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慶応甲府の監査官と新選組刀の話。
WEBからの再録(原題:慶応甲府の監査官のこと)+書下ろし。
2022.01.09発行 詳細:紫雨文庫・BOOKS
一、加州清光
「負けるなよ、って。言われたんだよね」
にぎやかに昼餉の片づけを終え、夕餉の当番が来るまで束の間の静けさを取り戻す厨に、ふらりと姿を見せたのは加州清光だった。残っていた林檎を切って差し出した歌仙兼定はこぼされた言葉に軽く首を傾げる。
「それは一文字則宗のことかい?」
「そう。この前の調査の時に」
正しい歴史から大きく逸脱し、時の政府によって放棄され、閉鎖された世界。そこで政府から派遣された監査官と共に行われる特命調査。帰還後、本丸所属となった元監査官に清光はあちらこちらでよく捕まっていた。
くそじじいの暇つぶしの相手にされている、という本人の文句は幾度か聞いていたが、だからといって則宗が無理を強いているわけでもなく、清光が特に嫌っている様子もないので、審神者も初期刀である歌仙も放置していた。
「あれ、なんとなく『言わなくても良いのについ言ってしまった』って感じの言い方でさ。だからなんだか、耳に残ってて」
「監査のため調査のため、という当然のものだけではないと感じた」
「ああ、うん。そんな感じ。単純に戦闘で負けるなって意味じゃなくて……」
自分自身の気持ち。想い。そういうものを含めて負けるなと言われたような気がする。
本人に聞いたところで本当のことを教えてはくれないだろう。適当にはぐらかされるか、自分で考えろと笑われるだけだ。
だから、考える。そして想う。
彼は本来、新選組とも沖田総司とも何の関わりもない。あの戦場に思い入れなどあるはずもない。
けれども、作り話であろうと『その話』を付け加えたかった者がいた、と。その話をあの場所で、他でもない加州清光に語って聞かせた。最後には、十分聞いてもらったと言いながら穏やかに笑った。
作り話とは、言い換えれば『存在しなかった過去』のことだ。こうであったらよかったのに、という人々の願いを込めて語られた架空の物語。しかしそれを語り続けることは、人が紡ぐ歴史のひとつの姿でもある。
あの戦場のように人ではないモノが直接介入し、死んだ者に成り代わり、存在しない過去を作り出そうとするのとは違う。違うけれど、その戦いを眺めながら想うことはあったのかもしれない。
どちらも過去に対して何かを願った結果であり、それが彼らの希望であることに間違いはない。それでも希望は希望だからな、と彼は言った。
強い願い。希望。それはどこから生まれるものなのか。
彼は沖田総司の刀ではない。沖田総司に使われた、愛された刀ではない。
沖田総司という物語を愛する者たちに愛された刀である。
だから彼は、物語でしか知らないはずの沖田総司という人間のことを。
だから彼はあの時、あの最後の戦いの前に、負けるな、と。
――加州清光は考える。
慶応甲府の監査官があの戦場で語っていたのは、最初から最後まで愛の話だった。
<続>