天の下に降る雪は sample

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稲葉江×笹貫
笹貫と稲葉江たちの部隊が送り込まれたのは、徳川家から朝廷軍に江戸城が引き渡された直後。
ひとときの安堵の中で次の火種が燻る江戸の町だった。
2023.02.28発行 詳細:紫雨文庫・BOOKS


 

一、

 顕現する刀の増加と共に増改築を繰り返した本丸は、途方もない広さになっている上に各自の部屋が点在している。
「それで、新入りにはとりあえず空き部屋へ入ってもらっただろう? だから年末の準備を始める前のこの時期に、全員に希望を聞いて回っているんだ」
 とりまとめ用の控え帳を手にして説明する歌仙兼定の言葉に、短く問いを返したのはこの部屋の主である稲葉江だった。
「希望?」
「同じ刀派で並びの部屋にしたいとか、君の身内の話だと畑への出入りがしやすい部屋が良いとか。新年に合わせて気分転換に部屋を変えたい、という希望も時々あるけれど、まあ色々さ」
 少しずつ増えていく仲間に対してその都度対応するのではなく、年に一度、決まった時期にまとめて部屋替えを行う。年末の準備と並行することで、荷物の移動と同時に大掃除も済ませてしまおうということだろう。
「そうか。希望がなければ現状で良いのだな」
「もちろん。……君のところの五月雨江と村雲江のように、誰かと同室という希望も受けているけれど」
「今のところは必要ない。我ら江は『れっすんるーむ』とやらも与えられている。集まる場に不自由していない」
「まあ、そうだね」
 なんとなく歯切れの悪い様子の歌仙に、特に言及しないのはわざとなのか気づいていないからなのか。いつもと変わらぬ稲葉の表情からは何も読み取ることができないまま、それじゃあ、と歌仙は目線を少し横へと移動させる。
「笹貫は?」
「オレも今のままでいーよ。裏口が近いから海に出やすいし」
「ああ、確かに表玄関からだと遠くなってしまうからね」
 彼らしい理由に納得して頷く。稲葉江と笹貫の名前の下にそれぞれ『希望無し』と書きつけた歌仙は顔を上げて、笹貫の手元を覗き込んだ。
「器用なものだね」
「でしょー」
 机に向かっている笹貫が手にしていたのは小さな筆、それから稲葉江の長い指だった。形の良い爪先のひとつひとつに、黒橡の色を丁寧に乗せている。
「いつも見てたらやってみたくなったから、やらせてもらってんの」
 どうして君が、と歌仙の顔に書いてあったのだろう。笑いながら答えた笹貫は筆を動かす手を止めないまま、そっと目を細めた。
「部屋の話。オレは『帰る刀』だからさ。帰るべき本丸に自分のための部屋がある、ってだけで嬉しいから、部屋自体は本丸のどこでもいいんだけど」
 顕現したての時も同じことを言って隣にある自分の部屋に入った。それから時を経て、ひとつ変化した点がある。
「今は稲葉の隣だと楽しいかな」
「なるほど」
 希望無しではなく現状維持希望。そう二人の名の下に書き加え、邪魔したね、と立ち上がった歌仙はもうひとつ用事があることを思い出した。
「そうだ、稲葉江。今夜から景趣を冬のものに変えるという話は聞いているかい?」
「今朝早くに、篭手切が冬支度の装備を大量に運んで来た」
「ああ、篭手切江が準備したなら安心だ。大丈夫だとは思うけれど、初めての冬だからね。もしも足りないようなら追加の毛布もあるから、いつでも声を掛けてくれ」
「承知した」
「笹貫は?」
「オレも琉球の連中が持って来てくれたよ。もこもこになってた」
「すっかり冬の風物詩だねぇ」
「毎年のことなんだあれ」
「あまりにも寒そうにしているから、周囲がどんどん着せていくんだ」
 着ぶくれてころころと丸くなっている三人組を思い出して、歌仙は口元を綻ばせる。二人の話を聞き流しながら爪先の仕上がりを眺めていた稲葉江は、顔を上げてその名を呼んだ。
「歌仙兼定」
「なんだい?」
「篭手切がこの本丸に来たばかりの頃、そうやってあれこれと気にかけてくれたのは歌仙だと聞いた」
「その頃はまだ、他の江の者も来ていなかったからね」
「主を同じくする篭手切だけでなく我のことも含めて、ことさら気にかけているように見えるのは我らが稲葉家にゆかりある刀だからか」
 稲葉江の名は、その持ち主であった稲葉重通、道通の父子に由来する。重通の婿養子、稲葉正成と春日局の間に生まれた正利が細川家預かりとなって篭手切江が両家を行き来するようになった頃、細川家は歌仙兼定の持ち主である忠興の息子・忠利の時代であり、稲葉江は結城秀康の後継で松平に姓を戻した越前松平家の所有となっていた。
「まあ、細川の刀としてはね。もちろん君が稲葉家を出た後の話だということも、僕自身が直接関係しているわけでないことも承知しているよ。それでも無意識に動いてしまう」
 迷惑であれば言って欲しいと歌仙は苦笑を浮かべた。お節介であることは自覚しているらしい。
「篭手切はともかく……いや、心遣い感謝する」
 家と家との関係が、歴史の流れの中にあるものならば。『家の刀』であった自分たちもまた確かに、その歴史の流れの中にいる。

 するりと褥から抜け出した共寝の相手が、廊下に出る気配で稲葉江は目を覚ました。
 隣の自室に戻るのかと思えばそうではなく、足音も聞こえてこない。部屋の前、裏庭に面した廊下でただじっと立っているのだろうか。
 そのうち戻って来るだろうと寝直そうとして、しかしいつまでも動く様子のない相手のことがどうしても気になってしまう。仕方ないと諦めてため息を吐き、分厚い綿入りの袢纏を手にして部屋を出た。
 肌を突き刺すように冷たい夜風はそれほど強くない。いつの間にか降り出していた雪が、ゆっくりと裏庭の暗い地面を染めている。板張りの廊下に立ち尽くす笹貫は、白い息を立ち昇らせながらそれを眺めていた。
 雪の降り積もる音が聞こえそうなほどに、静かな夜だった。その静寂を、敢えて破るようにして稲葉は声をかける。
「いつまでそうしているつもりだ」
「だってほら、雪がこんなに」
 そう言いながら笑みを作ろうとした相手の顔面に袢纏を押し付ける。うわっと小さく声を上げつつ受け取った笹貫の、その指先はすっかり真っ赤になっていた。
 この身を得てから初めて目にする雪。そういう意味では確かに稲葉江も興味はある。しかしこんな冷える夜中に、いつまでも真剣に眺めるほどのものではなかった。
「薩摩にも、その後に在った場所にも雪は降っただろう」
「うん。毎年ではないけど」
「物珍しいというわけでもない筈だ。先ほどから何故そんなにも熱心に眺めている」
 渡された袢纏を肩に掛けて再び庭へと視線を向けていた笹貫は、そのまま稲葉の問いに答える。
「薩摩の、樺山家にいた頃。オレは晴れの日にしか出されない刀だったからさ。そういえばどんな雪だったのかなぁって思って」
「どんな?」
「大西郷の出陣の日。薩摩では六十年ぶりの大雪だった」
 薩摩の大西郷。大雪の中の出陣。それが何を意味するのか、稲葉江もすぐに思い当たった。
「西南の役、か」
 南国では珍しい大雪の中での出陣は、その結末の悲劇性も相まって民衆に好まれ、錦絵も多く作られた。そのいくつかを稲葉江も見た記憶がある。
「あれは薩摩の、同郷の者同士のいくさでもあったから。戦いのあと、二度と故郷に帰らないと誓った男たちがたくさんいた。周りに何を言われたところで帰ろうと思えば帰れただろうに。どうしてだろうってずっと不思議に思ってた」
 人である彼らには、帰るための手足があるのに。
「自分が一度決めたことに対する意地というか。強情なんだよね。頑固者。オレよりも稲葉の方が、よほど気持ちがわかるんじゃない?」
「どうだろうな」
 ――武士が生まれ、武士の世が終わるまでの凡そ千年。薩摩の地で刀を打ち続けた波平の祖、行平の太刀。
 その行平の太刀である笹貫を、薩摩島津に連なる樺山家が宝刀として伝えてきたこと自体は何も不思議ではない。どのような伝承や逸話があろうとも、彼が家宝として大切にされてきた刀であることは残された文献でも明らかである。
 何より、降り続ける雪を眺めながら語る声は穏やかで。その優しい声色を耳にすれば、薩摩の者たちにとって彼がどのような存在であったのか稲葉にもわかるような気がした。
 ──たとえ帰ることが叶わないとしても。帰らないことを自ら選んだとしても。
 帰りたい、帰ってきて欲しいという、誰かの願い。祈り。
 それは、稲葉が伝え聞いてきた薩摩の武勇とは少し違っていた。けれどきっと、伝聞とはそんなもので。
「そういえば薩摩に雪が降ること、よく知ってたね」
「かつての主が聞いた」
「へぇ。誰に?」
「天璋院だ」
「……、島津の姫様?」
 予想外の名前が出てきたことに一瞬、声を詰まらせた笹貫が目を丸くする。いったいどこで接点があったのだろうかと考えている横で稲葉は顔を上げ、庇の向こうに視線を向けた。
「西南の役、明治十年で六十年ぶりの大雪だったということは、薩摩の雪を語った天璋院自身が故郷に積もる雪を見ることはなかったのだな」
「そういうことになるか。――彼女も、薩摩には一度も帰らなかったから」
 いつかの日に誰かに語られた、懐かしい故郷の、見たこともない景色の話。どんな心でそれを語ったのだろうかと目を細めた笹貫は、けれどもそれ以上は何も言わなかった。
 ただ、降り続ける雪を見て彼らのことを思う。
「積もるかな?」
「この降り方であれば、明朝はそれなりに積もるだろう」
「ほんと? 雪遊びしよ? 雪合戦したい」
 やったことないんだよね、と目を輝かせた笹貫の腕を振り払った稲葉は、盛大にため息を吐いた。
「我を巻き込むな。大人しく雪うさぎでも作っていろ」
「提案がかわいいんだよなぁ……」
 小声で、しみじみと呟いてしまう。雪に慣れていない身を配慮した結果の雪うさぎだろう。まあ初めての雪遊びだし、そのあたりから始めるのもありかなと笑う笹貫の顔を、稲葉が訝しげな様子で見降ろす。
「何を笑っている」
「なんでもない。雪うさぎがあるなら雪パンダもありかな」
「勝手にしろ」
 ――その翌日。
「雪パンダの黒い部分、どうしたらいいと思う?」と笹貫に聞かれた稲葉が畑帰りの桑名江に助言を求めた結果、いつの間にか混ざっていた短刀たちと共に巨大なパンダの雪像を作る羽目になるのは朝餉を終えた後のこと。

 


二、

 男が取り囲まれたのは、出て来たばかりの江戸の屋敷の目と鼻の先、外堀に掛かる橋の上だった。
 月が雲に隠れた、一瞬の薄暗闇。その足元には、咄嗟に主人を守ろうと前に出てしまった従者が気を失って伸びている。
「こういう時こそ、以蔵の奴にいて欲しかったんだがなァ」
 いない者の名を呼ぶ声にはどうしようもなく疲れが滲む。いかんいかんと己の両頬を両手で挟むように叩いて、対峙する相手を睨め付けた。
 目の前の敵の風体は、よくわからない。薄暗闇の中だからというだけではなく、なぜか輪郭がぼんやりとしてうまく捉えることができない。
 こんな日に限って供を一人しか連れていなかった。あるいはそういう日を待っていたのかもしれない。もしもそうであれば、用意周到にこの瞬間を狙っていたということになる。
「目的は何だ? この安房守の命か。だとしたら、黙ってくれてやるわけにはいかねぇよ」
 自分にはまだやらなければならないことがある。
 とはいえ多勢に無勢、文字どおり手も足も出ない。姿を現してから一言も発することのない、不気味な連中に囲まれてじりじりと欄干に追い詰められながら、一か八かで反撃に出るのと堀に飛び込むのとどちらの生存率が高いかと考える。
 後者であろうな、と覚悟を決めて足先に力を入れたその瞬間に、背後からぬっと人の気配がした。
 背後、つまり橋の外側。驚いた男が振り返るよりも先に、欄干を飛び越えて橋に降り立った人影がそのまま襲撃者と男の間に割って入る。思わぬ乱入に驚いたのは襲撃者も同じであったようだ。相変わらず声は無いまま、しかし明らかに動揺した様子の相手に向かって乱入者は静かに刀を抜いた。
 長身で筋肉質な体躯に似合う、迫力のある重厚な刀。ちらりと見えたそれが切れ味を発揮する前に、得体の知れない襲撃者たちは音もなく姿を消してしまった。
 残されたのは男と、伸びたままの従者と、無言のまま刀を鞘に納めて片膝をついた青年。それから、こちらに向かって駆け寄ってくるもう一人の青年。
「ご無事ですか、安房守様」
 こちらも男の前でサッと跪いて顔を下げる。腰に佩いた細身の刀を見るまでもなく、その所作から武家の者であることは明白だった。
「助かった。が、お前さんたちは?」
「さる御方から密命を受けて参りました。至急、安房守様のお耳に入れたい話がございます」
「たいそう胡散臭いが命の恩人だ。聞こう」
 包み隠さない直球の物言いに、動じることなく頷いた青年は自分の腰から刀を鞘ごと引き抜いた。後ろに控えていた大柄な青年へ刀を渡してから立ち上がり、男の耳元に低く囁く。
「――それは本当か」
「我々も半信半疑ではございましたが、先ほどの連中を見て確信いたしました」
「それが目的なら俺を襲ったところで……ああ、人質か。なるほどなァ」
 交渉の材料として自分ほど相応しい者はいない。現状、代わりがいないという意味では、奥に引っ込んでいる総大将よりも重要で面倒な立ち位置にいる。
 男の名は勝安房守。号は海舟。存亡の危機に瀕した徳川家の、最重要人物の一人だ。
「首謀者は」
「我々の仲間が調査中です。なかなか、一筋縄ではいかないようで」
「こちらに全く勘付かせなかったくらいだからな。いや、可能性はあったか」
 今夜の襲撃のように虎視眈々と機会を狙っていたのならば、江戸の町全体が慌ただしく落ち着かない今この時期が将に好機である。
「とりあえず護衛を増やすことにしよう」
「此度の件は、出来うる限り表沙汰にしたくないというのがさる御方のお考えです」
「だろうな。無用の火種だ」
 あらゆる方面に問題が山積みになっている、この微妙な時期にそれは困る。さる御方とやらは見当もつかないが――憶測だけなら数人、思い当たる人物がいないわけでもないが、そのあたりの考えは海舟と同じなのだろう。
「お前さんたちの目的は?」
「標的にされた御方の、その御意思をお守りしたい」
 聞いた海舟が驚くほどの即答。そして彼自身の言葉でもあるのだろうと、確信させる力強さだった。
 不気味な襲撃者も、都合よく現れた助っ人も、正直どちらも同じ程度には怪しい。だが、海舟の問いにまっすぐ応えた目の前にいる青年の方が信用できるだろうと、直感的に判断する。
 だからこそ、彼らに懸念を託すことにした。
「俺は他にも狙われる理由がいくらでも、それはもう山のようにあるからいいとして。いや全然よくは無いが、それよりお前たちに護衛を頼みたいお人がいる」
「確堂様、でしょうか」
 頷いて答えた青年に、海舟は片眉をひょいと上げる。
「やけに話が早いな。さる御方とやらも、それを危惧してお前さんたちを寄越したか」
「とはいえ、素性を何も明かせぬ以上は屋敷に近づくことも叶いませんので」
「そういうことか。ならば俺が話をつけてやる。屋敷に戻るから付いて来い」
 ついでにそいつを介抱してやってくれと、海舟が示したのは気を失ったまま倒れている可哀そうな従者だった。大柄な方の青年が黙って頷き、ひょいと背負って立ち上がる。
「そういやお前さんたち、名は? ああ、この場で名乗れる名で良いぞ。無いと呼ぶ時に不便ってだけだからな」
「では笹貫で」
「……稲葉、とお呼びいただければ」
 気軽な様子で答えた青年と、丁寧ではあるが眉間に皺を寄せたまま低く答えた青年。対照的な二人の顔を交互に見比べた海舟は、面白そうに笑って見せた。
「稲葉だけなら普通の名だが、二人並ぶとまるで名刀の名のようだな」
 名刀のよう、なのではなく名刀そのものなのだが、もちろん名乗った二人は黙っている。

<続>