海賊と酒場
重い扉を押し開ければ、カランカランと小さなベルの音が店内に響く。
薄暗いカウンターのいつもの席に座ってそのまま黙っている眼帯姿の青年に、マスターはいつものグラスへいつもの酒を満たして差し出した。そして、隣の席にも同様に。
昔と何も変わらない、いつもどおりの流れに、けれど驚いたウィリーが顔を上げる。
「お前、見えるのか?」
「いいえ。でも、そこにいらっしゃるのでしょう?」
「確かにいるけど……なんでわかるんだ」
「ウィリー様の様子を見ていればわかります」
マスターがそう答えれば、隣の相手が何か言ったのだろう、「そんなことねぇよ」と少し不貞腐れながら、ウィリーが酒に口をつけた。
「天使、でしたか。どうしたら私にも見ることができるんですかね」
「死期が決まったヤツに見えるんだってさ」
「ああ、それなら。死ぬ前に会いに来てくれたら、最後にもう一度お会いすることができますね」
そう言って笑ったマスターの顔を見て、横をちらりと見たウィリーが相手の肩を軽く叩くような仕草をした。そんな様子を見ていれば、見えなくたって相手が誰かわからないはずがないのだ。
「って言うか、俺のことは聞かないの? なんで見えるのかって」
「昔、誰に聞いたか忘れましたが。片目になると『見えないはずのものが見えるようになる』そうですよ」
「なんだそれ、ほんとか?」
きょとんと目を丸くした様子は、片目分しか見えない。眼帯に覆われたウィリーの片目がどうして失われたのか、マスターも風の噂では聞いていた。だからこそ、そのことには特に触れずにそのまま話を続ける。
「本当かどうかは知りませんし迷信のようなものでしょうけど、万全には見えないからこそ別のものが見えやすくなる、というのはあるのかもしれませんね」
「ふーん?」
「あとはまあ、ウィリー様がそう簡単に死ぬとは思えませんし」
「まあな」
「生命力だけはしぶとい方ですので」
「言い方! お前も笑ってんなよ!」
あはは、と声を上げて楽しげに笑っているのだろう。その笑い声はマスターには聞こえない。けれども差し出した酒は減っているし、ウィリーも楽しそうに笑ったり話しかけたりしている。
――ただそれだけを得るために、彼らが何をしてきたのか。どうやってここまで二人で辿り着いたのか。相手が語れば耳を傾けるが、マスターから尋ねることはない。それが海賊を相手にする酒場のマスターを長く続ける極意だ。
「そうだマスター。あのさぁ、アイツらがいつも飲んでた酒、ある?」
「ありますよ」
「出して。俺とこいつで飲むから」
「タマルさんの分も?」
「あー、タマルのはいいや。アイツは生きてるから。な?」
ウィリーが隣人に同意を求める。求められた相手も同意したのだろう。よろしく、と言うような視線を向けられたマスターはかしこまりましたと答えて、二人分の酒を追加で用意する。
彼らは皆、ボトルをキープしていたわけではなかった。けれどいつも好んで頼むのはだいたい決まったものだったから、それらの在庫は切らさないようにしていたのだ。もうその必要はないのだと、マスターもわかってはいたのだけれど。
「こちらがダーヴィッツさんの、こちらがブレグマンさんの好まれていた酒です」
「これは?」
三つ目のグラスを指差したウィリーが、隣を見て首をかしげたのを確認して、マスターは笑ってみせた。
「これは、アイアデール様がお好きだった酒です」
「マジかよ……あのオッサンここに来てたのか」
「いえ、こちらに来たことはありません。私が勝手に、いつかのために用意していただけです」
その意図はたぶん、二人に通じたのだろう。いつかの日が来なかったからこそ、こうして今目の前に差し出したのだということも。
「……そっか。じゃあこれは、お前が飲んでくれ」
「私が?」
「ドラコにはダーヴィッツのやるよ。俺はこのブレグマンの……そういえばいつも気になってたけど、なんだこれ」
「ウォッカとドクターペッパーのカクテルです」
「なんだそれ!? あ、でも普通に飲めるぞこれ。え、待ってダーヴィッツの、そのなんか白いのは?」
「プロテインですね」
「そもそも酒じゃねぇ!」
白い液体で満たされているグラスがスススーとカウンターの上を滑り、飲まねぇよ! と答えたウィリーがそれを押し返そうとする。ではそれは私が飲みましょうとマスターが手に取れば、じゃあ俺はこっちだな、と先程マスターに渡したばかりの最後のグラスを手に取ったウィリーが、自分が持っていたグラスを隣人に渡した。
「しかし、あのオッサンが飲んでた酒なんか初めて知ったわ……。は? メフィストになっても飲んでた? ほんと、とんだ飲んだくれだなあのクソ親父」
そう言ってカラカラと笑ったウィリーと、マスターともう一人。三人で乾杯をする。
重なり合ったグラスの音が、酒場に小さく響いて消えた。
海賊と猫
副船長は動物にモテる。どこの港町にも必ず多くいる猫たちからも、何故だか知らないがモテモテである。そしてその日、挨拶に来ていたのは一匹の黒猫だった。
ウィリーとドラコの二人で個人的な買い物を終えて、ちょっと買い忘れたものがあるから先に戻ってて、と言ったのは船長の方だった。ベル・ミカエルの酒場のマスターに、この港に立ち寄るなら買って来て欲しいものがあると頼まれていたのを忘れていた。
別に忘れても彼は何も言わないだろう。けれど、いつもあれこれと世話になっている相手からの頼まれものだ。たまのおつかいくらいちゃんとこなさなければ。
そうして袋を一つ増やしたウィリーが宿に戻れば、その軒先の木樽に軽く腰かけているドラコの膝の上には黒猫が鎮座していた。
すらりとした体躯に、丁寧に磨かれたような艶々の毛並。首輪こそないが、あちこちで可愛がられている猫なのだろう。撫でるドラコの手に自らすり寄り、頭を押し付けて、ごろごろと喉を鳴らしている。
「ちょっと俺の副船長さん、港の若い子といちゃつき過ぎじゃないですかネー」
「妬くなよ。なぁ」
笑いながら黒猫の喉を撫でる。気持ちよさそうに顔を上げながらウィリーをちらりと見た猫は、フフンと鼻で笑うかのようにそのまま目を閉じた。ように船長には見えた。
「これがほんとの泥棒猫……」
「アホなこと言ってないで部屋にそれ置いて来いよ。さっき買ったのも、もうまとめてあるから」
割れ物ならちゃんと包んでおけよ、と釘まで刺されて、子供のように唇を尖らせつつも大人しく従う。頼まれていた瓶入りの食材はそこそこ値が張るものだったので、確かに割れてしまったら台無しだ。
「まーだ拗ねてんのか、船長」
テーブルランプの明りの下で、いつもの航海日誌にペンを走らせながらドラコが笑えば、そんなことないデースとベッドでごろごろと転がる船長が答える。
「俺が夕飯の時間だぞって呼びに行くまでずっと猫といちゃいちゃしてたからって別に拗ねたりなんかしてねぇし」
「説明ありがとう」
ペン先にインクを付け足す。それを半身を起こして覗き見て、まだまだ書き終わりそうにない様子を確認したウィリーは再びコテンとベッドに転がった。
「って言うか、お前なんでそんなに好かれるんだ? 俺が近づいたらあいつら逃げるんだけど」
「そりゃお前、『ねこだー!』って大声出して走り寄ったら猫じゃなくたって逃げるだろ」
「ドラコー! って駆け寄っても逃げないじゃん」
「いや、ちょっと逃げたいな、って思う時はあるぞ。お前もう少し加減しろよ」
「えー」
夕食後の酒がまだ少し残っているふわふわとした会話の合間に、ペン先が紙の上を走る音が混ざっている。風を入れるために開け放った窓から聞こえてくるのは一階の食堂で騒いでいる仲間たちの賑やかな声と、目の前の海から届く穏やかな波の音。
遠い岬の方から風に乗って鐘の音が聞こえてきて、ぱたんと日誌を閉じる音がそれに続いた。
「終わった?」
「終わった。さて、俺たちも飲み直すか」
「待ってました!」
ぴょーんとベッドから飛び起きたウィリーを眺めて笑いながらドラコはインク瓶の蓋を閉じ、引き出しに日誌を入れてしっかりと鍵を掛ける。それを大人しく見ていた船長と、肩を並べて部屋を出た。
海賊と朝
この船の航海士は腕がいい。
航海士の仕事はつまるところ、現在地の把握から始まる。自分たちの船は今、この大海原のどこに位置しているのか。近くに目立つ岬や灯台などがあればいいが、いつもそう都合が良いとは限らない。望遠鏡を覗いた遠い向こう側に何かが見えればいい方で、悪天候に見舞われればそれすらも見えなくなってしまう。
エリック・ダーヴィッツは広げた海図に現在地を記すのがとても速かった。判断の速さ、計算の速さ、なによりも自分たちを導く目印を見つけるその速さを持っている。
船の現在地から目的地までの航路を決めるために、机に広げた海図と方位磁石をじっと見比べている航海士が視線を動かすたびに、右目のモノクルが朝の陽の光を反射して地図上に小さな円を描く。
その日に焼けた端正な横顔をぼんやりと眺めながら「男前だなぁ」と呟いたのは副船長だった。
「今更かよ」
笑いながら、けれども顔を上げることはない。
そういうところなんだよなぁ、とドラコが笑えば、机の反対側からひょこりと船長が顔を出した。
「なぁなぁ俺は? 俺は?」
「ハイハイ、イケメン」
「イケメンイケメン」
「投げやり! もっとなんかあるだろー!?」
航海士と副船長による雑な答えに対して不服そうに声を上げる、その姿はまるで子供のようだ。黙っていれば悪くないのに、というか、戦闘中の彼はそれこそ見惚れるほどなのにと思いながらドラコは片手を口元に寄せて声を張った。
「よっ、ジョニーデップ!」
「むふー」
「それで満足するのかお前は」
「おう!」
苦笑しながら顔を上げたダーヴィッツが、甲板を走ってくる騒々しい足音に気が付いて眉をしかめながら丸めた海図を副船長へ渡す。
「ほら、船長が騒ぐからうるせぇのが来たぞ」
「俺はーーー!!????」
駆け寄ってきたブレグマンの額に、その勢いのまま手刀を落とす。いってぇ! と頭を抱えた相手を指さして、航海士は高らかに声を上げた。
「お前はオーパーツ!」
「なんだそれ」
「私はオーパーツ!」
「おい変なこと教えんな」
それでは話の趣旨が変わっているだろうと、騒がしい二人を笑いながら眺めているドラコの横に立ったウィリーがその袖を引いた。
「なあドラコ、オーパーツってなんだ?」
「out-of-place artifacts略してOOPARTSだ。技術や知識、工法的な問題から、発見された場所や時代にそぐわない出土品などを指す言葉」
「ふーん? つまりムー的な?」
「うん、その発言自体がオーパーツだな」
海賊と昔話
絶体絶命のピンチというやつは、実は何度でも起こるものだ。
今がまさにその時で、そしてウィリーはこれが何度目なのか覚えていない。だから両手足をきつく縛られ、全く身動きが取れない状態で船の舳先から海へと投げ入れられるその寸前だというのに、ケラケラと笑っている。
「親分、こいつ全然ビビってない……」
強がりですらないウィリーの平常と変わらぬ様子に、彼を捕えて優位な立場にあるはずの海賊たちが若干引いている。海賊なんてみんなイカれた連中だが、こいつはとびきり頭がおかしいのかもしれない。
「だって俺様、海賊団の船長だぜ? こんなピンチには必ず仲間が駆けつけるって相場が決まってるだろ。――でもちょっと遅いわダーリン」
「そう言うなってハニー」
男たちの頭上から、よく通る声が甲板に響く。
「何事だ!」
「親分、小舟から敵が! ウィリーの仲間だ!」
当然警戒はしていたが、船が小さすぎて近づいていることに気が付かなかった。風が強く、大波でも来たらすぐにでも転覆してしまうような手漕ぎの小舟だ。
「それなら大した人数じゃねぇだろ!」
「まあそうなんだけどね。でも、」
そう言って目を細めて笑ったウィリーの前で、髭面の大男が昏倒する。
接舷した小舟から、よじ登って乗り込んできたのはたったの三人。けれどもあっという間に決着はついてしまった。
「すげぇ強ぇんだぜ、俺の仲間」
「そういや、久しぶりに牢に入れられたからさー」
両手足の縄を解いてもらい、パンパンと服についた埃を叩いて払ったウィリーが、横に立つドラコの顔を見てニッと笑った。
「初めて会った時のことを思い出したわダーリン」
「懐かしい話だねハニー」
「まだそれ続けてるのかよお前ら」
「えー、なになに? なんの話?」
呆れた様子のダーヴィッツの肩を抱きながら会話に入ってきたブレグマンに、そうかお前は知らないのか、とドラコが答えた。
「ウィリーとは海賊船の牢で初めて顔を合わせたんだ。その時に仲間にならないかって誘われたんだよ」
「運命感じちゃったからな」
「状況は最悪だったけどな」
「ま、その話は船に帰ってからにしようぜ。下の小舟でタマルが待ってるからよ」
漕ぎ手が増えて良かったなーというダーヴィッツの言葉の意味を一瞬考えた船長は、ゲッと顔をしかめた。
「単騎で敵の船に突っ込んで、勝手に捕まって仲間に迷惑かけたんだ、頑張って漕いでもらうぞ船長」
「やだーーーー! 助けてダーリン!」
「がんばれハニー。お前ならできる大丈夫」
そもそも誰のせいだと思っているんだ、とでも言いたげな顔でため息を吐く副船長に、だって戦ってたら楽しくなっちゃって……と言い訳をする船長は昔から少しも変わらなかった。
*
後ろ手に縛られたまま、乱暴に放り込まれた薄暗い牢はひどく埃っぽく、そして意外なことに人の気配があった。
「まさか先客がいるとは思わなかった」
「俺も、追加の客が来るとは思わなかったぜ」
相手の顔に見覚えはなかったが、この状態でケラケラと笑えるのであれば善良な一般市民ではないだろう。もちろんそれは自分も同じなのだが、と上体を起こして座り込んだドラコに先客の男が低く声を掛ける。
「お前、なぜ殺されなかった」
「その言葉、そっくりそのまま返していいか? まあ、あれだ。ここで俺を殺すより生かした方が、明らかに利があると判断したからだろ」
「なるほどなぁ。うん、俺も同じ理由だ」
首を伸ばして見張りが既にいないことを確認した後、縛られた足でぴょんぴょんと跳ねるようにしてドラコに近づいた男が、お互いの鼻先が触れそうなほど顔を寄せた。
「俺と手を組まないか」
「手を組む、ねぇ」
「ここを出るにしても一人じゃさすがにしんどいし。あと、ちょうど仲間が欲しくて探してたんだ」
「仲間?」
「最後のお宝――パンドラを開けるのはこの俺様だ。そのための仲間」
お前もそのためにこの船に乗り込んだんだろうと、その目が笑っていた。
海賊船に、理由もなく単身で乗り込むようなバカが同時に二人もいるはずがない。もちろん、どちらもそれをするだけの理由があった。
「この船にはパンドラの在り処への航路だけを示す、『七鎖のコンパス』がある。お前もそれを知っているから乗り込んだ。そうだろう?」
富と名声を手にした海賊が最後に目指す、幻の宝・パンドラ。七鎖のコンパスだけではパンドラを手にすることはできないらしいが、それでも足掛かりとなる秘宝のひとつであり、その存在自体が一部の者にしか知られていない。
そんな秘宝をひとたび手にしたと知られれば、それだけで名だたる海賊たちが大挙して押し寄せてくることは明白だった。
「ここの船長は慎重な男で、入手した事実そのものを巧妙に隠していたはずだ。どこでそれを知った?」
「さっきのお前の台詞じゃないけど、その言葉そっくりそのまま返してやるよ。まあ、俺様が殺されなかった理由はまさにそれだったりするわけで。どうだ? 手を組むか?」
「……仲間になるかどうかは別として。確かに、現状では一時的にでも手を組んだ方が良さそうだな」
「よし、決まりだ。いや、お前は絶対に俺の仲間にするけどな!」
どこから来るのかわからない自信をたっぷりと含ませて、高らかに宣言した相手にドラコは思わず苦笑してしまう。
「それで? 何か策があるから俺に声をかけたんだろう?」
「策と言うよりは情報だなぁ。この船はそろそろ大海賊の船団に襲われるんだ」
「その隙をついて脱出?」
「この牢から出るタイミングが大事だな! そっちは任せた!」
「任せたってお前なぁ……」
それにしても、なぜそんな情報を持っているのだろうかこの男は。訝しげなドラコの様子に気がついたのか、まあ仲間になるなら先に言っておいた方がいいか、と男は器用に座り直す。
「俺の名はミカエル・ウィリー。ミカエル・ウィリー・アイアデールだ」
「まさか、アイアデール海賊団の、」
「そう、あの海の覇者を名乗るクソ親父、ピーター・アイアデールの一人息子さ」
かの海賊の王が息子を船に乗せているという話は聞いたがことがないが、それが事実であれば辻褄は合う。
確かにここで彼を殺してしまったら後が怖いし、彼が秘宝であるパンドラや七鎖のコンパスについて詳しく知っていることも、このあと船団が来るという情報を持っていることの説明もできる。
「アイアデールは既にこの船が七鎖のコンパスを手にしていることを知っているんだな」
「そういうこと。あんだけでっけぇ船団だと持ってる情報も多くてなぁ。時々、面白いことないかなーって聞きに行くことがあって」
「なるほど、盗み聞きしたのか」
「そうとも言う。で、お前は?」
名乗られたのだから名乗り返す。それは当然の流れだろう。そしてこの場で返さなければならないのは己の名前だけではない。
――自分は手の内を明かした。次はお前の番だ。
手を組むのだからお互いに最低限の誠意は見せよう、ということだろう。幸いドラコもウィリーと同じく、普段はめったに名乗ることのない本名をそのまま告げれば手の内を明かすことになる。
「ドラコ・リンスカム」
「あはは! リンスカム! パンドラを初めて開けた大海賊の名だ!」
だからパンドラのことも七鎖のコンパスのことも知っていたのか、とドラコの意図どおりウィリーは納得した様子だった。
「そもそも七鎖のコンパスはリンスカム家で保管されていたものだって?」
「そんなことまで知っているのか。一族に面倒ごとを呼び込む災厄として、だけどな」
「ふうん。家宝を取り戻しにきた、ってわけでもなさそうだな」
「まあ、その話はここを無事に脱出してからだ」
そちらは状況の説明というより個人的な私情を交えた話になる。ここを脱したあとで酒でも飲み交わしながら話そうと言えば、そういうことなら、とウィリーは楽しげに笑ってみせた。
「良い酒場を知ってる、そこで話そうぜ。とりあえず副船長、ここはどうする?」
「まだお前の船に乗ると決めたわけじゃないけどな。……そうだな、とりあえずこんなのはどうだ」
*
おそらく出会った最初から相性が良かったのだろう。計画の細部をドラコが考えてざっくりと伝える。ウィリーはそれを即座に理解して把握し、行動に移る。
「それで、どうやって脱出したんだ」
ぐーっと手を伸ばしてテーブルの中央にある大皿から肉の塊を取ったタマルの問いに、ああ、それなぁ、と自分の隣に座るウィリーのグラスへ酒を足しながらドラコが答えた。
「上の甲板が騒がしくなってきたなぁって頃合いで、ウィリーがこう、床に転がって」
「『痛てぇ! 死ぬ! 死んじまう!』」
「って大騒ぎしているのを聞きつけて今それどころじゃないって怒鳴りに来た下っ端に、でも今こいつが死んだらお前らが困るんじゃないかって言ってやって」
「慌てて扉を開けたところでぶん殴ったんだな」
ブレグマンの入れた合いの手に、そうそれ、とウィリーが笑う。あとは殴り倒した相手から奪ったナイフで拘束の縄を解き、予想どおりアイアデールの船に襲われて混戦状態になっている甲板から手際よくボートを奪って脱出した。
「あの時に七鎖のコンパスも奪えてたらなー」
船長が残念そうに言いながら酒を煽るので、ドラコとダーヴィッツが揃って苦笑を浮かべる。
「さすがにそんな余裕はなかったな」
「いくらタイミングよく混乱に乗じたとはいえ、その状態で無事に脱出できたなら十分だろ」
「でも、そんなことがあったからドラコはウィリーの船に乗ることになったのか」
タマルが納得した様子でうんうんと頷いている姿を見て、船長と副船長は仲良く同時に顔を見合わせた。
「船なかったけどな」
「船まだなかったなー」
「なかったんかい」
淡々と突っ込みを入れたダーヴィッツが航海士として来た時にはもう今の船があったので、その前に二人で、どこかで入手したということなのだろう。
「昔話をしていたら思い出したけど、そういえば俺、お前の船に乗るとは一度も言ってない気がする」
「ええー、なんかもう最初から決まったようなものだったじゃん。俺、絶対お前を仲間にするって先に宣言してたし。改めて言う必要とかあった?」
「ないか」
「ないだろ」
相変わらず謎の自信に溢れた様子で断言する船長に、そうだなぁと答えながら笑う。そんな副船長のどこかふわっとした様子を黙って眺めていたタマルは、ダーヴィッツに肩を寄せて小声で話しかけた。
「なあ、もしかしてドラコ酔ってる?」
「酔ってるなアレは」
「珍しい……」
普段であれば、どんなに強い酒を出されても平然と飲み干す男だ。確かに今日もそれなりの量を飲んではいるのだが。
「あいつなんでか時々、ウィリーの隣で飲んでるとふわっふわになるんだよな」
「あー……なんて言うんだっけ、こういうの」
「犬も食わない」
「それだ。いやそれか?」
それでいいのだろうか、と首を傾げているタマルに深く考えない方がいいぞと言い添えた航海士は、そういえば、と左右を見る。
「やけに静かだが、ブレグマンはどうした」
「さっきからあそこで寝てるよ」
そう言ってタマルが背後を指さす。そちらに視線を向ければ、床に丸くなってすやすやと満足げに寝ている仲間の姿があった。食べて飲んだら眠くなったのだろう。けれども寝るために部屋を移動するのは面倒だったのだろう。だからその場で寝た。
「自由だなぁ」
しみじみと呟いたダーヴィッツの声を拾ったらしい船長が、ケラケラと笑いながらグラスを掲げた。
「そりゃ海賊だからな!」
「そう言うお前が一番自由だよ」
どこまでも楽しそうな船長と呆れた様子の航海士の声をふわふわとした気持ちで聞きながら、ああそうだ、とドラコは思い出す。
自由になりたかったから海賊になったのだ。
海賊と仮眠
深い海の底から浮かび上がるように。意識が戻ってくるその瞬間に。
嫌な夢を見ていた気がする。懸命に泳いでいるのにいつまでも岸に辿り着けないような、焦りと不安がない交ぜになった、そんな夢だ。
内容なんて覚えてないし、筋の通ったストーリーなど最初からなかったのだろう。ただただ不快感だけを残して目覚めれば額には脂汗が滲み、胸の上は妙に重かった。
「重い……?」
今は港に停泊中で、けれども船を降りるにはあまりにも眠すぎて。徹夜明けでぼんやりとしたまま適当に並べた木箱に寝転んで仮眠を取っていたはずだ。やけにあたたかいけれど毛布にしては重すぎる、胸の上に乗っかったそれを見てドラコはため息を吐いた。
「何だこれ」
「何って俺らの船長」
いつの間にか横に立っていたダーヴィッツの言葉に「見ればわかる」と答えて起き上がろうとするが、体勢が悪いのかまったく動けない。そんなドラコを枕にして気持ちよさそうに寝ているのは、確かに船長のウィリーだった。
「見てないで助けろダーヴィッツ」
「いや、お前ももう少し寝ておけ。昨夜の嵐で全然寝てないだろ」
「それはお前も……! 同じだろ……!」
「がんばるねぇ」
じたばたと暴れる副船長を眺めながら笑った航海士は、じゃあ俺は買い出しに行ってくるからと甲板に上がってしまう。
「ええー……」
立ち去る背中に助けを求めて、伸ばした手をぱたぱたさせるが戻ってくる様子はなかった。人を布団にして、やけに健やかな寝息を立てている船長も全く起きそうにない。
仕方がない、と諦めてそのぼさぼさの頭を撫でて。そうして寝息に誘われるようにして再び眠りに落ちる。
それから夜まで、夢はもう見なかった。
海賊と赤ん坊
ちょうど寝たところですよと言いながら笑った乳母が部屋を出て行く、そのタイミングを見計らったかのように、赤ん坊が泣き出した。
今この部屋には自分一人しかいない。だから仕方がない。火がついたように泣きじゃくる赤子を、そーっとゆっくりと揺り籠から抱き上げる。
少しでも力を込めれば潰れてしまいそうなほど、ふにゃふにゃと柔らかく、驚くほど小さく、けれどもずっしりと重いそれはとても熱かった。こんなに小さな身体のどこから声を出しているのだろうかと思うほど大きな泣き声に閉口しながら、泣き止んでくれーと頼みながらゆらゆらと揺らしてみる。
赤子の扱い方など知らない。あやし方など考えたこともない。見よう見まねで揺らしたり適当でデタラメな歌を歌ったりしているうちに、ふぇ、ふぇ、と泣き声も小さくなってくる。
「おうおう、良い子だなァ」
ようやく泣き止んだ幼子が大きな目で恐れることなく、じっと自分を見ていることに気がついて思わず苦笑を浮かべてしまった。確かに自分は泣く子も黙る大海賊だ。しかしそれは、決してこういう意味ではないと思うのだが。
まあいいか、と笑いながらしばらく赤子のやわらかな鼻先を軽く突いたり、真白い産着の裾で濡れた頰を拭ってやる。
あうあうと何か言っているこの幼子もやがて大きくなり、いつか船に乗るのだろう。知らないことを知るために、まだ見ぬ何かと出会う、その日のために。
「世界はまだ、こんなにも面白いからな」
仲間たちと共に、帆を張って海に出る。父親である自分と同じように、海原を駆けながら生きていく。
「だからなぁ、いつまでも泣いていたらもったいないぞ。……なんつってな」
*
海賊旗を高らかに掲げ、騒がしく賑やかに遠ざかって行くドン・ジョバンニの船を、ドラコは誰もいない船の甲板で一人眺めていた。
天使だけが残った無人の船など幽霊船のようなものだ。しかしこれからどうしようかと、傷だらけの帆柱に背中を預けたまま、ぼんやりと思案していた彼に声を掛けるものがいた。
「よぉ、相棒。いや、元相棒か」
「……ピーター・アイアデール」
最初に会った時のような驚きはなく、なんでお前がいるんだとため息を吐けば、そう邪険にするなよと男が笑った。そして目の前でひらひらと黒い羽根を振ってみせる。
「こいつをお前に返して来いって言われたんでな」
「堕天使の羽根、か」
そういえばすっかり忘れていた。あのアイアデールが使い走りとは、と思いながらドラコが羽根に手を伸ばせば、しかし受け取る前にひょいと頭上高く掲げられてしまった。身長差のせいでまったく届かない。
「おい」
「ついでだから、お前に聞きたいことがあるんだよ。ちょっとくらい良いだろォ?」
お互いとっくに生を終えた身の上、時間はいくらでもある。特に断る理由もない。
「何だ」
「バカ息子は、メフィストだったお前に何を願った」
あいつのことだから、どうせくだらないことだろうと付け加えた男に、ドラコは小さく笑ってみせた。
いつかの懐かしい声が耳に蘇る。仲間に裏切られ、殺されて。そしてメフィストとして再び彼とめぐり逢えた時。堕天使の説明を聞いて、その上で願いを問われた彼は珍しく考えるように少し黙ったあと、ドラコに尋ねたのだ。
――パンドラとはなんだと思う、と。
「ウィリーは、俺の願いで良いと言った」
「ほう。それで、お前の願いとは」
「お前に言う義理はないだろ……いや、あるのか?」
「あるだろうが。俺はお前らのその願いのために二度も殺されたんだぞコノヤロウ」
正確に言えば、一度目に彼を殺したのはウィリーたちではなかったのだが、その原因となったことは確かなので殺された側の言い分としては間違っていないのかもしれない。
しかしこれは、彼にも誰にも言わずにドラコが一人で抱えてきた願いだ。今までも、そしてこの先もそれを言葉にするつもりはない。すべて終わった話だとしても、だ。
「俺はウィリーと仲間たちを愛していた。それだけだ」
退屈な世界の、その終わりではなく。退屈に見えてしまった世界だからこそ、それを変える未来を。
愛した仲間たちと笑いながら、光に向かうその姿を。
ただそれだけをドラコは願った。信じたこともない神に祈るように。
パンドラへ願うように。
「おいおい、ってことはアレか? お前らは最初から契約が成り立っていなかった、ってことだな?」
「俺が自分と引き換えにあいつの死を望むわけがない。あいつが死ぬくらいなら俺が消える。そういうつもりで全部明かしたら、そういうことになった」
「はぁーーーーーーなんだ、息子の惚気を聞かされた気分だな」
「お義父さんとでも呼んだ方が良かったか?」
「やめてくれ。バカ息子は一人でもう十分だ」
けれども、ああ、なるほどそうか。と男は納得する。
あの時、偽のパンドラの前で。ジョバンニたちの鼻を明かしたウィリーの隣で笑う天使の笑顔は、短い間とはいえ付かず離れず側にいたというのに一度も見たことがないものだった。
裏表もなく心からの歓びに満ちた、屈託のない笑顔。
あれはウィリーの隣だからこそ、彼の隣でなければ見せることのない表情なのだろう。そしてあの場でそれを見ることができたのは死の淵にいるアイアデールだけだった。
「……まあ、なんだ。お前のことはまったくわからんと思っていたが何のことはない。お前が一番大事なものを俺様に隠していたってだけのことか」
「他でもないお前に明かすわけにはいかないからな」
「そりゃそうだ」
本当に、最初からこの男がいれば退屈しなかっただろう。面白い男だ。けれども彼のすべては最後まで、ただひとりの男のためだけにあった。
そうしてすべてを成し遂げた天使は、初めて遭遇した時と同じように、独りでアイアデールの前にいる。
「お前のような奴がいる。海は広いし、世界はまだこんなにも面白い。いつまでも泣いてる暇なんてないぞ、天使ちゃん」
「泣いてなどいない。さっさと行け」
「そう言うなって、元相棒。お前らと違って俺様は、これで本当に『おしまい』なんだからよォ」
海の王の亡霊は、そう言ってあっさりと姿を消した。最初に会った時に感じた、苛立ちや未練など嘘のようなあっけなさで。
泣いている暇などない。そんなことは言われなくてもわかっている。けれども一人では、ここからどこへも行くことができない。歩き出すことができない。
それでも何故か終わりが来ないのだから、仕方がない、と。諦めたように苦笑を浮かべたドラコは、帆柱に掛けた梯子を登り始めた。
ここからどこかへ行くために、この広い海を見渡せる高い場所へ。そこでなら、もしかしたら『何か』を見つけられるかもしれないから。
しっかりと掴み、踏みしめて梯子を登る、その最中に背後で音がした。今度は何かと思いながら振り返った天使は、今度こそ本当に驚いて両目を見開いた。
海賊と天使
勝手に愛した。勝手に傷ついた。
だから何もかも手離した。そして再びめぐり逢えた。
この広い世界の、海賊たちが暴れまわる海の上で。
「お前とまた出逢えたことが、今の俺のすべてだ」
「なんだ、天使にそんなことを言われるとまるで俺が神さまみたいだな」
「そうだな。……ああ、そうかもしれない」
天使の願いを叶えることができる、ただひとりの男。
世界はまだこんなに面白くて、だから確かに、いつまでも泣いていたらもったいない。そして二人が一緒であるならば、この大海原のどこまでだって行くことができるのだから。
「さあ、どこへ行こうか」