子守唄異傳

刀ミュ/みほとせ。物吉と村正。それから江水のこと。2022/5/30


 

 夕焼け色の空の下、子守唄が聞こえる。
 ねんねん、ねんねん、ねんころり、と優しく響く歌声が不意に止み、代わりに届いたのはこっそりと笑う声だった。
「竹千代様は寝てしまいましたから。もう出て来ても大丈夫ですよ、村正様」
 物吉貞宗が庭の生垣に向かって小さく声をかければ、物音ひとつしなかったはずの木々の間からぴょこんと桃色の髪が姿を現した。そのまま静かに生垣を飛び出した千子村正はゆっくりと、赤子を抱いている物吉の周囲をぐるりと回る。
 彼が赤子との距離を測りかねていることは最初から明らかだったので、物吉は気にせず縁側に腰を下ろす。赤子が目を覚ましてしまうような大きな声を出さなくても相手に聞こえるが、伸ばした手は届かない。そんなギリギリの位置に落ち着いた様子の村正がいつものように腕を組み、ようやく口を開いた。
「ひとつ、気になったことがあるのデス」
「何でしょう?」
「物吉君が歌っている子守唄。皆もすぐに覚えてしまって寝かしつけの時に必ず歌っているようデスが……それでは歴史が変わってしまいませんか?」
 刀剣男士の子守唄を聞いて育った子供が、聞き慣れたその子守唄を我が子にも聞かせる。次の子も、また次の子も。そうして先へと続くことで、本来あったはずの子守唄が消されてしまうのではないか、と。
「ああ、それなら大丈夫ですよ。これは僕がかつて、松平家で聞いた子守唄ですから」
 記憶を頼りにしているのでまったく同じものではないかもしれない。けれどだいたい同じはずですと答える物吉に、なるほどと納得した様子の村正が頷く。そういう形の歴史の守り方もあるのだろう。
「それに、父親よりも母親や乳母や子守り役から聞くことの方が多くなりますから。この歌そのものが長く先まで残ることはありません」
 やがて歴史の片隅でそっと消えていくもの。それでも確かに、そこにあったもの。
 今回の任務は特殊なものだ。歴史の大きな流れさえ守られていれば、細部が多少違っていても何とかなるだろうというかなり乱暴な理論で成立している。もちろん『江戸幕府を築いた徳川家康の生涯』という日本史上でも特別に重要で、大きな分岐点だからこそという部分はあった。
 それでも間近で家康の生涯を見守ってきた物吉貞宗がいることによって、できる限り元の流れに近づけるための努力をすることは可能なのだろう。どんなに小さな流れであっても人が紡いだ歴史の流れだから。できることなら守りたい、と。
「本来であれば竹千代様が、短い期間であったとは言え父母の元で耳にしたであろう子守唄です。まあ、本当の歴史よりも少し、歌い手の人数が増えているかもしれませんが」
「アナタや蜻蛉切の歌声はよく眠れるでショウね」
「村正様の歌も」
「ワタシはダメでしょう。だってワタシは」
「徳川に仇なす妖刀だから? そんなこと、僕の前で言っても仕方がないですよ」
「……そうでした」
 本当の徳川の歴史を知るもの。見守って来たもの。
 有名な妖刀伝説も家康に幸運を運び続けた脇差の前では、いくつも存在する物語のひとつに収まってしまう。
 それでも、万が一にも赤子の柔らかな頬を傷つけてしまうことがないよう、遠くから眺めているのが村正の優しさだと物吉は知っているし、村正自身も薄々気が付き始めていた。
 だからこそ困ってしまう。苦手だと感じてしまう。歴史と伝承、置かれた現状と己の認識が矛盾している。
 これから続く長い長い任務のどこかで、自身の中で折り合いをつけなければならない問題であることは村正も理解していた。この任務の中で最後まで迷わず戦い続けるために。
 今ここで結論を出す必要はまだないが、今わかっていることもある。
「確かにこの時代のワタシはまだ妖刀ではありません。ですが物吉君、『徳川に仇なす刀』が必要な日は、この先必ず来るでショウ?」
 刀剣男士として正しい歴史の流れを守るために。
「その時は僕も、」
「アナタは良いのです。それが正しい歴史なのですから」
 物吉貞宗は徳川家康に幸運だけを運ぶ。正しい歴史の中で語り残されてきたとおりに。千子村正が妖刀であるのと同じように。

 ――歌い継がれなかった子守唄がやがて消えていくように、語り残されなかった歴史が後世に伝わることはない。
 けれど彼らの思いも、それが込められた優しい子守唄も、誰も知らなくても確かにここにある。そして誰かの思いと重なって、姿形を変えて未来へと残されることを、この時の村正はまだ知らなかった。

 橘の花に思いを誓う、遠き先の愛し子のことを。