旅人と狂狼

もくじ

 


プロローグ

 

「食事の時間にはまだ早いんじゃないか、おおかみさん」
 狭い部屋の簡素なベッドに腰掛けたまま、笑いながら相手を見上げて問いかける旅人の態度には余裕すら感じられる。その目の前で、後ろ手で扉を閉めて退路を断った訪問者が人狼だと確信していながらだ。
「今夜の食事の前に、あんたに聞きたいことがある。というかなんで俺が狼だと断言できる」
「後遺症の副作用で人間と人狼の区別はなんとなくわかるようになった。但し、昼の間はぼんやりとしかわからないけどな。まあお前が人狼だってことは、そうでなくてもなんとなく察してたよ」
 はじめに旅人の言葉を嘘かもしれないと指摘し、人狼ではないかと疑った男。けれど、その後のやり取りでは全くそういった指摘をすることなく、むしろ庇うような様子さえ見せるようになっていた。
「俺が聞きたいのはその後遺症のことだ。あんた本当に人狼に食われないのか?」
「夜の間限定だけどな。試してみるか?」
 ほれ、と旅人が無防備に両腕を広げて見せる。人狼は少し悩んだが、旅人を見た時から抱いていた強い欲求には抗えなかった。
 ベッドに片膝をつき、両手で旅人の両肩を掴んでその首筋に食らいつく。人のものとは思えない、獣のそれに似た牙が旅人の肌に突き立てられ、けれど少し凹んだだけだった。
 食い破られることも、もちろん血が噴き出すこともない。文字どおり歯が立たない。
「爪を立てることもできないぞ。今まで何匹もの人狼が俺を喰らおうとして失敗している」
「あんたの言うことは本当だったのか」
 驚いたように首筋から顔を上げて、しかし肩を掴んだままの両手は離さない。ここで彼を喰らえないからと言って素直に引き下がることはどうしてもできなかった。
「しかしお前も馬鹿なおおかみだな。一人で来たってことは仲間にも黙って来たんだろう。仲間を裏切ってわざわざ正体をバラしに来る奴がいるか?」
「村人たちに疑われているあんたが俺を人狼だと言ったところで、そう簡単には信じられないだろう。それに、同じ人狼の同胞とはいえ、奴らとは効率よく人間を喰らうために手を組んでいるだけだ」
 喰い破られはしなかったが少し赤くなっている首筋に、人狼は再び顔を寄せる。しかし今度は歯を立てず、ぺろりと舐めるだけだった。
「俺は他の誰でもなくあんたが喰いたい。そのためなら同胞を裏切っても、死んでもいい」
「ずいぶんと熱烈だなぁ」
 苦笑する旅人の首筋を這う生温かな舌のざらりとした感触は、確かに人間のそれではなかった。姿かたちは人間であっても狼が人の姿をしているだけの人狼だ。けれど夜の間、人狼はこの旅人を喰らうことができない。半ば疑っていたがこれで本当だということがはっきりとした。
 だからこそ、交換条件を提示しに来たのだ。
「俺はあんたに協力する。あんたが村人の味方をするなら助けるし、従おう。その代わり俺かあんたが村人に処刑される時は、その前にあんたを喰わせて欲しい」
「処刑される前ってことは、他の人間たちの前で俺を喰らうってことだろう? お前が人狼と疑われて処刑される前ならともかく、俺が処刑される前ってことはお前が人狼だとバレてその場で殺されるってことだぞ」
「あんたを喰った後なら別にいいさ。殺されても」
 この男さえ喰らうことが出来れば同胞どころか、自分の命すらもどうでもいいと本気で思っている。目の前のこの男を食いたくて食いたくて仕方がない。それ以外のことはどうでもいい。
 人間側には人間を裏切り人狼を手助けする狂人という存在がいるらしいが、同胞を裏切ってでも彼を喰らいたいと望む自分は狂狼とでも呼べばいいのだろうか。この旅人の肌に牙を突き立て、噴き出す血を啜り、その肉を食い千切ることを狂おしいほどに切望している。
「そうだな、昼間も言ったが俺の目的はこの村から人狼を根絶やしにすることだ。そのためならお前に喰われてやってもいい」
 残り二匹の人狼の正体を知っているこの人狼が旅人の仲間になることで、人間側は圧倒的に有利になる。たとえ旅人が人狼や狂人と疑われて処刑されることになっても、この交換条件による契約があれば、旅人の命と引き換えにして確実にこの人狼を仕留めることができる。
 この世の人狼を一匹でも減らすことができるのであれば、それでいい。
「だが、もしもうっかり俺とあんたが最後まで残ったらどうなる?」
「約束どおりお前に俺を喰わせてやるよ。喰われながらでもお前を殺してやるから」
 そうすればお互いの望みを果たせるだろうと男が言えば、そうか、それはいいなと満足げに人狼が笑う。そのひどく嬉しそうな笑みを見て、狂ってやがると男も笑った。

 

 

1日目

 

 満月の夜に人を喰らった狼は、人の姿で人を襲う人狼となる。

「神父さまが結界を張り終わったそうです」
 つまり村人の姿をしている人狼をすべて見つけ出して処刑するか村人が全て人狼に喰い殺されるまで、この教会からは誰も出られないということだ。
 教会内に集められたのは、この村で出た最初の犠牲者の近くにいた九人。そのうち人狼が三匹であることは判明している。けれどもその特定まではできていない。
「六人と三匹。この閉鎖空間の中、人狼が正体を明かして襲いかかったところで村人の方が一人でも多ければなんとか勝つことができる」
 そのために一人一本ずつ護身用のナイフを配られている。人を喰らう獣だが、元が狼だからこそ鋭い爪と牙を持つというだけで人を凌駕する特殊な能力を持っているわけではない。
「しかしこの場にいる村人が人狼によって喰い殺され、その数を減らせば、人狼は隠すことなくその牙を剥くだろう」
「村人が人狼と同数かそれ以外になった時、数で押しきることが出来なくなる村人側の敗北が決まる、ということだな」
 教会の結界は決して万全のものではなく、人狼の力が昼よりも強まる夜の暗闇の中ではどうしても一人の犠牲者を出してしまう。あるいは一人を生贄にすることで人狼たちから他の村人を守っているとも言えるのかもしれない。
「大教会から派遣される応援がこの僻地の村へ到着するのに五日はかかる。結局、自分たちで三匹の人狼を見つけ出し、昼間のうちに処刑しなければならないわけだ」
「この結界はあくまでも『人狼と、疑わしき村人たち』を大教会からの応援が来るまで教会の外に出さないためのものだからな」
「疑われた俺たちにできるのは、人狼に喰われる前に人狼を殺して生き残り続けることだけ。最悪だ」
 殺さなければ殺される。生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められた人々が、真っ先に疑わしい人物を糾弾するのは当然の流れで。
「あなたが……あなたが人狼を連れてきたんじゃないの? いいえ、あなたが人狼かもしれないわ!」
 恐怖に耐え切れなくなった女性が甲高い声と共に指さした先にいたのは、昨日この村に訪れたばかりの旅人だった。
 つい数時間前、人狼に喰い殺された村人が見つかるまでは過剰なまでに親切にしてくれていた女性が声を荒げ、側にいた旦那に宥められているのを見ながら、しかし男は少しも動じることなく笑ってみせる。
「逆だな。この村に人狼がいるらしいと聞いたから俺はここに来たんだ」
「どういうことだ」
「あの神父に聞かなかったか? 俺は人狼に襲われて滅んだ村の生き残りだ。その時の後遺症で夜の間、人狼に喰われない。喰われないから人狼になることもない」
 確かに、村人の不審死を見て即座に人狼の仕業だと判断し、すぐに教会から神父を呼ぶように指示したのはこの旅人だった。人狼に襲われた経験があるからこその判断だったのだろうし、だからこそ余所者でありながらこの場に残されているのだろうと考えることはできる。しかし。
「神父は何も言っていなかった。だから、あんたの言葉が本当かどうかわからない。人狼が俺たちを騙すために嘘を吐いているのかもしれないからな」
「それに本当に人狼でなくても、人間なのに人狼の味方をする狂人がいるらしいじゃないか。お前がその狂人でないと証明することはできるのか?」
「信じる信じないはそれぞれ勝手にするといい。俺はただ、俺の村を襲い、家族を奪った憎き人狼を皆殺しにできればそれでいい――さて、与えられた時間には限りがある。さっさとおおかみ探しを始めようか」
 用意された椅子に悠然と座った旅人を、あるものは疑いの眼差しで見つめ、あるものは見てはいけないものだというように目をそらしながら、それでも同じように席に着いた。文句を言ったところで日が暮れれば誰かが襲われるのだ。

 結局初日は、最初に犠牲者を発見した羊飼いの男が処刑され、人々は人狼に怯えながら、一人一人に与えられた部屋へと戻っていった。
 怪しい旅人への疑惑が晴れたわけではないが、彼の言っていることが全て本当であれば人狼に対する切り札となるはずだった。
 彼が少しでも不審な言動を見せた時は即席の処刑台へ乗せればいい。そう村人たちは決めたのだ。

     *

 一日目の夜。それぞれに与えられた部屋の外に出て、人狼に見つかりでもすれば確実に喰い殺される。
 だから真夜中にそっと部屋を抜け出して、数本の蝋燭が揺れているだけの薄暗い礼拝堂に集まったのは正真正銘、本物の人狼たちであった。
 村人の姿をした三匹は蝋燭の揺らめく明りに照らされた互いの顔を見て頷き合う。これから誰を喰い殺すのか、その一人を決めなければならない。
 そしてそれ以外にも、話し合わなければならないことがもうひとつあった。
「あの旅人の言葉、本当だと思うか」
「どうだろう。場を混乱させるためのはったりかもしれない」
「だが、普通の人間とにおいが違うのは確かだ」
 そう言って同胞を見回したのは、旅人に「嘘を吐いているのかもしれない」と指摘した村人、の姿をした狼だった。ああ言えば旅人の言葉の真偽がどうであれ、疑いの目を向けさせることができると思ったのだが、そう簡単にはいかなかったようだ。
「夜の間は死なないと言ったが、昼の処刑は別だろう。あれの真偽がどうであれ、狼の牙で殺せないなら人間たちに処刑せればいい。もしも最終日まで残ったとしても、俺たちが勝ち残れば問題ないはずだ」
「それなら今夜は誰を喰らいに行く?」
「あの旅人を糾弾した女の、旦那だ。旦那を殺して女を動揺させて、旅人への疑念を強くさせる」
「そうして更に旅人を糾弾した女を喰らえば、他の村人も動揺させることができる、か。単調な作戦だが案外うまくいくかもしれない」
 妙な能力を持つ旅人というイレギュラーな存在がいるからこそ、だ。その能力が本物かどうかわからなくても、利用することは可能であるはずだ。
「では、さっそく最初の食事に行こうじゃないか」

 

 

2日目

 

 一日目に処刑された羊飼いのエリックは人狼ではなかった。村人に擬態した人狼は死したあと一晩かけてその正体を現すが、エリックの死体は朝になっても普通の人間のままである。
『夜中にバーンさんが殺されてしまいました。よって、残り七人となります』
 生き残った七人が集まったのは教会の一番広い部屋、つまり礼拝堂だ。扉の向こうから神父の声が聞こえる。教会の中に入ることはできないが、情報がまだ少ない二日目のまとめ役として近くに居てもらおうと、提案したのは例の旅人だった。
『バーンさんの奥様は落ち着かれましたか?』
「村人たちが大人しくさせている」
『手荒なことはなるべく避けていただきたく』
「もうそんな段階じゃないだろ、これ」
 扉越しに神父と会話する旅人の頬には切り傷があり、血が滲んでいた。護身用のナイフを手にして暴れていた夫人からそれを取り上げて、なんとか宥めて落ち着かせた村人たちは、少しも動揺していない旅人を胡乱な目で見つめている。
 一晩明けて二人減って七人。村人と人狼の人数は四人対三匹。この日の処刑で人狼を見つけ出すことが出来ず、夜中にまた一人が喰い殺されてしまえば、明日の朝には二人対三匹となって皆殺しになってしまう。
「余所者の俺を疑うのは構わないが、ここで人狼を見つけられなければ明日は俺も死ぬんだぜ」
「それは人狼以外の全員が同じだろう」
 この中で最も背の高い男――アレンの言葉に他の村人たちも頷く。そりゃそうだけどね、と答えた村人は、そのままの流れで神父に尋ねた。
「人狼が勝ち残った場合どうなるのか、こいつら知ってるのか?」
『昨日はそれどころではなかったので説明がまだでしたね。一匹であればそのまま閉じ込めて大教会の応援を待ちますが、さすがに複数残ってしまった場合は結界が持たないでしょう。そんなに強いものではありませんので』
「つまり人狼が再び村に飛び出して、被害が広がるってことだ」
 旅人の言葉に村人たちの表情が変わる。
 最愛の者、子供たち、親兄弟、友人、同僚。それぞれ村に残してこの教会に隔離されている。たとえ運悪く生き残ることが出来なくても、ここで悲劇が終わるなら村にいる者たちを守ることが出来る。それで十分ではないだろうかと、一晩明けて覚悟を決めた矢先に明かされた事実だった。
「絶対に、人狼を見つけなければならない」
 最年長のオルガの、その力強い決意の声に、旅人と夫人を除く四人の村人たちが頷いて同意した。
「まず、バーン夫人は人狼ではないだろう。可能性が低い、という意味だが」
「異論は無い」
「それからあんた、旅の人――まだ名前を聞いてなかったな」
「名乗る暇もなかったからな」
 昨日は教会に集められた時点で日が暮れ始めていた。時間がない中で最低限の説明だけを受け、焦りながら最初の処刑者を決めてしまった。
「エル」
「俺はオルガ。あんたから見て右からアレン、ウィグマン、カーター。奥でバーン夫人と一緒にいるのがジュリア。エル、俺はあんたも今回は処刑の対象から除外するべきだと思う」
「理由を聞いても?」
「あんたが人狼なら『食事』をしてから神父を呼ぶだろう」
 旅人が村を訪れたのは最初の被害者が見つかる直前のこと。そして旅人がいなければ、あの死体が人狼の仕業であると村人たちは気が付かなかった。
 死体は首元から出血していたが、その身体は欠けることなく綺麗に残っていた。喰われる前だったのだろう。その状態で即座に人狼の仕業だと判断することは難しい。
「この村で唯一それを判別できる神父を教会から呼ばなければ、人狼はもうしばらく『食事』を続けられたはずだ」
「夫人と同じく、可能性が低いから除外する、と」
「あまりにも情報が少なすぎる今は、そうやって消去法を繰り返すしかない。つまり彼ら二人を除いた俺たち五人のうち誰を処刑するか、ということになる」
「五分の三までは絞ったってことか……」
 オルガの説明を聞いたアレンが改めて小さく唸った。ここで選択を間違えれば何もかもおしまいである。慎重に考えなければならない。
「昨日は、最初に犠牲になったドビーの死体を見つけたエリックを疑った。しかし彼は人狼ではなかった」
「まずはそこで間違えた理由を考えよう、ってことだな」
 落ち着くためにメガネを掛けなおしたカーターにオルガは頷く。
「死体が発見されたのは羊小屋の裏だった。あそこは人目につかないが、羊飼いであるエリックが必ず通る場所だ。最初に見つけることになってもおかしくはない」
「そもそも人狼とはいえ羊飼いが狼だったら、羊たちが騒いだんじゃないのか?」
 旅人の言葉に村人たちは口を噤む。動揺していたとはいえ、誰もその可能性に思い至らなかった。
「それに気が付いていたならなぜ、昨日それを言わなかった」
「あくまでも可能性の話に過ぎないし、そもそも彼が羊飼いだったことを俺はいま知ったからな」
 村人は全員知っているが、余所者である彼は知らない。数日前に村に赴任して来たばかりである神父も、村人全員の生業までは把握していなかった。
『申し訳ない。私も知らず、気が付きませんでした』
「羊たちが人狼を狼と認識するかどうか、神父は知ってるのか?」
『昼間の人狼は、姿かたちはまったく人間と変わりませんがにおいが違うらしい、とは聞いたことがあります。人狼たちはそのにおいで同胞を見分けると。臆病な羊たちならそれに気が付くかもしれません。あくまでも憶測なので断言はできませんが』
「知っていること、知らないこと、判断の差……」
 オルガの呟く声を聞いて、一人の村人が顔を上げる。
「あの、どうしてあの時間に、エリックは小屋の近くにいたのでしょうか。いつもならまだ山にいる時間だと思うのですが」
 最年少のウィグマンの疑問に答えたのは、その隣にいたアレンだった。彼もエリックと同じ羊飼いを生業としている。
「夕方から雨が降るって聞いてたんだよ。だからエリックも俺も山から早めに戻ってきて、あれに遭遇しちまったんだ」
「誰に聞いた?」
「カーター」
 全員の視線が一人に集中する。小柄なカーターは力仕事が得意ではなく、代わりに村一番の博識で知られていた。天候のことにも詳しい彼の助言だったからこそ、エリックもアレンもその言葉を信じたのだ。
「昨日、雨は降らなかった。降る気配すらなかった」
 周りからの視線と、オルガの静かな声でその先の流れを察したのだろう。眼鏡の奥にある瞳に絶望の色を浮かべて、カーターは答える。
「予想が外れることもあるよね」
「……いや、お前は俺たちに言ったんだぞ。向こうの空の様子とこの風向きなら『絶対に』降るはずだから、今日は早めに山を下りた方が良い、って」
 人目につかない羊小屋の裏。そんな場所で死体を見つかれば、まずは見つけた者に疑いの目は向くだろう。二人もいればその確率は上がるはずだ。
 羊たちが人狼の気配を感じて騒ぐのかどうか、断言はできないが羊たちに騒がれることのなかったアレンが人狼である可能性は低くなる。そのアレンの証言である。
「残念だよ、カーター。エリックもお前も、幼い頃からの付き合いだった」
 ――処刑される村人は決まった。
 礼拝堂の天井の、太い梁から吊るされた縄。即席の処刑台。
 それを眺める旅人の視線は、真冬の湖のように冷ややかだった。

     *

「舐めさせろ」
 昨夜と同じように部屋に入って、いきなりそれである。予想どおりとはいえあまりにも直球過ぎた。
 しかし村人たちの前ではそんな素振りを一切見せずに、夜になるまで耐え抜いたのだからそれくらいは許してやっても良いだろう。この人狼は旅人との約束を守り、他の誰にも知られないように旅人の協力をしている。
「ほら、拭わずにそのまま取っておいてやったぞ」
 そう言って、寝台に腰掛けていた旅人は自分の頬に付いた血を指さした。浅い傷口は既に塞がっていたが、滲んだ血は乾いてこびりついている。
 昨夜のように旅人の両肩を掴み、べろり、とざらついた舌で頬を舐めた。ひと舐めふた舐めで残っていた血はきれいに取れてしまったが、名残惜しそうにぺろぺろと傷跡を舐め続けている。まるで犬のようだ。狼だが。
「そろそろいいだろ。よだれでべたべたになる」
「……よだれも血液と同じ、体液だよな」
 何かに閃いたような相手の弾んだ声を耳元で聞いた旅人は、嫌な予感がした。
「おい、何を考えてる」
「噛みつけない、爪も立てられない、でも最初から開いてるところなら問題ないよな」
「開いてるところってお前、んんっ」
 顎を掴まれて、口内に舌をねじ込まれる。容赦なく音を立てながら唾液を吸い上げられて、さすがの旅人も動揺する。
 裂けることはないとはいえ顎や腕に食い込んだ鋭い爪が痛かった。力強く掴まれて、身動きひとつ取ることができない。
「ん、んん、ふっ、……やめ、」
 息継ぎをするように唇が離れた所で、旅人は相手の頭を思いっきり叩いた。
「いい加減にしろ、苦しい!」
「少しくらい良いだろ減るもんじゃなし」
「いや減ってるぞ水分とか……何してるんだ」
 ベルトに伸ばされた手を掴んで止めて睨みつければ、狼は目の前でニタリと笑う。
「唾液でこれだけ旨いなら、こっちはもっと血液に近いんじゃないか?」
「……いや、さすがにそれはダメだぞ。ダメだろ。ダメだからな?」
「そうだな。今夜はもう時間がないし、こっちは明日に取っておくか」
「いやいやいやいや」
 命の心配の前に貞操の心配をしなければならなくなってしまった。この展開は旅人の想定外だった。

 

 

3日目

 

「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
 3日目の朝。礼拝堂に集まってカーターの――人狼の死体を黙って縄から降ろしたオルガとアレンに向かって、震える声で発言したのは最年少のウィグマンだった。
「バーン夫人が人狼に殺されてしまったのは、彼女が人狼である可能性が低いと僕たちが真っ先に判断したから、でしょうか」
 夜が明けて残った村人は五人。昨夜、二匹の人狼に殺されたのは憔悴し切った様子で部屋へと戻って行ったバーン夫人だった。それを知った他の者たちの、少しも驚いていない姿を見てウィグマンは気がついてしまった。
「人狼の疑いが残っている村人を殺して減らせば、村人が人狼を見つけ出す確率は上がってしまう。だから人狼ではないと判断されたバーン夫人が狙われて殺された。皆さんはそれに気がついていた。わかっていて判断を下した。そういうことですか?」
「……まあ、結果的にそういうことになる」
「疑われたら処刑されて殺される! 疑われなければ喰われて殺される! もうどこにも逃げ場なんてないじゃないですか!」
「ウィグマン、もうやめて!」
 悲鳴のようなジュリアの声を聞いて、ウィグマンは涙目で振り返る。
「貴女もわかってて黙っていた! 夫人に寄り添いながら! そうですよね!」
「そういう場所に俺たちはいるんだよ」
 旅人のひやりと冷たい声で、礼拝堂は水を打ったように静まる。
「良かったなウィグマン。これでお前は今日も処刑されない。そして今夜の犠牲はきっとお前だ」
「いやだ!」
「エル、やめるんだ」
 ウィグマンの叫び声とオルガの低く抑えた制止の声に、不可解だとでも言うようにエルは軽く首を傾げた。
「やめてもいいけど、代わりにお前らがこいつに言ってやるのか? 余計なことを言えば死に近づくだけだって」
 もう手遅れだろうけど。そう言って肩を竦めた旅人の元に、コツコツと足音を立てながら一人の村人が近づいてその目の前に立つ。ゆっくりと口を開いたのは、先ほど上げた声以外は連日ずっと黙っていたジュリアだった。
「ねえ、教えて。貴方とウィグマンを除いたら、私か、オルガか、アレンか。この三人のうちの誰か二人が人狼ってことになるの?」
「俺が本当の正直者で、ウィグマンのあれが演技でなければ、当然そういう流れになるだろうな」
「そう……」
 ふらり、ゆらりと振り返る。その視線の先に捉えたのは、心配そうな視線でジュリアを見つめているオルガの姿だった。
「私ね、知ってるの。羊たちは騒がない。アレンはあの日、羊を連れて山になんて行っていない」
「何を言い出すんだジュリア」
「彼が、アレンが人狼よ。間違いない。オルガのはずがない。ああでも、そしたら私が人狼なの? 私は私が知らないうちにみんなを食べていたの?」
「……オルガ」
「ああ」
 ジュリアにそっと寄り添ったオルガは、その肩を優しく支える。虚な目をした女は天井を見上げ、そこから垂れ下がられたロープを眺めた。
「人狼は処刑しなくちゃ」
 ふらふらと即席の処刑台へ向かおうとするジュリアを、オルガは力強く抱きしめて必死に引き留める。そして呆然としたままジュリアの豹変を見ていたウィグマンに向かって、叫んだ。
「お前が決めろ!」
「な、なんで!」
「お前があんなことを言い出さなければ、こんなことにはならなかった! みんなわかってて、それでも黙っていたのに!」
「そんな、だって……!」
 助けを求めようにも誰に声をかければいいのかわからない。既に正気を失っている様子のジュリア、その彼女をしっかりと抱きしめているオルガ、突然疑いをかけられて動揺しているアレン。そして、そんな村人たちを冷ややかに眺めている旅人。
「エルさん、僕はどうしたら」
「五分の二の確率だ。適当に指名しても当たる可能性は高いぞ。まあここで当てても間違えても人狼は残るから、今夜お前は喰われて死ぬけどな」
「どうして僕が」
「お前が人狼ならここで人間を選んで処刑して、夜中にもう一人を喰らって、明日の朝になったら残る一人を殺して全部終わり。人狼二匹で自由の身だ。でも、お前が人間なら当てても外してもここでは終わらない。それなら明日のために、今夜のうちに『人狼ではないと確定した』お前を殺しておく必要があるだろう。お前がさっき言ったとおり、バーン夫人と同じように」
 ――ああ、そうか。だからオルガは自分を指名したのか、と。旅人の説明を聞いてやっとウィグマンは理解した。あれは優しい彼の、彼なりの思いやりだったのだ。
 どうあっても生き残ることができないのならば、せめてその最後は自分の意思で選べ、と。
「……ここで人狼を見つけ出して処刑しても、今夜誰かが、というか僕は殺されるんですよね」
「残った一匹の最後の食事だな。明日の朝残るのは俺と人狼と、お前以外の誰かだ。それが最後の戦いになる」
「それなら、今日の処刑はジュリアさんを」
「ウィグマン、お前……!」
「人狼はオルガさんかジュリアさんかアレンさん。アレンさんは羊の件があるので、人狼である可能性が低い。それなら今一番疑わしいのは、突然アレンさんを人狼だと言い出したジュリアさんです」
 旅人は何も言わない。その表情からは何も読み取れない。余所者である彼には村人たちが重ねてきた日々のことなどわからないし、彼が重ねてきた過去のこともこちらにはわからない。
 だからこそ、他の村人が言いづらいことをはっきりと言葉にしてくれる彼は、親切な人だとウィグマンは思った。村人たちを眺めるその視線は変わらず冷たいけれど、本当は優しい人なのではないだろうか。
「それで良いでしょうか、オルガさん」
「……お前が決めろと、言ったのは俺だからな。それに、」
 もう一度、力強く抱きしめたジュリアの身体をそっと離す。ふらふらと自分で処刑台に向かうその背中を見送りながら、力を失ったようにベンチに座り込んだ。
「あいつをもう楽にしてやりたい。たとえ人狼であっても、そうでなくても」
 本当はもうとっくに、この教会へ来た時から彼女は正気を失っていた。
「そのことに気が付いていたのは、ずっと彼女と一緒にいた俺だけだったからな」

     *

 暗闇の中で獣の息遣いを聞きながら、ウィグマンは自分が大きな思い違いをしていたことを知る。
 どうして『彼』が敵ではないと思い込んでいたのだろうか。どうして最初から疑いもせずに信じてしまったのだろうか。優しいから? 親切だったから? そんなもの、いくらでも演じることができるのに。
 選択を間違えてしまった。最悪の事態を招いてしまった。このままでは人狼が村に放たれて、被害が広がってしまう。自分のせいで。自分が『彼』の嘘を見破れなかったせいで。
 ああ、でも、だけど。もしかしたら。
 あの人が村を助けてくれるかもしれない――

 

 

最終日

 

 夜が明けて、礼拝堂に集まったのは旅人のエルと、村人のオルガとアレンだった。エルの予想通りウィグマンは喰い殺され、そして吊るされたジュリアの死体は。
「やっぱり人間だったなぁ」
 処刑台の前に立って呟いた旅人の言葉を聞いて、その背後に立とうとしていた男が驚いて足を止めた。
「お前、最初からわかっていたのか」
「人間と人狼の違いは、ぼんやりとならわかるんでね。まあ、信じてもらえないから大抵は黙ってるんだけどな」
「その上で俺たちに協力したのか? お前が噂の狂人だったのか」
 なぜか人間でありながら人間を裏切り、嘘を吐き、人狼に協力するという狂人。その狂った思考以外は見た目から何から全て人間であるため、協力されている人狼でも見分けが付かずに喰らってしまうことがあるという。
「残念ながら、俺はここへ来てからひとつも嘘を吐いてないんだな。思わせぶりに余計なことを言って場を引っ掻き回しただけだ。――なあ、おおかみさん」
「そうだな」
 ぐちゅ、と。肉が抉られる鈍い音が静かな礼拝堂に響く。
 一人と二匹しかいないこの空間で、背後から護身用のナイフで刺された、という状況を刺された男が理解するのに時間がかかった。そんなことは決してあるはずがないのに。
「お前、お前が……!」
「裏切り者はそいつじゃなくて俺だよ、オルガ」
 残念だったなぁと笑う声を聞きながら爪を立て、背後の相手を払おうとして前方への注意を怠ったオルガの喉が切り裂かれる。その返り血を浴びた旅人は手にしたナイフをくるりと回して逆手に持ち、両手でしっかりと力を込めながら人狼の心臓に突き立てた。
「随分と手慣れてる」
「こいつで三十匹目だ。ちょうど故郷の村で犠牲になった数と同じになったな」
 そんなに葬って来たのかと裏切り者の人狼――アレンは少し驚く。人狼は集団で行動しない。多くても今回のように三匹程度だ。その十倍の数ということは、彼の復讐の旅はそれなりに長く続いてきたものなのだろう。
「俺で三十一匹目?」
「そうだな。俺を犠牲者に含めると三十一人だから、お前でとんとんになるのか」
 事切れたオルガ、の姿をした人狼からナイフを引き抜いたエルは、頬についた血を腕で乱雑に拭う。これで礼拝堂に残ったのは一人と一匹。
「さて、約束だ。できればゆっくり喰らってくれよ。お前を殺せなくなる」
「わかってる。お預けされて、やっとありつけたご馳走なんだ。ゆっくり楽しませてもらうよ」
 ナイフを握る。隠していた牙を顕わにする。
 昨夜までは舐めるだけだった首筋に軽く突き立てた牙が、ようやくその肌に深く食い込んだ。流れ出した血をうっとりと舐め、次は肉片を喰い千切るために牙を剥く。その背に突き立てるためのナイフを振り上げて――

「はい、そこまで」

 パンパンと手を叩きながら、教会に入ってきたのは背の高い男。黒い詰襟の長衣を身に纏った神父だった。
「邪魔すんなクソ神父」
「ダメですよエル。それでは話が違うでしょう」
「お前ら教会に協力するのは俺が死ぬまでの話だ。ここで俺が死んだらその話自体がなくなるだろ」
「それは困ります。私たちの仕事が増えてしまうじゃないですか」
 突然言い争いを始めた二人に置いてけぼりを食らっていた人狼が、ようやく事態を把握する。
「お前ら、最初からグルだったのか」
「俺はこの村に人狼がいるらしいと聞いたから来た、って、初日に言っただろ」
 では、誰がそれを旅人に伝えたのか。特定までは出来ずとも、人狼の存在自体を感知できるのは教会の人間だけだ。人狼が紛れ込んだという噂を元に村に赴任した神父が、噂が真実であることを確認して旅人に連絡を取った。そういう流れなのだろう。
「まさか人狼側に協力者が現れるとは思ってもみませんでしたが。しかもその男を喰いたいから、なんて悪食にもほどがあると言いますか。……いえ、そもそも人を喰らった形跡がありませんね。そうか、だから羊たちは騒がなかった」
 そう言って神父が、何かを見極めようとする様子で目を細めて人狼を眺める。確かに彼が言うとおり、アレンを名乗る人狼はまだ人間を一人も喰らっていない。昨夜もその前も、自分はギリギリまで空腹状態にして楽しみたいからと仲間たちに譲った。
 それはとにかく旅人を喰らいたいという欲求が強かったせいだが、それ以前も必要をあまり感じなかった。人を襲うことで人狼として見つかることのリスクと天秤にかけるまでもなく、普通の人間として暮らしている方が圧倒的に安全である。
 人狼であれば抗えないほどに強く持っているはずの、人を喰らいたいという欲求そのものが薄かった。
「あなたもしかして、生まれつきの人狼ですか?」
「どうしてわかるんだよ」
「それはもちろん、敬虔な神父ですので」
 当然です、と粛々とした様子で胸を張る男に、旅人は冷ややかな視線を向けた。
「あいつは大教会で特殊な訓練を受けてるんだよ。対人狼殲滅部隊としての」
 だからクソ神父なんだと嫌そうな顔で吐き捨てたエルは、手にしていたナイフを床に投げ捨てた。
「これでいいだろ」
「おい」
「悪いな人狼。教会と奴にはいろいろと助けてもらってる恩があるんでな。まあ俺にとっても人狼殺しに便利だから利用させてもらってるけど」
「うぃんうぃんの関係、ってやつですね。復讐のために人狼を殺したいあなたと、人々のために人狼を減らしたい教会と。――それでそちらの彼にご提案なのですが」
 にこやかに笑顔を浮かべながらどんどん話を進めていく。やり口としては旅人に似ているが、その当人がナイフを投げ捨ててさっさと諦めた様子を見せている。これは間違いなく厄介な部類の人間だと、人狼は身構えた。
「なんだ」
「村人に擬態した人狼と人間との間に生まれた、生まれつきの人狼。話には聞いていましたが本物を見るのは私も初めてです」
「大教会の研究室で見たぞ。剥製だったけど」
「ああ、それは大事な研究資料ですので」
「俺も剥製にするのか?」
「とんでもない! あれは見つけた時には既に処刑済みだったから、死体を剥製にするしか残す方法がなかったのです。あなたはまだ生きている。そしてまだ一度も人を喰らっていないから教会の処分対象にはならない。むしろ貴重な存在として観察、保護対象になりますね」
「つまり?」
「教会と契約し、人狼殲滅にご協力いただきたい」
 ここまでの話の流れなら当然、そういうことになるだろうとは予想できたが、実際に言われるとさすがに驚きを隠せない。
「教会がそれでいいのか」
「もちろん監視はさせていだきますが、エルは人狼を効率よく殺せる、あなたはエルを美味しくいただく、そして我々教会の仕事が減る。良いこと尽しではないですか」
「いや、途中おかしいだろ。俺喰われてるぞ」
「殺さずに楽しむ方法なんて、いくらでもあるでしょう?」
 ここまで人を喰い殺さずに生きて来たのなら、人の味を覚えてしまった他の人狼とは違い『食事』自体への欲求はそこまで強くないはずだ。何か別の方法で満足することはできるだろう。
「ほら、食欲と性的欲求は近いと言いますし。その辺りで手を打ったらいかがでしょうか。そして、お二人が失敗したその時は最後の晩餐として召し上がってください。特異な事例としてしっかり記録させていただきますね」
「……なるほどクソ神父だな」
「だろ」
 そして拒否権はほぼ無いに等しい。用意された選択肢は、教会と契約するか、教会のお尋ね者になって殺されるかのどちらかしかない。
「あーあ。ここで終わっても良いかなって、思ったんだけどな」
「エルにはまだまだ働いていただきますよ」
「へいへい」
 とりあえず血を落として着替えないと、その前に手当てが先か、と首筋の傷口を確認している旅人に人狼は問う。
「本当にそう思ったのか」
「……復讐心だけで続けるには、ちょっと旅が長すぎたな」
 村人を喰らい殺した人狼たちへの憎しみは燻り続ける火種のようなもので、薪を投げ込めばすぐに大きく燃え上がる。それを繰り返してここまで来たけれども。
「まあ、目標だった三十匹を仕留めたところだし。次は百匹を目指すのも良いか」
「お前そんな、そんな軽い感じでいいのか」
「だから生き残っちまったんだろうなぁ」
 思えば『あの時』も最後に一人と一匹が残って。他の人狼を仕留めることはできたし、もういいか、と。諦めて抵抗しなかったから教会の救助が間に合ってしまった。
 そして彼と同じように神父から教会との契約を持ち掛けられて。自分は終わりのない復讐の旅を選んだ。
「お前はどうするんだ? 教会の犬になるか?」
「……それでお前が喰えるなら、俺はそれを選ぼう」
「だってさ」
「びっくりするほど愛されてますね、エル。とても良いことです」
 愛を語れば、なんかいい感じに話がまとまりますから。
 そう言ってニコニコと笑う神父の、ひどい胡散臭さはいつものこと。こいつはさっきから何なんだ……と、何とも言えない微妙な表情を浮かべている人狼の横で、既に諦めている旅人は黙ってため息を吐く。
 復讐の旅は、まだしばらく終わりそうになかった。

 

 

2020-01-17