下天の夢は蝶の夢

「天下を取りたかった。だから――」

 続く言葉は何だったのか。
 天下人の象徴と呼ばれて長きを過ごした自分は、しばらくそれを忘れていた。

 どうして忘れていたのだろう。
 その言葉は、とても大切なものだったのに。

 

 その刀を見た時。この人ならば、と確信した。
「上総介様、天下をお取りくださいませ」
 戦利品であると渡された刀を手にして、眉尻を下げて嬉しそうに笑った妻に、夫は訝しげな視線を投げる。
「たかが尾張一国を統一したばかりの、隣国すら落とせぬような男に天下を取れ、と」
「ええ、そうです」
 建武の騒乱の頃に打たれた刀らしく大ぶりで、文化人としても名高く『海道一の弓取り』と呼ばれたかつての持ち主に似合った、瀟洒な拵えの刀をしっかりと胸に抱えて。目を閉じた女はゆっくりと頭を下げた。絹糸のような黒髪の間から見える、細く白い首を差し出すかのように。
「天下人への道のはじまりに、わたしの故郷を攻め落としてくださいませ」

 

 濃姫はひどく変わった女だ。
 美濃から来たから濃姫。夫である織田信長は彼女のことをそう呼ぶ。他の者は他家同様、奥方様、御台様と呼ぶから、もちろん本当の名など左文字の刀には知りようもなかった。
 美濃の蝮と呼ばれた齋藤道三の娘だが、道三の正妻であった濃姫の母親は美濃の名門土岐氏の支流である明智氏の娘であり、土岐氏の血脈を遡ればかの頼光に辿り着くのだという。だから、なのか。
「そこにいるんでしょう?」
 にこにこと女が微笑みかけるのは信長の部屋にある、一振りの刀だった。傍から見ればどう考えたって頭のおかしい様子に見えるだろうに、部屋の前を忙しく通り過ぎていく織田家の人間たちは慣れているのか、誰も気にする様子はなかった。
 仕方ない、と左文字の刀の付喪神はふわりと人のような姿に成る。目鼻口の位置が辛うじてわかるようなぼんやりとした姿に、けれど女は、たれ目を細めて嬉しそうに笑った。
「またお会いできましたね」
「主が不在の隙に呼び出して云う台詞ではないですね?」
「わたし、また貴方とお話したいと思っていたのよ。なのにあの人がなかなか貴方を手放さないから」
 話がかみ合っていない気がするがいつものことだ。溜め息をついたところでその真意に気づいてくれる相手でもない。
「さすがの彼も、お産を終えたばかりの女のもとへ太刀を持っては行きませんよ……貴女は行かなくて良いのですか?」
「生駒と赤子の顔なら、あの人よりも先に見て来ましたもの。母子共に問題なく、元気そうでよかったわ」
 心から安心したというように笑って見せる彼女自身にまだ子はいない。じっと見つめる視線に気が付いたのか、ふわりと笑いながら胸を張ってみせた。
「主人の妻子を取り仕切るのも、正妻であるわたしの大事なお役目」
「まあ、確かに。あれだけの人数がいて揉め事が起こらないのは大したものです」
 その手の醜聞に事欠かない家も少なくはないことを思えば。信長自身はあまり奥のことに口出しをしないので、濃姫の裁量があってこそだ。
「それでも普通の正妻は、夫の戦利品である刀に銘を入れるなどという助言はしないと思いますけどね。常に持ち歩いて見せびらかすといいと、あの人に進言したのも貴女では」
「ええ、そうよ。だって貴方にはそれだけの価値がある」
 今川義元の愛刀が織田信長の手にある。それだけで、十分すぎるほどの価値がある。
「それは、僕自身の価値ではありませんね」
「何を言っているの。数多の刀剣の中からかの義元に選ばれた、それは貴方自身の価値でしょう。今川に贈られたことだって、貴方がそれだけ価値のある刀だからという理由ではないの?」
「そこに、刀としての本分はありますか」
「わたしは刀になったことがないから、わからないけれど。よく斬れること以外に刀の本分なんてあるのかしら」
「……ない、ですね」
 名刀と呼ばれる左文字の刀がよく斬れるのは当然のことで、更に言えば、基本的にはどんな刀であっても、よほどの鈍らでもない限りよく斬れるものだ。どちらがより斬れるのか、という比較は成立しても、斬れる方が価値があると判ずることは難しい。刀剣の価値には様々な要素がある。
「田舎大名の一人に過ぎなかった織田家の若き当主が、名門今川家の、東海に最大の勢力を誇った義元を討ったその戦利品。織田信長の名を天下に知らしめた、最大の武功の象徴」
 それがここにある左文字の刀に持たされた、現在の価値だ。
 誰が選び、誰が手にしたのか。その来歴にどんな意味を持たされているのか。それもまた確かに刀の価値であると、彼女は言いたいのだろう。
「前の主を討ち滅ぼした男の功績の象徴にされることは、貴方にとって思うところもあるかもしれないけれど」
「何も思うところはない、と言えば嘘になりますけど。そこは僕も武将の刀ですから、戦乱の世の習いとして受け入れてはいますよ」
「それなら良かった」
 そんなことを刀に聞くこと自体が間違っているのではないだろうかと思いつつも、そんな風にすらすらと答えられる自分に少し驚いた。問われるまで考えたこともなかったが、恨むような感情は自分の中には無かった。もう少し側で彼を見ていたかったと、思うことはあるけれども。
 しかし左文字の刀に対する彼女の信長への助言は、夫を立てる妻の範疇を越えている気がする。もっと政治的で、戦略的な話だ。
「貴女と信長は……まるで夫婦というよりも、戦友のようですね」
「あら、そうだったら嬉しいのに」
 ――濃姫はひどく変わった、そしてとても頭のいい女だ。もしも斎藤家に男として生まれていれば、異母兄である義龍以上に信長の脅威となっていたであろう。
 けれど、たられば話に意味などない。
「私にできることは助言だけ。この家の中で、あの人を支えることだけ。それをまるで、かごの鳥のようだと思うこともあるけれど」
 そのこと事体に不満があるわけではないのだと、溜め息をつくように笑って見せた。

 

 美濃から来たから濃姫。
 彼女は信長による美濃攻略の際、前当主である道三の娘婿である信長こそが、美濃の正当なる後継者であることの証明となる。そこに彼女自身の、個人としての価値はない。いかに頭が良くても、機転がきいても、まるで枠の中に納まるように彼女の役割は決まっている。
 そんな彼女だからこそ、左文字の刀を持ち歩くようにと、信長に進言することが出来たのだろう。
 似ていると、思ったのかもしれない。

 

 父である斎藤道三を討ったあと病没した義龍の、その息子である龍興を討った信長がついに美濃を手中に収めて、斎藤家当主の居城であった稲葉山城を岐阜城と改めて拠点としたのは、それからしばらく後のことだった。
 己の故郷を、実家を滅ぼした信長のことを、美濃から来た姫はどのように思っているのだろうかと囁きあう声に、なるほど、と左文字の刀はひとつ納得をした。
 義元と信長のことについて、思うところもあるかもしれない、と。わざわざ問うて来たのは、彼女自身がそう言われ続けて来たからなのだろう。そして彼女自身はそれについて、自分と同じように思っていた。だから答えを聞いて、良かったと笑ったのだ。
 何も思うところはない、と言えば嘘になるが、だからと言って他の者に心配されるようなことも何もない。
 今ここにいる彼女は信長の正妻で、今ここにある自分は、信長の愛刀。
 その出自に、来歴に、どんな意味や役割を持たされていたとしても。信長の側にある時にはそれ以外の何ものでもなかった。

          *

 焼け落ちた寺の境内には、無数の武具が転がっていたはずだ。その中から、他の刀剣たちと同じように焼けていた自分が真っ先に拾い上げられたのは、目立つ銘が刻まれていたからに他ならない。
 幸いにもさほど損傷の大きくなかった左文字の刀はすぐに修繕を施され、新たな拵えも作られた。それらを命じたらしい、見慣れたサル顔の男は泣き顔をくしゃくしゃにさせて、間に合ってよかったと何度も頷きながら笑っていた。
 その言葉の意味は、すぐに知れた。

 

 本能寺で討たれた信長の法要は、その首も遺体も見つからないまま部下である秀吉の手によって盛大に行われたが、それとは別に行われた小さな法要に、秀吉は再刃した左文字の刀を持って行った。
「安土殿が殊の外、この刀を気に掛けていらしたと覚えておりました故」
「そういうところは相も変わらず、あなたが一番敏いのね。藤吉郎」
 昔の名で呼び、目を細めて笑う。法要の喪主は、安土殿と呼ばれるようになっていた濃姫その人だった。
 しばらく一人にして欲しいという濃姫の言葉に頷いて、部屋から下がった秀吉はそのまま人払いをする。静かになった部屋の中で、左文字の刀と一人向き合った女は、いつかのようににこにこと微笑みながら声を掛けた。
「そこにいるんでしょう?」
 刀の周囲に、ふわりと立ち昇る霧のような姿の付喪神を見ることができるのは、再刃したあとでも彼女ただ一人だ。
「貴方にお願いがあるの」
「お願い、ですか」
 てっきり信長の最期の様子を聞かれるのだと、無意識に身構えていた左文字の刀は拍子抜けしてしまう。
 自分はもう信長の刀ではなく、再刃したことにより刀としての本分も失いかけている。斬れないということはないが、名刀と呼ぶには程遠い。ただ信長の所有物であったという、一目見れば誰にでもわかる銘が刻まれているだけの、そんな自分に何を願うというのか。
 訝しげな相手の様子に気が付いたのか、少し昔話をしましょうか、と濃姫は笑った。
「まだわたしが美濃にいた頃、父上はいろいろなはなしを聞かせてくれました。国のこと、戦のこと、都のこと。戦って国を獲ること、そして、戦わずして国を盗ること」
 織田家に嫁ぐことが決まる以前から、美濃の姫として大きな縁談が来ることは誰もが予測していたのだろう。そして道三ほどの男が姫の才知の高さに気がつかないはずがなかった。なるべく多くを教え、その糧としようと考えたであろうことは想像に難くない。
 けれどそれは、美濃の姫としてのものであり、それ以上の意図はなかったはずなのだが。
「そのたくさんのはなしを聞きながらわたしは、夢を描いた。――わたしは、天下を取りたかった。天下取りの戦に参加したかった」
「それは……」
 女が当主になることは、あり得ないことではなかった。けれどそれは、例えばまだ幼い次の当主が育つまでの中継ぎとしてのもの。あくまでも代理としての存在だ。
 それは彼女もよくわかっていて、だから『夢』でしかないのだと笑う。
「でも、あの人が、上総介様が義元を討った時。この人ならば私の夢を叶えてくれると、天下を取れると。そう思った」
 自分自身では叶えることはできないけれど、それが叶う様を隣で見ることは出来るかもしれないと。そして微力ながらも、それに力添えすることができるかもしれないと。
 美濃の姫として。信長の正妻として。
 ――そんな大それた夢も、あっけなく潰えてしまったのだけれど。
「だから、ね。左文字の刀。貴方には『天下人の象徴』になって欲しい」
「信長公は天下を取っていないのに?」
「だからこそ、貴方にお願いしているの」
 いったい何を言っているのだろうかと首を傾げる相手を、女はまっすぐに見据える。
「貴方を手にすれば天下を取れる。だから織田信長も、謀反さえなければ確かに天下を取れる人であった。そう人々に思わせたいのです」
 もちろん刀がそこにあるだけでどうにかなる話ではないので、藤吉郎にも協力してもらうことになるけれど、と。もうすでに決まったことのように話を続けていく相手に、左文字の刀は慌てて問いかけた。
「どうしてそんなことを」
「わたしに、夢の続きを見せて欲しいから」
 抱いた夢も、託した夢も、叶うことはなかったから。せめて、あるかもしれなかったその続きを。
 彼と共に見たこの夢には、確かに続きがあったのだと。
「それをどうして、僕に」
 百聞は一見に如かずとはよく言ったもので、目で見た情報ほど強烈に残るものはない。そういう意味で言えば、一目で信長の刀だとわかる印を持っている自分は確かに適任であるのかもしれない。
 けれど他にも、方法はいくらでもあったはずだ。それでもこの左文字の刀を選んだ理由は。
「だってあなたも、きっと、私と同じだと思ったから。天下人になったあの人の姿を、彼の隣で見たかったでしょう?」
 微笑みながら問いかけられて、左文字の刀は答えることができなかった。そして否定することもできなかった。
「僕はただ、――」
 あの人のことを。

 その時自分が何と答えたのか、忘れてしまった。それを忘れたことすらも忘れてしまっていた。
 それどころか、この時のやり取りの記憶ごと、二度目の炎の中で失ってしまっていた。
 決して忘れてはいけなかったのに。それはとても、大切なことだったのに。

          *

 そういえば、と。
 文机に向かって筆を持ったまま、不意に思い出したように声を上げた審神者に、横にいた宗三は「なんですか急に」と眉を顰めた。
 聞けば、宗三にはいくつか他の呼び名もあるのだと誰かに聞いたらしい。どうせ長谷部あたりが余計なことを言ったのだろうと溜め息をつきながら、肩を竦めて答える。
「今までどおり宗三左文字と、お呼び下さい。今の僕はもう、『天下人の象徴』ではないのですから」
 首を傾げつつも素直に頷いた審神者に、宗三は何も言わず、ただ眉尻を下げて笑う。それが彼女の笑い方に似ているのだと気が付いたのは、彼女の、あの言葉を思い出したからだ。
 自分は濃姫の「お願い」を十分に叶えたと思う。信長は天下人にはなれなかったが、天下人として今や多くの人々に認識されている。それはもちろん、左文字の刀の力だけではない。けれども彼女に託された役目は十分に果たされたのだ。
 秀吉が自分を大切にしていたのは、自分が『天下人の象徴』だからではなく、自分を『天下人の象徴』とするためだった。その子である秀頼が天下を取るつもりがないことを証明する代わりに家康へ譲り、そして続く歴代の将軍たちが焼き直してでも手元に置いたことで、それは確かなものとなった。
「まるでかごの鳥のようだと思ったのは、その時代のことでしたね」
 平和な世では使われることがあるはずもなく、ただそこに在ることだけを求められた。けれどそれには、確かに理由があった。
 二度目の焔の中で、すっかり忘れてしまっていたけれど。

 

 審神者から預かった、書き上げたばかりの報告書を手にして庭に出る。
 本丸のシステムのひとつである景観ホログラムは秋の晴天を天井に写し、よくできた偽物だと知っていても、突き抜けるような青は気持ちがいいものだった。
 審神者と呼ばれる今の主は天下人などではなく、だからその刀である自分も、ただの『左文字の刀』だ。
 ただの刀として戦う、その慣れない自由に、まだ戸惑いはあるけれども。そしてそれが、あの青空のように仮初めのもであることもわかっているけれど。
 ――周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。
 蝶の見た天下の夢は、誰の夢になったのか。誰の夢として、ひらひらと舞い飛んだのか。
 彼女の夢はいつから彼の夢に、そして自分の夢になっていたのだろうか。そもそもそれは、彼女に言われる前から自分たちも見ていた夢ではなかっただろうか。
 どれが本当のことなのかわからない。きっとどれも本当のことだから、ただの刀には関係のないことだ。

「僕はただ、――あの人のことを。それほど嫌いではなかったのです」

 たぶん、貴女と同じように。

 だから最期の時は他のどの刀でもなく、信長の愛刀である自分を手にして欲しかった、と。そのことだけは彼を恨んだ。
 彼女が、信長の正室として、彼の横で最期を迎えられなかったことをきっと恨んだように。
 一振りの刀と、一人の女は、それでもその役目を終えることは出来なかった。信長が死んでも濃姫は信長の正妻であり、左文字の刀は信長の愛刀だった。
 そして彼女の願いのために、自分は更なる役目を背負うことになって。
「僕には少し、荷が重すぎましたよ」
 まったく面倒な願いを託してくれたものだと、思えば彼女には最初から大層なものばかり背負わされていたと。今更のように文句を呟いて。
「ねえ、帰蝶様」
 一振りの刀は、一人の女の名を呼んで。彼女によく似た顔で笑った。

 

 

2015/11/15