1.
「婚約を破棄して欲しい」
そう告げた皇太子の隣には異世界から来たという可憐な少女が並んでいた。そうして私は察してしまう。
――この世界、わたくしが悪役令嬢なのだわ。
悪役令嬢と呼ばれるものが具体的にどのような存在なのか、実はよく知らない。聞きかじりの知識だからその程度なのか、そもそもきちんとした定義のない存在なのか。その判別もつかなかった。
「彼女は異世界からこの世界に迷い込んで来た。魔王を討伐した伝説の勇者と同じだ。そして次代の王である私と、今日という魔王討伐を祝う記念の日に出会った。これはもう運命だと思わないか?」
本当に、何を言っているのだろうかこの男は。
とにかくこの場で大事なのは、婚約を破棄された貴族の令嬢が自分である、ということである。世界の脅威であった魔王が討伐されて一年、その記念の祝賀会で、王も王族も臣下たちも大勢集まっているこの場でそんなことを宣言する皇太子は、驚くことにまったく悪意を持っていない。
そういう男なのだということを、あまり親密な仲ではなかったとはいえ十年も許嫁をやっていたのだから知らないはずがない。大勢の前で言ってしまった方が後で報告しなくて楽だろうとか、その程度にしか思っていないのだ。
目の前にいる婚約者の面目を丸潰しにしただけではなく、自身の失態にも繋がるとは予想もしていないのだろう。それとも、そんなことに構っていられないほど彼女を愛している自分、という状況に酔いしれているのだろうか。後者の気がする。
「大丈夫か、マリサ」
「ええ、突然のことでしたので、少し目眩がいたしました」
「すまない。君には悪いと思っているが、聞き届けてくれないだろうか」
殊勝に告げる姿があまりにも滑稽だ。自分が何を言っているのかわかっているのだろうか。
けれども呆れ果てた態度をこんな場所で表に出してはいけない。あくまでも冷静に、深く傷ついた(ように見える)姿で、けれども貴族の令嬢として毅然とした態度で答える。
「貴方がそれをお望みなのでしたら、わたくしは潔く身を引きましょう」
「お前ならそう言ってくれると思っていた!」
嬉しそうに少女と手を繋ぐ元婚約者を、ひどく悲しげな(ように見える)視線で見つめれば、慌ただしく王の臣下たちが駆け寄ってくる。遅い。今から説得したところでこの男は聞かないだろう。”元”婚約者の同意は得たと胸を張って主張するだけだ。政略結婚の意味をわかっているのだろうか。
「ああでも、」
未練も執着もないし、己の今後を考えればこのまま大人しく退室するのが妥当であると理解している。それでも、どうしてもこのまま引き下がるわけにはいかなかった。これは感情の問題だ。
「そのようにLIZ LISAがお似合いになりそうな娘が皇太子様のお好みだったとは、さすがのわたくしも存じ上げませんでしたわ」
「りず……?」
不思議そうに首を傾げた皇太子の隣で少女が顔色を変えた。気が付いたのだろう。何か言おうとした相手を視線だけで制して、黙らせて。令嬢はスカートを摘んで優雅に退室の礼をした。
「それでは皇太子様、異世界の少女と末永く仲睦まじくお過ごし下さいませ。ご機嫌よう」
本当に、自分でも驚くほど未練はなかった。
2.
「お嬢様、マリサお嬢様!」
まっすぐ屋敷に帰って両親に事の顛末を報告し、自室に戻ったマリサを慌ただしく出迎えたのは側付きの侍女であるミーナだった。
「婚約破棄って!」
「皇太子様から直々にお願いされたのだから、お受けしないわけにはいかないでしょう」
「お嬢様には何の非も無いのに!」
「……そうね。変に濡れ衣を着せられた上で破棄を迫られるようなことがなくて良かったわ」
そういう意味でも本当に悪意がない。それだけは救いだった。周囲が驚くほどあっさりと引き下がったのはその恐れもあったからだ。
ひどく落胆している年老いた両親の姿を見るのはさすがに心が痛かった。けれども両親もまた、娘に何か落ち度があったわけではないことを理解している。これまでよくやってくれたと、父親からの労いの言葉は嘘偽りのないものだとマリサには感じられた。
本当の娘では無いのに、露頭に迷っていたところを拾われた恩義だけで長いあいだ皇太子の婚約者を、貴族の令嬢を演じてきたのだ。
「私に非があるとすれば、真実を黙っていたことでしょうね」
「……政略結婚に本当の出自なんて大した問題にはならないと思います」
「貴女も言うわね、ミーナ」
「だってお嬢様があまりにも」
「かわいそう、なんて言わないでね。絶対に」
それは自分自身が許せないから。
「ああ、でも、本当になんて皮肉なのかしら。異世界から来た少女ですって」
「異世界から」
「そう。あの魔王を倒した勇者と、勇者の伴侶になった者と同じ異世界からの来訪者」
あの少女がもう少し早く来ていたら、勇者の伴侶は彼女になっていたのだろうか。いや、それはないでしょうとマリサは自分で否定する。だってあの時、勇者に彼を引き合わせさせたのはマリサの言葉だ。
一年前の騒動を思い出しながらミーナの淹れて来た紅茶に手を伸ばす。あの時は罪滅ぼしのつもりだった。同郷の青年が奴隷として虐げられているの知っていながら、自分の身を守るために黙して、見なかったフリをし続けたことに対する償い。その程度で許されるとは自分でも思っていないけれど。
ならば今回のことは、真実を黙っていたことへの罰なのだろうか。
3.
祝賀会での一件以来、皇太子の元婚約者は侍女一人を連れて、王都から少し離れた場所にある別邸へ引き籠ることが増えていた。
かつて社交界の華と呼ばれた彼女も今ではすっかり腫れ物に触るような扱いを受けている。それを厭ってのことだったが、周りは傷心のためだろうとますます憐みの目を彼女に向けていた。
このまま自分も隠遁してしまおうかと、王都から遠く離れた村外れの家を魔王討伐の褒賞に望んだ元勇者のことを考える。今は伴侶と共に小さな畑を耕しながら、静かに暮らしていると聞いた。
自分にそんな生活ができないことは、誰よりも自分自身がよく承知している。けれどもこのまま一人で、誰にも真実を知られないまま生きて死ぬのだろうか。
誰も自分のことを知らないこの異世界で、誰にも知られることのないまま。
真実を黙っていることを、選んだのは確かに自分自身だ。たとえばそれが生きのびるために仕方のないことだったとしても。
「そういえばお嬢様。祝賀会の供をしていた従僕が、リズリサとはなんでしょうかと首を傾げていました」
ふと思い出した様子で侍女のミーナに問われたマリサは表情を曇らせた。感情に任せて必要のないことを言ってしまった。自分らしくもない、唯一の失態だ。
「なんでもないわ。服の種類のことかしら」
「その異世界から来た少女には似合ってて、お嬢様には似合わないと?」
「そうね。似合わないし、趣味ではなかったかもしれないわ」
かつて、同級生たちが楽しげに選んでいるのを、密かに羨ましく思いながら眺めたことはあったけれど。
「わたくしの着るものはいつもお母様が選んでくださったから」
今も、昔も。そういえば自分で服を選んで買ったことなど一度もなかったと思い出す。選んでもらった服はとても自分に似合っていたし、趣味に合わないわけでもなかったけれど。そもそも自分で選んだことがないのだから己の趣味などわかるはずもなくて。
「私はだいたいジーユーです。あとユニクロです」
「そうなの。……え?」
他のことを考えていたのでうっかり聞き流しそうになってしまったが、今この侍女は何と言った?
「ほんとはビンテージの古着もちょっと好きで、原宿のお店とかよく行ってたけどあの時のお小遣いではほとんど買えなくて。あ、でもこのメイド服も結構気に入ってます。スカートが長くて可愛いですよね」
「待って、待ってミーナ」
「マリサお嬢様はきっと、”元の世界”でもお嬢様で。私なんかじゃまったく相手にもならないかもしれなくて。でも、でもね、お嬢様」
顔を真っ赤にして、ひんやりと冷たくなってしまっているマリサの白い手を、あたたかい両手で包み込むように握って。
「私が、マリサお嬢様のそばにいます。今までのように、これからもずっと」
「ミーナ、あなた、」
「美奈、です。東雲美奈。お嬢様のお名前を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「……勅使河原茉莉沙」
もう、何年も口にしていなかった本名を小さな声で告げれば、美奈はきょとんとした顔で茉莉沙の顔を見つめた。
「お名前からもうなんか、すごいですね」
「テストの時にね、名前を書くだけでひどく時間がかかったのよ」
「ふふっ」
まるで知り合ったばかりの同級生のように笑う声。それを聞いただけで、胸の中で固まっていた感情がほろほろと崩れていくようだった。
何もわからないままこの世界へ来てからずっと、一人で気を張っていた。真実を隠したまま立ち続けていた。歩き続けて来た。たぶん、もう、自分で思っているよりもずっと疲れてしまっていた。
倒れる寸前だったのかもしれない。その手を取って握りしめてくれたのは、とてもあたたかな指先で。
真実を告げることで彼女という存在を得ることができたのならば、自分が選ぶべき相手もまた彼女なのだろう。
「探していた幸せの青い鳥は、気がつかないだけで、実はずっと近くにいたと言うけれど」
「……もしかして、私のことですか?」
「そうだったらとても良いのに」
「が、がんばります!」
本当に幸せの青い鳥であったかどうかはわからない。けれども、異世界から来た令嬢の最後の日々は、穏やかではないがとても満ち足りたものだった。
勇者にも皇太子にも選ばれなかった彼女の隣には常に、一人の侍女が寄り添っていたという。
反乱軍によって王都が墜とされる、その日まで。
4.
「どうした直尚」
学校からの帰り道、ビルが立ち並ぶ街中で急に立ち止まった相手の顔を見上げて晃が問えば、いや、気のせいかなと直尚は首を傾げた。
「今すれ違った女子高生、見たことがある気がして」
「……”向こう”で?」
「うん」
一瞬だけこちらに向けられた力強い視線に、覚えがあるような気がしたのだが。
「まあ、気のせいだな」
「そんなにホイホイ向こうに行ったり帰って来たりしないだろ」
「そうだよなぁ」
ここに二人もいるのだから、と。納得した学ラン姿の元勇者とその伴侶は再び、肩を並べて雑踏を歩き出した。
「お嬢様ーーーー!」
「……、美奈さん」
「あ、あ、ごめんなさい。あの、茉莉沙、さん」
そう言って頬を赤らめ、照れながら答えるので、さすがに小言のひとつも言いたくなってしまう。
「もう、あれから何年経ったと思っているの」
「はい! 今日が十年の! 記念日です!」
ね! と満面の笑みを浮かべた美奈に、そんなに気合を入れなくても……と茉莉沙は思わずため息を吐いてしまった。
十年というのは、お互いの本名を知ったあの日から数えた歳月だ。あの世界で九年、こちらに戻って来てから一年。合わせてちょうど十年。
昏睡状態から目が覚めた時、あの世界のことは夢だと思った。あまりにもリアルな夢。
退院後、別の学校に通う生徒であった東雲美奈と再会したのは偶然だった。毎朝通学のために乗っているバスが事故に巻き込まれて運休していたので、いつもとは別のルートを走るバスに乗って。ひどく混雑している車内で顔を合わせた瞬間に号泣された時は、本当に困ってしまった。
美奈と再会して、互いに確かめ合って。だからあれは夢ではなかったのだと、今では信じているけれど。
彼らにも話を聞いてみるべきなのだろうか、と。雑踏に目を向けた茉莉沙の様子に気がついた美奈が問いかけた。
「茉莉沙さん、今、誰かを見送ってました?」
「元勇者とその伴侶とすれ違ったわ」
「え!」
彼らもこっちに戻って来てたんですねぇと目を丸くする。そして、ということは、と言いづらそうに美奈が続けた理由を茉莉沙はすぐに察する。
「あの子も、どこかにいるのかもしれないわね」
あれから皇太子と結ばれて、王妃となった『異世界からの来訪者』であるかつての少女も。
それにしてもあの世界、異世界からの来訪者が多すぎではないかしらと首を傾げる茉莉沙の目の前で、美奈が微妙な表情を浮かべた。
「いやー……でも乙女ゲームなら間違いなく主人公のはずなのに、完全にバッドエンドルート引いてますよね彼女……」
「その、乙女ゲームというのはよくわからないのだけど。嫁いだ国ごと滅亡するような、ルート? もあるのかしら」
「あるらしいですよ。物語の途中分岐での選択次第、みたいですけど」
ならば彼女は、どこかでその選択を間違えたのだろうか。もしかしたら皇太子を選んだ瞬間に、その先の運命が決まっていたのかもしれない。
「私は貴女を選んだわ」
「……幸せの青い鳥にはなれませんでしたけど」
「だけど貴女は、貴女だけが、私を選んでくれたの」
向こうでも、こちらでも。
そう言って微笑む茉莉沙が差し出した白い手を、美奈はいつかのようにそっと握りしめる。変わらずあたたかいその指先を握り返せば、恥じらうように笑う。
ここに至るまでに色々なことがあったけれど、そしてどちらも、あの世界の主人公ではなかったけれど。
このあたたかな手を選んだことは、その選択はきっと間違いではなかった。
2020-01-02