リンカネLOG - 2/2

子守唄

「張遼様!」
 野営の準備を終えてさあ寝るぞ、という時に出鼻をくじかれる形になった張遼はムッとしたまま顔を上げる。その眼光の鋭さに、まだ年若い兵がヒッと声を上げて後ずさった。
「ああ、すまんすまん。どうした?」
 どうやら自分が思っている以上に疲れているようだと反省しつつニッと笑って見せれば、あ、はい、それが、と兵は報告を続ける。兵に恐れられるのは戦場にある時だけで良い。普段はそれなりに、一兵卒の話を聞ける将でなければ小さな綻びから軍は崩壊する。
「姜維殿が、どうも寝ておられない様子で」
「あの小僧が?」
 よくわからない理由で押し付けられた、一見すると青年にしか思えない子供がどうしたと言うのか。聞けば、毎晩与えられた閨に戻らず一晩中哨戒を続けているのだという。
「一時的な仮眠は取っておられるようですが、もう三日はまともに寝ていないかと」
「あの馬鹿」
 吐き捨てた声には、苛立ちよりも困惑が混ざっていた。どういたしましょうか? と兵に問われ、報告ありがとさんと肩を叩いて労う。そうして立ち上がった張遼が自らどうにかするつもりなのだと察して、拱手で応えた兵は姜維の居場所を伝えて下がった。
「なんで俺がこんなことをしなきゃならないんですかねぇ、丞相」
 ここにはいない主君に文句を言いつつ、しかしこのまま放っておくわけにもいかない。彼は一応魏軍の武将であり、彼の進退はこの部隊の士気にも関わる。溜息を吐きながらも先ほど聞いた彼の居場所、野営地から一番近い哨戒場所へと張遼は向かった。
 ――兵たちが気づいた彼の異変に自分が気がつかなかったのは、病み上がりの身体に連日の戦闘が響いているというのもあるが、自分が彼から目を逸らしていたことも要因であろう。
 己を従わせるために母を捕らえた曹操を恨みながら、けれどどうすることも出来ずに従っている。そんな彼の姿を自分に見せつけるのが、曹操と荀彧の意図なのではないかと張遼は疑っていた。
「おーい姜維、閨に戻れー」
「哨戒中だ。戻らない」
 そう言って背を向けて、更に野営地から離れようとする姜維にやれやれと息を吐いた張遼は剣先を向けた。
「そんなもの俺は命じてないぞ? 戻らないのなら命令違反として本隊に、丞相に伝える」
「チッ」
 舌打ちをしながらもようやく向き直った姜維の目を見て、どうしてこれに気がつかなかったのかと張遼は自分の失態を悟った。ギラギラとした目は新入りの若い兵にありがちな、連日の戦闘による強い興奮状態にある時のものだ。そのせいで寝付けなかったのだろう。
 野営地に連れ戻した姜維を仕方なく自分の毛布の中に押し込めながら、どうしたものかと考える。青年くらいに見えるこの子供は、信じられないことにまだ六歳でしかない。
 子供のあやし方などこの張遼が知るはずもない。子守唄でも歌ってやれば良いのだろうかと考えて、ふと、ひとつの旋律を思い出した。
 子守唄かどうかも定かでは無いし、そもそもうろ覚えだが無いよりはマシだろう。
「俺が歌ってやるからさっさと寝ろ」
「そんなものいらない!」
「お前が寝るまで続けるぞー」
 大きすぎる子供を布でくるんだ張遼は、その隣へ己の長身をねじ込むように横たわった。とんとんとゆっくりとした調子で相手の背を撫でながら、他の兵たちの迷惑にならないよう小さな声で歌い始める。
 はじめは不快げな顔をしていた姜維は、その歌を聞いて驚いたように張遼の顔を見つめた。それからどうでもよくなったのか、諦めたように目を閉じた。
 よほど疲れていたのだろう、すぐに小さく寝息を立てはじめた子供を眺めながら、ああこれはやはり子守唄だったのだと張遼は確信した。これは以前、孔明の元へ向かう途中の野営地で、見張りの番に立つ張コウがぼんやりと歌っていたものだ。
 静かで、やわらかで。けれどどこか物悲しいその旋律は、決してそれほど多くの回数を聞いたわけではないのに何故か張遼の耳に残った。これは彼女の、周瑜の故郷で歌われる子守唄だったのだろう。
 彼女は何を思って、紛うことなく敵である自分の隣でこの唄を歌っていたのだろうか。無意識のものであったことは確かなのだが、もう彼女自身にそれを聞くことはできそうにもなかった。
 この子供も彼女のように、いずれ向こうに、あの劉備の側に行くのかもしれない。その方がこの子供の為になるのだろうと何の根拠もなく張遼が考えていると、もぞりと動いた姜維がすり寄るようにして身を寄せてきた。無意識の甘えなのだろうと察して、張遼は今夜一番深い溜息を吐く。
「あんまり情を、移させるなよ」
 けれど疲れきった身体では、健やかに繰り返される寝息とあたたかな体温に簡単に負けてしまって。
 張遼もまた、ゆっくりと目を閉じた。

 


軍師

 火を放った船から這々の体で陸地に上がった兵の、そのほとんどが無傷とは呼べない状態だった。そもそも重傷のまま敵兵に囲まれた主君救出のために無茶をした上での、ここまでの行軍である。誰もかれもが満身創痍だ。
 それでも中には、比較的まだ元気な者もいる。くるくるぱたぱたと忙しなく立ち回りながら負傷兵の手当を手伝っている姿を目敏く見つけて、曹仁は己の傷に響くのも構わずいつものように声を張り上げた。
「于禁! 楽進!」
 名を呼ばれて素早くと曹仁のもとへ走り寄り、その目の前でさっと膝をついた二人の動きを見て、やはりこの二人なら大丈夫だろうと曹仁は確信する。
「お前たち、単独で本陣まで走れるな?」
「で」
「こんな時にまでですが、を言うな!」
 再び声を張り上げたために脇腹の傷に響く。イテテと片手で傷口を押さえながら、しかし少しでも早くしなければならないと曹仁は顔を上げた。
「本隊のことは気にしなくて良い。夏侯惇がいる。それよりもお前たちは今すぐ急いで本陣へ向かい、荀彧に孟徳の――丞相と夏侯惇の無事を知らせて来い」
「曹仁、お前」
 少し離れた場所で聞いていた夏侯惇が驚いたように馴染みの名を呼ぶ。ここにあの軍師がいない理由に、夏侯惇はまだ考えが至っていなかった。もちろんそれがあの軍師の立ち位置であると、それが自然なことだと無意識に納得していたからでもあるのだが。
「お前らのせいで、孟徳を助けるためだけにあいつはひとり、本陣の留守を引き受けてるんだ。真っ先に知らせてやらんといかんだろうが。お前たちも、わかったか!」
「はい!」
「ならば行け!」
「はっ!」
 走り出した二人を見送り、やっとまともな返事を返したなばかもんが!と怒鳴って再びイテテと傷口を押さえた曹仁の背を、夏侯惇はバンと音を立てて叩いた。
「痛ッ……何をするんだばかもんが!」
「ありがとな、曹仁」
 夏侯惇の感謝の声に、それは荀彧に言ってやれと曹仁はため息を吐きながら返した。今頃、呉の本隊が本陣へと向かっているはずだ。重傷者を抱えた自分たちの帰陣はそれに間に合わないだろう。つまり、留守を引き受けている荀彧がひとりで敵軍の本隊と対峙することになる。
 彼のことだから間違いはないはずだ。けれど不安でない筈がない。全兵に曹操の救出を命じた時の彼の、迷いと決意を知っているのは曹操でも夏侯惇でもなくその場にいて彼を見ていた曹仁だった。だからこそ今は曹仁が命じなければならない。
「全兵、支度が整い次第、本陣への行軍を始める! 帰陣するまでが戦闘だ! 気を抜くんじゃないぞ!」
「「「ですが!」」」
「だーかーら! 何故ですがを言うんだばかもんがーーー!」
 曹仁の絶叫に、兵たちだけでなく夏侯惇も、深手の傷と出血で意識がやや朦朧としている曹操や張遼も思わず笑ってしまう。いつもどおりのその空気に、敗戦によって兵たちに広がっていた澱んだ空気が払拭されるのを感じた。
 やはり曹仁がいないとダメだな、と。弱々しくも笑って見せた曹操の言葉に同意しながら夏侯惇が立ち上がる。
「さっさと帰るぞ孟徳。急いで知らせたところで、お前の顔を見るまであいつも安心できんだろう」
「軍師っていうのはそれが仕事だからなぁ。だから、あいつなら大丈夫さ」
 疑うから、策を立てる。それでもやはり、より早く知らせておけばその判断を誤ることはないだろうと。
「ずいぶんと信頼してるんですねぇ」
 よろよろと立ち上がった張遼に言われて、夏侯惇に支えられながら立っていた曹操はいつものように不敵に笑って見せた。
「当たり前だろう。俺の選んだ軍師だ」

 


丞相と黒猫

 気配を感じて曹操が足下に視線を落とせば、黒く艶やかな毛並みの猫が目を細めこちらを見上げていた。
 数日ほど前に、許褚と夏侯淵の二人が拾ってきた三匹の猫のうちの一匹。寄ってたかって構い倒されている他の猫たちとは違い、この黒猫はこうして時々ふらりと姿を現しては消える。それも大抵は高い場所や離れた場所にいると言うのに、こんなにすぐ近く、それも足元に現れるとは珍しいこともあるものだ。
 なんだお前も構って欲しくなったのか、としゃがんで手を伸ばすと、それを待っていたかのようにするりと踵を返して曹操に背を向けてしまう。くるんとしっぽを揺らしながら去る黒猫に、まったく可愛げのないヤツだと苦笑しながら立ち上がれば、猫の向かった先に張遼が立っていることに気がついた。
 足にすり寄るように、しなやかな身体を擦り付けるようにその足回りを一周した黒猫の小さな頭を、張遼は慣れた仕草で撫でてやる。その大きな手とゆっくりとした優しい仕草が気に入ったのか、黒猫は目を細めてしっぽを揺らした。
 もうおしまい、と言うように黒猫の頭をぽんぽんと叩けばにゃあんと鳴いて、ぴょんと欄干を越えて今度こそ姿を消す。微笑しながらそれを見送った張遼が、振り返って曹操を見つけ、少しばつの悪そうな顔を浮かべた。
「えーっと、探しましたよ丞相」
「ばか!」
「なんですか突然……」
 呆れたように肩を落としてため息を吐き、あっちで荀彧が探してましたよと言いながらゆっくりと近づいてきた相手を曹操は無言でじっと眺める。
「今度はなんですか」
 この男の沈黙は不気味だ、と思わず身構えた張遼に手のふりだけで「しゃがめ」と指示する。訝しげな表情を浮かべつつも、言われたとおり曹操の前に膝をついた張遼に無言のまま手を伸ばし、その頭を曹操はわしゃわしゃと撫で回した。
「……なんですか、これは」
「お前は、やっと懐いた猫みたいだなぁ」
「はあ?」
 言っている意味がわからない、と言いながらも曹操の手を振り払おうともせずおとなしくされるがままになっているその姿が、他の何よりも確かな証明のようなものだった。

 


とある少年兵のはなし

 格別何か目的があったわけではない。夢や理想や、成したいことがあったわけではなく、ただ、生きるためについていくことを決めた。
 六人兄弟の五番目。毎日必死に両親の仕事を手伝ったところで、僅かな食料はいつも奪い合いで。兄達に勝てるはずもなく、かと言ってまだ幼い下の弟から奪うこともできず。
 黄色い旗を掲げる反乱軍に参加すれば、今よりはまともな生活ができるだろう、と。他の志願者たちのように国を変えるなどという大きな目的のためではなく、自分の生活を変えたいという理由で志願した。
 なんの力もないけれど、ただ、生きるために。
 そんな自分の話を聞いて、けれど彼女は笑ってくれたのだ。それでいい。仲間になってくれてありがとう。共に戦うことを選んでくれてありがとう、と。
 何かとても大切な、尊いものを扱うように、彼の荒れた手を両手で握りしめて。
 その弾けるような笑顔と、その言葉と。包まれた両手のあたたかさを思い出すたびに、戦場で何度転んでも、恐ろしさで膝が震えても、再び走り出すことができた。
 なんの力も持っていない、弱い自分が生き残るためにできることといえば、決して立ち止まることなく走り続けること。それだけだったから。

「ハサイさんは、なんで俺の面倒を見てくれるんですか?」
 怒られたりどつかれたりしながら、少しずつ敬語を覚え始めた頃、少年は以前からの疑問を兄貴分にぶつけてみた。
 黄巾党首である張角の信頼厚く、一軍を率いる立場にいるハサイ将軍は、少年が入った時から何かと目をかけて面倒を見てくれている。
「なんだ、不服なのか?」
 相変わらず訛りの強いハサイが手入れをしていた斧を置いて、眉根を寄せながら問い返せば、少年は慌てて両手を振って否定した。
「そういうわけじゃなくて!」
「はは、別に怒ってねぇよ」
 そう言って笑いながら少年の頭をワシワシと乱暴に撫で回して、再び斧を手に取る。柄の布をぎゅっぎゅと力を入れて巻き直しながら、そうだなぁと少し間を置いて答えた。
「郷里になぁ、置いてきた弟に似てたんだ」
「俺が?」
「どこが似ているってこともないんだけどな」
 なんとなくだ、なんとなく、と、彼にしては珍しく歯切れの悪いハサイの言葉に少年は首をかしげる。
「俺にも兄貴がいたけど、ハサイさんみたいには面倒見てくれなかったよ」
「それはまあ、そうだろうな……だけどな、俺が特別ってわけじゃない。俺だって郷里にいた頃は、兄弟のことなんてちっとも考えられなかった」
 少し俯いて、手にした武器をじっと見つめて。ふう、と小さく息を吐いたハサイは再び顔を上げて少年を見た。
「俺は、俺のことしか考えられなかったんだ。年老いた両親のことも、弟のことも考える余裕なんてなかった。だからこれは……」
 罪滅ぼしなのかもしれない、と。小さな小さな声で溢れた言葉の意味が、少年にはわからなかった。
 ただ遠い南方にあるというハサイの郷里に、彼を待つ家族がいないことを少年が知ったのは、それからしばらく後の事だった。

 ハサイが自分に優しくしてくれるのは、もういない弟の代わりなのかもしれない。けれどそれでも良いと少年は思っていた。自分たちは兄弟ではなく黄巾党の、張角を慕って集まった仲間だ。
 戦場でたびたび危機に陥る自分を彼が助けてくれるように、いつか自分も彼を助けられたら良いと。彼だけではない、支え合い助け合ってきた仲間たちの力に、自分もなれたら良いと。
 夢も理想もなくただ生きるためだけにここへ来たはずなのに、いつしか小さな、とてもささいな、それでいてとても大切な夢を抱くようになっていた。
 それをたどたどしい敬語で話したら、彼女は自分のことのように喜んでくれて。
 だから。
「いきなさい!」
 血を吐くような声で叫んで自分を殴った彼女の言葉を、何度も何度も繰り返し思い出す。
 行きなさいなのか、それとも、生きなさい、だったのか。
 わからないからただ、彼女の言うとおり、闇雲に走り続けることしかできない。

 はじめて、守りたいと思ったのだ。守るために戦いたいと。
 自分のためだけではなく、誰かのために。みんなを守るために。
 だけど、守れなかった。力が、足りなかった。
 横たわり動かないハサイの前に跪き、額を押し付けて、その冷たさに自分の無力を思い知った。
 どうすることもできなかった。ただみんなに守られて。生き残って。

 だからもし、もしも生まれ変わることができたならば。
 今度こそ誰かを守るための存在になりたいと。
 例えば、党首として道を示すために、先頭に立ち続けた張角のように。その張角に常に寄り添って、支え続けた張曼成のように。最後まで力強く手を掴んで引いてくれたハサイのように。張角を守れと、彼女の元へ走れと叱ってくれた彼のように。
 彼らのように強くなることはできなくても、それでも。

 いつか生まれ変わるために、その日まで生きるために。
 また、彼女と共に戦うために。今度は皆のように彼女を支え、守れるように。

 今はただ、泣きながら走り続けることしかできないけれど。

 

 

月餅

「ここに月餅がある」
 そう言って曹操がおもむろに懐から取り出したのは、確かに大きな月餅だった。何もこんな風の強い丘の上で出すものではないだろうと夏侯惇は思うのだが、彼の行動が唐突なのはいつものことだ。
「ひとつしかない」
「そうだな」
 見ればわかると適当に頷いて、腕を組み直す。槍も酒も置いて来てしまったせいで手持無沙汰だった。仕方がないので、いつもより真面目に曹操の話を聞いてやる。
「月餅はひとつしかない。が、俺はこれをお前と食べたい」
「それなら簡単だ」
 そう答えた夏侯惇は月餅をむんずと掴み、両手を使って二つに割る。そして僅かに大きい片割れを曹操に差し出した。
「こうすればいい」
「お前の答えはいつも明瞭だなァ」
 聞かずとも最初からわかりきっていたであろう夏侯惇の答えに、それでも満足そうに目を細めて笑って。差し出された、半月型になった菓子を受け取る曹操の顔を夏侯惇はじっと眺める。
 彼がこうやって遠回しに何かを含むような、謎かけのような話をする時は大抵、何かを決めようとする時だ。
「お前とだけでなく、曹仁たちとも分け合うにはどうしたらいいと思う」
「最初からもっと大きな月餅を用意すればいい。いや、数を用意すればいいのか?」
「まあ、そういうことだな」
 彼の中で答えは決まっていて、あとは動き出すだけ――その直前に曹操が求めるのは、複雑に絡み合う糸を一度すべて断ち切るような夏侯惇の言葉なのだろう。
「分け合った方がいい。お前がそれを求めるなら、なんでも」
「天下も」
「そりゃたくさん必要だな」
 天がひとつでないのなら、当然その下にある天下もひとつではない。
 曹操が本当に求めるものを夏侯惇は知っている。彼が掲げた旗の先に見据えるものを、他の誰よりも理解している。
 だからこうして隣に立って、半分に分けた月餅をもぐもぐと平らげて。 
「お前に孤高は似合わねぇよ」
「そんなことを言うのはお前と曹仁くらいのものだな」
 溜め息のような声も、苦笑も、強い風に飛ばされてしまったので、夏侯惇はただ肩を竦めるだけに留めた。

 


匈奴の子守唄

「ちょ―――せ―――ん」
 厚い垂れ幕を捲り、情けない声を出しながら穹廬に入ってきた張遼は明らかに酔っていた。ここ数日、いくらなんでも飲み過ぎだと思っていた貂蝉は相手へ見せつけるように大きなため息を吐く。
「お酒はほどほどに、それができないならしばらくのあいだ禁酒、と約束したばかりですよね?」
「ほどほどだろ……たぶん」
「言い切れないなら嘘など吐かないでください。それでは約束どおりしばらく禁酒ですね」
「やだぁー」
 子供のように駄々をこねながら貂蝉の寝台にごろりと寝転ぶ。張遼、と貂蝉が声をかけると、相手は猫のように丸くなりながら声だけ返した。
「寝れねぇんだよ」
「それで毎晩、深酒を?」
「酒飲んで酔ったら寝られると思って。まあ無いよりマシ程度だけど」
「呆れた。そういう時にはもっと身体を温めるものを飲むんですよ」
「……そうなの?」
 そうなのって、と寝台に腰掛けて張遼の顔を覗きこめば、相手は驚いたようにきょとんとしていた。シラを切るのではなく本当に知らなかったのだろう。
「そうですね、今夜はもう遅いですからこのまま寝てください。明日からは何か、温めた飲み物を用意させましょう」
 そう言いながら灯をいくつか落として、よいしょと張遼の横に潜り込む。大きくない寝台に男二人で寝るのは、窮屈ではあるがだいぶ暖かいはずだ。
 酒が回っている張遼の身体は、冷えてはいないが温まってもいない。芯から冷えたままだ。これでは寝つきも悪くなるだろうと思いながら貂蝉は、何か言いたげな顔をしている相手を厚手の毛布でぐるぐると乱暴に巻いてしまう。
 自分も鮮やかな刺繍の入った毛布を掛けて横になって、それからぽんぽんと、相手の丸い背を撫でながら小さく、懐かしい唄を歌ってやる。まるで寝付けずにぐずる子供を相手にしているようだとひとり笑えば、されるがままになっていた張遼が毛布の中でもぞりと動いた。
「それは、子守唄か?」
「ええ、よくある子守唄です、けど……もしかして北では違いました?」
「知らないなぁ。聞いたことがない」
 確かに南に来てから子守唄を聞く機会など彼にはなかっただろうと納得しかけて、いや、違う、と貂蝉はすぐに気がついた。彼が知らないのは子守唄そのものだ。聞いたことがないと言うのは、つまり彼が北にいた頃のことで。
 だから寝付けない夜にどうしたら良いのかなんて、彼は本当に知らないのだ。酒を飲んで酔えば確かに眠りに落ちることはできる。彼はそれしか知らないからそうしてきた。それだけのこと。
「初めて聞いたが――存外に心地いいものだな」
 子守唄というのは。そう言って、とろりと眠そうに目を閉じた張遼の背を変わらず撫でながら、そうですね、と貂蝉は笑って答えた。
「あなたが望むなら、いつでも歌って差し上げますよ」
「それは良いなぁ……」
 毛布に包まれた身体もすっかり温まったのだろう。薄暗闇の中で、小さく穏やかな寝息を立て始めた相手の無防備な顔を眺めながら、貂蝉は小さな声で歌い続けた。
 それは愛しい相手の、安らかな眠りを願う歌。

 

 

「いるんだろ、貂蝉」
 暗闇の中で張遼の声だけが響く。窓を開けてもいないのに動いた風が寝ている彼の頬を撫でて、どこからともなく応えが返ってきた。
『どうしてわかったのですか』
 こんな暗闇でなくても姿なんて見えないのに。不思議そうな声に、何もない闇を見つめたまま張遼は笑った。
「なんとなく、だけどな。お前が来ると思ったんだ」
『張遼、』
「なあ貂蝉、歌ってくれないか」
 いつかの子守唄を、いつかのように。二人が共にあった日々のように。
 遠い北の地にある、もう二度とは戻れないであろう故郷の唄は、張遼の耳に残るだけになってしまった。ここでは誰も歌わない。聞くこともない。だからこそ。
「歌が聞こえる間、見えなくてもお前がそこにいるんだろ」
『……はい』
 あの懐かしい日々に戻ることはできないけれど。それでも彼が望むのならば歌い続けよう。いつかその歌すらも忘れてしまう日が来るまで。
 望むならいつでも、と約束したのは自分なのに。