沈丁花の月夜に sample

本文サンプル

三成×左近。皇三成アニメ√
家康の豊臣離反後、半兵衛から沈丁花の話を聞いた左近と三成の話。

2016.03.13発行 詳細:紫雨文庫・BOOKS


 

一、

 満月の光に照らされた薄闇にふわりと、甘い香りが漂う。
 香りに誘われるようにして寝間着のまま、中庭に面した回廊を歩けばその正体はすぐに知れた。春先のまだ冷たい風に揺れるのは、外側にじわりと赤みが差した、白い花弁の集まった鞠のような花。
 そして、その花の垣根を平服のまま、ぼんやりと眺めている人影がひとつ。
「こんな夜更けにこんな場所で君に会うとはね、左近君」
「あ、半兵衛様!」
 片膝を着こうとした相手を制止した半兵衛は、自分も中庭に降り立つ。足裏に感じるひんやりとした土の感触と、頬に当たる冷たい風が妙に心地よかった。また少し熱があるのかもしれないと、思わず顰めた眉を見て相手は別の意味に捉えたらしい。
「あ、あの、勝手に城内を出歩いてすみません……」
「ああ、それは構わないよ。でも不審者扱いされないように次からは気をつけるように」
 城主の寝所に近い中庭だ。警備は他よりも強固であるはずなのに、どうやってその目を掻い潜ったのやら。しかも彼の反応から察するに、ここが何処なのか半兵衛の顔を見て初めて理解した様子である。何か特に目的があったわけでもなさそうだ。
「君もこの、沈丁花の香りに誘われたのかな」
 ふふっと笑って見せれば、じんちょうげ、と子供のように鸚鵡返す。
「沈香に丁子の花と書いて沈丁花。この季節に咲く花だよ」
「沈香って、めっちゃいいにおいの木、でしたっけ」
「そう。香りが特徴的だから、大陸ではその香りで眠りに誘われた僧の故事から瑞香とも睡香とも呼ばれている」
「眠りに誘う……」
 なんだか幼子にものを教えている気分になって、半兵衛は思わず苦笑を浮かべてしまう。そういえばこの話は、遠い昔、まだ幼かった彼の主に教えたことがあったかもしれない。
「同じ花なのに、名前がたくさんあって不思議っすね」
「不思議なものかい。君だって過去に呼ばれていた別の名があるだろう?」
「あ、やっぱり知ってますか」
 もののついでと指摘すれば、相手は悪びれもせずにけろりと応える。そのふてぶてしさは決して不快なものではなかった。そもそも彼は過去のことを少しも隠そうとしていないのだから、探ればすぐに知れることである。
「当然、君を豊臣の傘下に加えるにあたって調べさせてもらったよ。でも、言い方は悪いかも知れないけれど、君の過去なんて僕にとってはどうだっていいんだ」
 あまりにも無視できない問題ごとでもあれば別だが、彼の過去は――彼自身はひどく後悔しているのであろう出来事は、半兵衛にとってさほど問題にならない。
「それよりも今の君が三成君にとって、豊臣にとって有益であるかどうかの方が大事だからね」
「えーっと、じゃあ、追い出されてないってことは一応合格ってことで?」
「及第点はあげるけど、ってところかな」
「精進します……」
 実戦力という意味では、彼はまだまだこれからだろう。力を重視する豊臣軍の中にあって、軽業師のように軽快に戦場を飛び回り、なにより主である三成に対して親しく接する彼の存在は異質だった。
 けれど、そんな彼だからこそ、今の豊臣に必要なのではないかと。半兵衛は密かに思っている。
「君が豊臣のために働く限りにおいて、僕はなにも言うつもりはないよ」
「三成さまのためっす」
 月明かりの薄闇の中でも爛々と輝く、曇りひとつない目玉が二つ、まっすぐに半兵衛を見つめている。
 彼は本当に、心からそう思っているのだろう。そこには裏表も、含むものもなにもない。ただ言葉どおりの意味しか持たない。
 だからこそ半兵衛は小さく微笑んで見せた。
「それは結果的に秀吉のためになるだろう?」
「はい!」
 三成は秀吉のために生きている。左近はそんな三成の生き方に憧れてついて来たのだという。
 失ったものへの後悔の念を捨てきれず、あてもなく彷徨っていたのであろう彼の目に、ただひとつの光を脇目も振らずに見つめ続ける三成の姿はどれほど眩しく映っただろうか。

 愚直とも言える三成の在り方を、まっすぐに肯定したのは左近が初めてだろう。少なくとも半兵衛は他に知らない。
「そんな左近君だからかな。戦場にあってもじゃれつくように構われに行く彼を、三成君はさほど邪険に扱わない」
 名を呼ぶ声に応えるし、問われれば答える。その表情は不思議と穏やかだ。そのことには秀吉も気がついていたようで、いつものように城下を眺めながら半兵衛の言葉に頷く。
 戦場にある時の三成など抜き身の刀のようなものだと半兵衛は思っていたし、そんな三成に幼い頃から慣れている刑部以外は声を掛けるのも憚られる存在であったはずだ。
 彼の同僚であるはずの豊臣の将たちだけでなく、彼の直属の配下である石田の兵であっても、報告などの必要でもなければ彼に近づこうとしない。彼の身辺はいつも静かだった。
 そんな三成の隣に立ち続けようとしていた、家康という例外も過去にはあったのだが。
 そのような状況が、左近が来てから少しずつ変わっていった。彼につられるように、まずは石田軍の兵たちがよく三成に話しかけるようになっている。
「秀吉から与えられるだけではなく自分でも配下を選ぶようになったのだから、豊臣の将たることを意識するようにと忠告したのも効いたのかもしれないね。以前よりも兵たちのことを気にかける様子も見られるようになった」
 その姿を見てそれまでの認識を改めたのか。豊臣の将たちも三成の実力を認めるようになりつつある。
 もちろんそれまでも、武人としての三成の実力は誰の目にも明らかであった。戦場での戦功の数もいつだって抜きん出ている。けれど兵卒を率いる一人の将として認められるかどうかはまた別の話。
 左近が来たことによって全てが少しずつ、良い方向へと向かっているように感じられる。そしてその左近を連れて来たのは他でもない、三成自身だ。
 三成のその変化は、半兵衛や秀吉のように端から見ているからわかること。その契機となった左近自身は、自分が三成やその周辺に影響を及ぼしていることなど、恐らく微塵も気がついていないのだろう。
「しかし、皮肉なものだな」
「家康君のこと、かな」
 以前の三成に対して、そのままではダメだと投げかけ続けていた家康がいなくなって。けれどその三成に光を見た左近によって、状況は変化している。
 豊臣を出て行った彼はこの状況を知って、何を思うのだろうか。

 僅かに欠けた月が浮かぶ次の夜も、左近は同じ花の前に、同じようにぼんやりと佇んでいた。
 この城内に彼の寝場所が用意されていないわけではない。それではなぜこんな時間に出歩いているのだろうかと考えて、そういえば、と半兵衛は数日前の彼ら主従のやり取りを思い出した。
「貴様の博打狂いはどうしようもないが、せめて賭場に行くことくらいは自身に禁じてみせろ――だったかな?」
 三成の口調を真似てみせれば、相手はしゅんと項垂れる。まるで叱られた犬のようだ。
「その花はどんなに眺めても、君と博打をしないと思うけれどね」
「半兵衛様が昨夜、眠りに誘う香りだって言っ……仰っていたのを思い出したんで」
「確かに言ったけれど」
 ということは、つまり。
「実は、夜中に布団で寝るってのがどうにも苦手で」
「今まではどうしていたの」
「騒がしい場所とか、人の気配を感じられる場所なら寝られるんで。戦場とか賭場とかなら大丈夫っす」
 彼が三成の配下になってからしばらくは戦続きで、新入りである彼もさっそく戦場で、昼夜を問わず飛び回っていた。戦がない間は、そして三成に出会うまでは賭場や酒場に夜通し入り浸っていたのだという。
「三成君にその話は?」
「まだしてないっす。ってか、こんな個人的なこと……」
「休むべき時に休むことも、豊臣の臣下として大事な仕事だよ。明日きちんと三成君に話すように。今夜はとりあえず、僕が付き合ってあげよう」
 眠れないのは、どうせ自分も同じなのだ。半兵衛は縁側に腰掛けて、こちらへ座りなさいと言うように隣をぽんぽんと叩いた。半兵衛の言葉に戸惑いながらも、結局は大人しく従って隣に腰掛けた左近の視線を、そっと花へと向ける。
「花の香りで眠りに誘われた僧の故事から、沈丁花は大陸で瑞香とも睡香とも呼ばれている、という話を昨夜はしたのだったね」
 ならば今夜はその話をしようか、と。半兵衛は遠い記憶を紐解いた。

 昔、ある旅の僧が廬山を登っていると、なんともいい香りがしてつい道端で眠ってしまった。その夢の中で強い香りを放つ花を見て、目を覚ました僧は香りの出どころを探し出し、夢で見たものと同じ花を見つけて睡香と名をつけた。
 それからしばらく後、山を降りた僧からその花の話を聞いた人々が廬山に登ると、月日が経っているにもかかわらず花の香りがまだ残っていた。これは縁起が良い、吉兆の験しだろうと、人々はその花を瑞香と呼ぶことにした。

 本来はもう少し違った形の話であったのかもしれない。人々の間で語り伝えていくうちに少しずつ変化して、なんだか不思議な話になってしまったのだろう。
 けれどこの話を元にして、花が枯れても香りが残る沈丁花には『永遠』の意味が込められているという。
 だから半兵衛は、この花があまり好きではなかった。
「いくら香りが長く残るからといって、短い花の命を永遠に例えるなんて」
 それをどうしようもなく、心から欲してやまない人間がいるというのに。
 思わず零れた半兵衛の本音は、しかし隣にいた青年には聞こえていなかったようだ。そのことに少し安堵するとともに、よほど寝不足であったのだろう、うつらうつらと船を漕いでいる左近の肩を叩く。
「眠くなったならそのまま寝所に戻りなさい」
「あ、はい……付き合ってくれて、ありがとうございます」
 すっかり重くなってしまった両の瞼を持ち上げるために、ふにゃっと顔をしかめた左近はそのままぼんやりと、不思議そうに首を傾げた。
「でも、半兵衛様。僧はなんで目を覚ましたんだろ」
「どういうこと?」
「僧は夢の中でも花を見つけていたわけで。目を覚まして、もう一回花を探す必要なんてあったのかなって」
 香りに誘われて眠ってしまったことよりも、そのことの方が気になったらしい。それは自分で考えてみたらいいと笑って送り返し、一人になった半兵衛は腕を組んで花を見つめた。
 甘い芳香を放つ花の夢に微睡み続けることなく、僧は目を覚ましてその花の在り処を探した。
「夢で見た花と同じ花が見つかる保証なんて、どこにもなかったのにね」
 まるでひとつの賭けのようだ。たとえば自分がその僧であったなら、夢から目覚めて探すことを選んだだろうか。そんな博打のようなことを選ぶだろうか。
 彼なら、彼らならどうするのだろうか、と。

 

二、

「左近がいない、だと?」
 左近が黙って姿を消すのは、かつてはそう珍しいことではなかった。けれど三成がこの佐和山に城と領地を賜った後はあれほど熱心であった鉄火場通いもやめて、三成の声が届く場所にいることが多い。
 とは言え博打そのものをやめるつもりは微塵もないようで、城内で他の兵たちと賭け事を行い、騒ぎを聞きつけた三成に叱られるというのがこの佐和山の日常と化している。
 そんな左近が、どこにもいない。その名を呼んでも応える声がない。大したことではないだろうと左近の不在を三成に告げた刑部は思っていたのだが、三成には到底無視できるはずもない事態だった。
 ――あの日。家康もそうやって、誰にも何も告げずに豊臣を出て行った。
 それは三成にとって、心の深い場所に刻まれた傷として、未だ生々しく残っている。左近が三成の側を離れなくなったのは、それを配慮してのことだと刑部は思っていたのだが。
 だからこそ制止の声も聞かずに、佐和山の城を飛び出した三成の背を見送った刑部はひとつ、賭けをすることにした。首にしてでも連れ帰るとまで言った三成が、どのような形で左近を連れ帰るかでこの先の行方を決めようと。
 家康が出ていったと分かった時、すでに手遅れであったとはいえ三成は追いかけなかった。追いかけることができなかったその過去があるからこそ、左近の帰りを大人しく待つことはできなかったのだろう。
「ぬしは化けた」
 左近との出会いによって。家康との離別によって。積み重ねてきた過去の、その上で変化した。彼自身がそれを受け入れることは、もう少し先のことになりそうではあるけれど。
「化け損ねるは、わればかりよ」
 それもそろそろ潮時なのだろうか。やれやれと溜息を吐いた刑部はゆらりと輿を浮かべ、伝令の兵を呼び寄せた。

<続>