無事で済むとは思えない。それでも土方の目はギラギラと光って、悲壮感などどこにも見えなかった。
戦いに行く。勝つために。仲間を助けるために。大切な想いを守るために。自ら選んで来た道を、この先も進むために。
それが生きるということなのだと、土方を一番近くで見てきた兼定はもう知っている。
一本木関門は箱館市中の外れにある柵の名で、ここを通らなければ市内に入ることはできない。五稜郭を出てまずはそこへと至る途中で、逆に五稜郭へ向かっている大野とかち合った。彼は弁天台場で新選組隊士の相馬とともに指揮を執っていたはずだ。
「ちょうどよかった、これから援軍をお願いしに行くところだったんですよ」
「市中の様子はどうだ」
「いやもう、散々ですね。だって山からの敵襲なんて無茶苦茶じゃないですか。驚きの方が強くて、ろくな戦闘もできずに慌てて台場に駆け込んだような状態ですよ」
そんな予想外の無茶をやってのけた敵将は黒田了介、この戦いにおける薩摩側の総大将ですとの大野の報告を聞いて、薩摩なら仕方ないとなぜか妙に納得している馬上の土方を見上げて、大野が笑う。
「先生、市中を奪還し、台場を助けに行きましょう」
「もとよりそのつもりだ」
そうして合流した大野と共にたどり着いた関門で、今度は市中方面から敗走してくる一軍と遭遇した。元御家人である滝川率いる伝習隊だ。彼は陸軍奉行である大鳥が深く信頼している元幕府陸軍士官の一人でもある。
「土方さん! なんで来たんですか!」
「なんでもクソもあるか。台場の連中を助けに行くために決まってんだろ」
「あは、あっは。そりゃそうだ」
十八歳の若き士官は馬上で声を上げて笑い、それからイテテと馬の首にしがみついた。自分の笑い声が傷に響いたのだろう。足からは赤々とした血が滴り落ちている。
「足をやられたのか」
「うっかり撃たれました。情けないことに歩くこともままなりません……うちの連中を頼んでも、いいですかね」
情けなさそうに、そしてひどく悔しそうにそう告げた滝川の背後で轟音が響いた。驚いて音の方角、箱館湾へと目を向ければ、軍艦のひとつが火柱を上げている。
「あれは」
「我らの蟠竜は無事です! 敵艦です!」
安富の、珍しく上ずった声での報告に、土方はぎゅっと兼定の柄を掴んだ。そのまますっと抜いて振り上げ、切先を天高く空へと向ける。
「この機を失うな! 進軍する!」
轟沈する敵艦の姿に、土方の声に、その場にいた兵たちが湧き上がる。士気は完全に高まった。この好機を逃すわけにはいかない。
「伝習隊は私が引き受けましょう。ここから先は混戦になるはずです。土方先生は戦線を切り開くまで、この関門を守ってください」
名乗り出た大野と、それがいいだろうと頷いた土方を見て、滝川は後を頼みますと深く頭を下げた。そのまま他の負傷兵とともに五稜郭へと向かう。
「市中のことは敵よりも俺たちの方が詳しい。そのことを思い知らせてやれ!」
土方の激励と共に、大野に率いられた伝習隊の兵たちが走り出した。高まった士気と興奮そのままに、わあわあと鬨の声を上げながら敵兵へ突撃する。けれども、湾の向こうに見える台場は遠い。その距離を目の当たりにして怯んだのか、後ずさりをした兵に土方は無情にも兼定の切先を向けた。
「貴様は、戦う仲間に背を向けて逃げるのか」
「い、いえ……でも……」
「退く者は斬る! 仲間に、敵に、背を向けることはこの俺が許さん」
――士道に背くまじきこと、と。その時つぶやいたのはたぶん、土方のそばに控えていた安富だったと思う。
遠くから絶え間なく聞こえてくる砲撃と、いくつもの怒声と。騒がしい戦場で、どうしてその小さな声が聞こえたのかわからない。
けれどなぜかその言葉ははっきりと聞こえて、それから一発の銃声が高らかに響いた。
それからのことは、実はよく覚えていない。
銃声と、馬から声もなく落ちていく土方と、駆け寄ってくる安富たちの姿と。
ただ、土方は最期まで兼定を手放さなかった。そのことだけは、その手のあたたかな感触だけは、忘れずに覚えている。
*
焦燥に駆られながら書き上げたその手紙は、横から見ても明らかに斜めっているようだった。焦る必要があるのかどうか、主を失ったばかりの兼定にはわからない。
筆を置いて、詰めていた息を細く長く、ゆっくりと吐きだした安富は、それから兼定を見た。壁に立てかけていたそれを手に取って、荒れた手でそっと撫でる。
土方の遺骸を人知れず葬り、その所持品を遺品として五稜郭内の奉行所に持ち帰ったのは彼だった。取り乱している周囲の者に指示を出し、戦場の混乱の中でも的確に処理を行い、必要な報告を終えて。伝令に来ていた相馬と大野を、仲間たちが待っている弁天台場へと半ば無理やり送り出した後、一人きりになる機会を得て手紙を書き始めた。
それは土方の死を、土方の故郷に伝えるための手紙だった。詳細はこの手紙を持って行った者に聞いて欲しいと書いているから、安富自身は行かず誰かに頼むつもりのようだ。死の瞬間に立ち会ったものは確かに彼の他にもいた。
自分も人と話すことができれば説明できるのにと、兼定はぼんやりと思う。刀である自分は、遺品として手紙とともに送られるのだろう。まだ戦えるのに、ここで戦いたいのに、最後までここにいたいのに。それは叶わない。
「先生、」
安富がぽつりと呟く。小さな声は、薄闇の中に空しく響く。
ふっと声が漏れて、ぽたりぽたりと、鞘に落ちてきた滴が涙と呼ばれるものであることを兼定は知っていた。出会ったばかりの頃、土方がそれをぽろぽろとこぼしたことがあったから。
それは、近藤という男の墓参りの時だった。ついてきた他のものたちに、しばらく一人にして欲しいと告げて。だからそれを見たのはそばにいた兼定だけだ。今こうして、彼の涙を兼定だけが眺めているように。
「先生、どうして、」
兼定を抱きしめながら、安富は静かに泣き続ける。
「どうして俺たちを置いて、いってしまったのですか」
子供のように声を上げることはできないまま、押し殺した嗚咽の中で、どうして、どうしてと子供のように繰り返す。
そうやって問いかけたところで明確な答えなどなく、もちろん返る声もない。そんなことはわかっていて、それでも問わずにはいられないのだろう。
こんな北の奥地まで来て、それでも土方は死ぬつもりなどなかった。それは本当のことだ。彼の目はいつだってギラギラと輝いていた。
けれど、この戦いの先まで生き抜くことができないであろうことも、みんなわかっていた。だからこれは、いつかは来るとわかっていた日で。
「それでも俺は、いつまでもそばに」
貴方に付き従っていきたかった、と。呟いた安富の言葉で、兼定はずっと抱いていた自分自身の気持ちをやっと知ることができた。
一緒にいたかった。どこまでもついて行きたかった。
どこまでも戦い続ける、彼の刀でありたかった。
願いはただ、それだけだった。
「あんたと俺の願いは、同じだったんだな」
会津の城で、出会った時からずっと。
兼定のその声が、聞こえたのかどうか。安富が不意に顔を上げた。けれども、誰もいない部屋の中でしばらくぼんやりとしたあと、再び手に取った筆を手紙の最後に走らせる。
隊長討死せられければ―――
五、
長く深い眠りの中で、不意に名を呼ばれた気がした。
いつから自分は眠っていたのだろうか。覚えている最後の光景は、安富の手紙と共に送り届けられた先、日野の佐藤という男の夫人が決して泣くまいと唇を噛んでいる姿だった。彼女が土方の言っていた姉なのだろう。
「あの子は最期まで、前を向いていたのですね」
それだけ聞ければ十分ですと、笑う。その笑みがひどく土方に似ていたので、自分はなぜだかとても満たされた気持ちになったのだ。
彼が本当に伝えたかったことは、伝えたかった相手にきちんと伝わったのだと。
それからどれだけの月日が経ったのかしれない。たくさんの声が聞こえた気がしたが、どれもよく覚えていなかった。
強く名を呼ばれて、それは自分の名だと思って。応えようと目を開けたら、薄闇の中に立っていた。ふわりふわりと蛍のような光が飛び交う中、その光のひとつが目の前でくるりと円を描いて人の形になる。
「よお、兄弟」
それは兼定に似た、けれど少し違う男だった。肩にあざやかな浅葱色の羽織を引っ掛けている。袖と裾に白抜きで山型のだんだらを描いた、やけに派手なその羽織にはなんとなく覚えがあった。
「その羽織は、京都の」
「新選組の象徴だ。末っ子のお前は知らないか」
「兼定は俺の後にもいくつも打っていたぞ」
「そうじゃねぇよ。あの人の刀としての未の子だ」
つまり目の前の彼は、京の町で土方が振るっていた兼定なのだろう。どうして彼がここにいるのだろうかと問おうとすれば、説明はもっと偉い奴に聞いてくれと笑った。
「なんにせよあの人の一番は、あの人の最期を見届けたお前に譲ってやるよ」
しっかりやれよと言いながら、するりと脱いだ羽織を兼定の肩にかけて笑う。そのまま、再びふわりとした光の玉になって消えてしまった。
それからも次々と土方の振るった刀たちが集まり、一人一人やけに律儀に兼定へ声を掛けて、光に包まれて消えていく。
「あの人は最後になんて言ったんだ?」
「退くものは斬る、と。仲間に、敵に、背を向けることはこの俺が許さないって」
「ああ、それな。宇都宮の戦いの時もそう言って、本当に斬り捨てたんだよ。俺で」
兼定ではないその刀は土方が宇都宮で振るった刀のようだ。北関東を転戦している時に携えていたものなのだろう。
「だけどその時に斬り捨てた兵を、そのあと、丁寧に弔った。それから供養を頼んだ寺に、俺を奉納したんだ。俺はそのまま眠っちまったから後のことは知らねぇけど、今に残ってないってこたぁ、謂れは伝えられずに破棄されたか供出されたか」
どっちだっていいんだけどさ、と笑いながらその刀は兼定の手を取った。
「そういう俺の、あの人との思い出も。お前がみんな持っていって、そして戦ってくれ」
あの人と、あの人と共に戦った彼らのために。そう告げてふわりと消えたその後ろに、もう一振りの刀が待っていた。
最初に現れた京都での兼定のように、兼定に似た姿をしているが、兄弟ではなさそうだった。先代や、もっと前の刀だろうかと兼定が首を捻ると、黙っていた相手がようやく口を開く。
「俺は十二代和泉守兼定」
「十二代? 兼定の子は兼定の名を継いだのか?」
「違う。たとえ十二代を継いでいたとしても、最後に土方の刀だったあんたよりあとに土方の刀として存在するはずがないだろ――俺は、この世に存在しないはずの刀だ」
だからここに呼ばれた理由もわからないとこぼす相手に、兼定は笑って手を差し出した。
「でもあんたも、あの人の刀なんだろ?」
「後世に、そう主張する人々がいたっていうだけの話だ」
「なんだよ、それで十分だろ。俺たちは『土方の刀』になるんだから」
既に兼定の中には、兼定の刀ではないものも混ざっている。それでも呼ぶ声はますます強くなっていく。声の主の意図するものが、なんとなくわかった気がした。
あの声は『土方の刀』を呼んでいるのだ。理由も目的もわからないが、それだけは確かだろうと思う。
だから存在しない刀が加わったところで問題などあるはずがない。土方の刀として呼ばれて、応えて、この不思議な場所に集まった。それ以上の意味など何もないはずだ。
そうして差し伸ばされた手を迷いながらも掴み取った十二代も、光に包まれてふわりと消える。最後に残った兼定は、まっすぐに天上を見上げた。
遠くで火花が弾けるような、ギラギラとした輝きが見える。かつて見てきた人々も、ここで出会った刀たちも、みんな目の奥にその輝きを持っていた。
戦いを見てきたものの、戦いに挑むものの目。
そしてとても、懐かしい光。
「オレは和泉守兼定。かっこよくて強い! 最近流行りの刀だぜ」
土方歳三の刀である『和泉守兼定』はそうして、愛した人々の歴史を守る刀剣男士として。再び戦いの中に生まれ落ちた。
「和泉守やか、そこで何をしちゅう?」
本丸の一角、審神者の部屋に続く廊下の奥にある木戸から出てきた和泉守兼定を見つけたのは、手入れ部屋から出てきたばかりの陸奥守吉行だった。
久しぶりの出陣で検非違使にぶち当たり、うっかり大怪我を負ったせいで陸奥一人だけ手入れ時間が伸びてしまったのを、和泉守は知らなかったのだろう。見つかっちまったとバツの悪そうな表情を浮かべる。
「こがなところに扉なんてあったがか」
「審神者に頼み込んで教えてもらったんだよ」
この扉の奥には書庫がある、と。他の連中には教えるなよと言いながらガシャンと鍵をかけた。
「この鍵もちゃんと審神者から借りたもんだからな」
「おんしはそん書庫で何をしちゅうがか」
「……少し、時間あるか?」
「お、おう」
なんだかいつもと違う和泉守に、陸奥は少し動揺してしまった。廊下を少し歩くと裏庭に面した縁側に出る。そこに並んで腰かければ、庇がちょうど影を作って、陽の光は足元でキラキラと輝いていた。
一軍はレベルを上げている最中で、二軍から四軍までは連日の検非違使戦で少し足らなくなってきた資材を集めるために、毎日フル稼働している。それだけで本丸に残っている者はかなり減っている上に、内番の畑も厩も鍛錬場も屋敷の反対側にあるので、とても静かな場所だった。
一番近い厨から、トントントンと包丁で何かを切る音がリズミカルに聞こえ、何やらいい匂いがふわりとあたりに漂っていた。誰かが夕餉の仕込みをしているのだろう。これは二代目の包丁使いだなぁと、和泉守がぼんやりとつぶやいた。
「覚えちゅうか」
「書庫を出て、ここでしばらくぼんやりしていると聞こえてくるんだよ」
覚えてしまうほど書庫に通ったということだろう。何から話したらいいかとぼやいていた和泉守は、そうだ二代目、とようやく口火を切った。
「歌仙にな。歌の話をしたことがあるんだ」
「得意の雅か」
「そう、雅」
イヒヒと笑って手を伸ばし、ぐうーっと伸びをする。まるで大きな猫のような仕草だ。それから少し、居住まいを正した。
「隊長討死せられければ――早き瀬に力足らぬか下り鮎」
「隊長……おんしの前の主か」
「ああ、そうだ」
なるほどいつもと様子が違うのは、その話をしようとしているからだったのかと陸奥は納得した。
彼の前の主が討死した函館には、彼と同じ部隊にいる時に行ったことがある。堀川国広との昔話も、その時一緒にいた陸奥は確かに聞いていた。
本丸に来たばかりの頃に抱いていた、彼ら新選組の刀だったものたちに対する苦手意識が薄くなっていったのはそれからのことだ。今ではすっかり確執もなく、むしろ活躍した時代が近いだけに他の刀よりも話が合うのでつるむことも多い。
「前の主が亡くなった時に、そのことを伝える手紙の最後に、あの人の部下が書き残した歌だ」
堀川国広はなぜか前の主の歌として覚えていた。加州清光は死んだ自分の主を下り鮎に例えるだろうかと首を傾げた。
それに対して、歌仙兼定は勝手な憶測だと断った上で、『下り鮎』に託したのは死した主ではなく詠み人自身のことであろうと解いた。力足らず、主とともに早き流れを乗り越えることができなかった自分自身を悔いる歌ではないか、と。
抗うことも乗り越えることもできなかった激流に、流された先には何があるのか。あるいは、共に激流を乗り越えられた先に何があるはずだったのか。
「歌を作ったその人は、俺を遺品として他の隊士に手紙と共に託して、自分は五稜郭に残った。あの人に託されたから、最後まで見届けると言って」
彼は、安富はそう言って、大野を弁天台場へと送り返した。土方が救おうとしていた仲間たちの後を託すために。それから五稜郭に残っていた、立川と沢という、やはり京都から土方に付いて来ていた二人にそれぞれ手紙と遺品を託した。兼定は日野の佐藤家へ運ばれ、それから土方の生家へと移った。
――思いを残した品を誰かに託すのは、それを残していく本人のためではなく、その人と共にいたいと願った誰かのためなのかもしれない。
持ち主の元を離れた後のことは、刀としては眠っているような状態であったからぼんやりとしか覚えていないけれど。それでも思い返せば大切にされた記憶ばかりが蘇る。
「そうやって寝ていた間もぼんやりと声は聞こえていて、だけど歌を作った人のその後はなぜか少しも聞こえてこなかった」
だから審神者に頼んで書庫で調べていた、と。
「あの扉の先には受付があって、『司書』って名札をつけた、刀装兵みたいなちっこいのがいてな。そいつに頼むと必要な本を探してきてくれるんだが、これがなかなか、時間がかかった。所蔵されている本の数が膨大なのもあるんだろうが、俺たちに見せられないものもあるんだろうな。あと、」
「あと?」
「情報が途中で変わっていたんだよ。もちろん敵に修正されたわけではなくて、単に長いあいだ本当のことが知られていなかったってだけの話なんだが」
よくあることなのだろうと思う。陸奥の前の主が殺された理由も、主犯も、事件の当時からはっきりとしなかったせいで様々な俗説が長らく飛び交っていた。
「百年くらいの間、その人は暗殺されたと言われていたんだ。仇討ちで殺されたってな。でも本当は違った。故郷で、不遇のまま病で死んだとさ」
敗者として、国賊として、裏切り者として、不忠者として。
刀を取り上げられたまま、許されないままに、亡くなったのだという。
「仇討ちで殺されていた方がマシだったとは、絶対に思わねぇ。だけどそれは、いくらなんでもあんまりじゃねぇか、って……」
彼が何をしたというのだろうか。この数日調べてわかったのは、彼が生国の江戸屋敷で勘定方として勤めていたことと、ある時それをやめて新選組に入ったこと。
鳥羽伏見での戦い以降、新撰組では離脱者や脱走者が増えた。土方はそれを、それまでのように引き止めようとはしなかった。そんな中で安富が最後まで残ったことは、彼を間近で見ていた『土方の刀たち』はもちろん知っている。
けれどそのあとの箱館で、榎本や大鳥たち上層部の人間と共に降伏会見の場に参加していたということは、ここで調べて初めて知った。
彼は、彼自身が言ったとおり、本当に最後まで見届けたのだ。激流のようだった戦いの終わりの、その瞬間まで。
いつまでもそばにありたいと願っていた、慕い続けた、ただ一人のために。共に越えることができなかった、見ることが叶わなかった早き瀬の先を、一人で流されながら見届け続けた。
それだけのことなのに。
「おんしは、そん人が好きやったか」
「ああ、好きになったよ。俺とその人の願いは同じだったから」
刀と人ではあったけれど。言葉を交わすことも、視線が合うこともなかったけれど。
願うことも、それを願う理由も、きっと同じだった。
「あのな、笑っちまうかもしれないけど、あの人は、あの人たちは本当に、あんな戦いの中でも死ぬつもりなんてちっともなかったんだ。いつだって勝つ気で、勝つために、生きるために必死で考えて。どんな時でも前を向いていた」
もちろん時には、敵に背を見せて逃げることだってあった。どうしようもないと撤退したことだって何度もある。それでも前を向いて、このままで終わらせてなるものかと笑って再び戦いに赴く。
そんな人だから『自分たち』は強く惹かれたし、彼に従っていた者たちも、だからこそ最後まで一緒に戦おうとしていた。
ギラギラと目を輝かせながら。
「龍馬も、そうじゃった」
戦うのは戦場だけのことではない。龍馬がいたのは銃弾飛び交い、刃を交える以外の方法で戦うような戦さの場所だった。だから和泉守の言いたいことはよくわかる、と。そんな陸奥が相手だからこそ和泉守も話を続ける。
「そうやって生きていた人たちの選んだ道を、他人の勝手な都合で変えさせるわけにはいかねぇよ。それは決して許されない、彼らへの冒涜だと、思わねぇか?」
和泉守の言葉に、俯いたままの陸奥は何度も何度も頷く。それを見て、あんたならわかってくれるんじゃないかと思ったんだと、土方の刀はどこか照れ臭そうに笑った。
一番近くで見てきたのだ。互いの思いを共有することも、声をかけ、尋ねることも言葉を交わすこともできなかったけれど。それでもそばにいて、わかることだってあったのだ。
戦うために生まれ変わった。戦うために、新たな生を得た。
出会ってきた人々が自ら選んだ道を、歴史を、守るために。
それが新たな生を得た自分たちが、自ら剣を取って戦う理由。
決して揺らぐことのない、力強い誓い。
――それでも、だからこそ。もっと一緒に居たかった。
少しでも長く彼の側にありたいと、彼の刀でありたいと願ったのは本当で。
そうして人の姿を得た自分たちは苦悩し、足掻き続ける。