「見ろよ之定! すげぇ花だな!」
そう言って満開の藤の花の下、振り返って笑った和泉守兼定に歌仙兼定は苦笑を浮かべた。
「君のそれは、どうにかならないのかな」
「それ?」
なんのことだろうかと不思議そうな顔をする、兄弟と呼ぶには少し代を下りすぎた相手に、歌仙は子供を諭すように説明する。
「この藤の花は確かに美しい。本当に見事なものだ。だが君はそれを『すげぇ』の一言で済ませてしまう」
「だめ、か?」
「君は先日、畑仕事の時、立派な芋を掘り当てた時にも同じ言葉を使っただろう。その時のそれと、今のそれは同じものかい?」
「うーん……」
違うとは、本人も思っているのだろう。けれどそれを言葉に表すことはできないようだ。
「その、違いをちゃんと言えたら、あんたが言う風流ってやつなのか?」
「そうだね。言葉に含まれる機微を見分けて使い分けられることは、確かに風流だ」
「あー、だから季語とかいろいろあんのか」
あれはちゃんと使い分けていたんだなと、なにやら違う部分で納得したらしい相手に、歌仙は少し驚いたように聞き返した。
「よく知っているじゃないか」
「主――前の主が時々、句会に参加してたから」
「句会か」
なるほど、と頷いた歌仙は記憶を辿る。彼の前の主はかの有名な組織に入る前、江戸郊外の豪農で育ったと聞いていた。徳川の世の終り頃、そのような家では宗匠を招いて月並句会を開いて連句を行うことが多かったはずだ。彼の前の主もそうやって詠むことを学び、作っていたのだろう。
「君の主の時代だと、詠んでいたのは発句か」
「そう、それ」
「えっ?」
驚いたように声を上げたのは、近くでなんとはなしに二人の話を聞いていた加州清光だった。その隣で大和守安定も目を丸くしている。
「あの人、句なんて詠むような人だったの?」
「全然そんなイメージ無いんだけど」
「……どういうことだい?」
清光と安定の二人の前の主は、和泉守の前の主と共に件の組織で戦った仲間であり、まだこの本丸には来ていない長曾根虎徹の前の主と共に、それ以前からの付き合いでもある。
その二人が知らず、けれど和泉守はそんなはずはないと主張している。前の主が作ったものだという発句をいくつか披露するものの、それを聞いている二人の傾げた首の角度が鋭利なものになっていくばかりだった。
和泉守が披露したもののほとんどは、素人らしいそれこそ月並の句ではあるが、それなりの秀作もいくつか紛れている。それだけ時間をかけて数多く詠んできた証拠であろう。
しかしどちらかといえば、そんなものに興味などなさそうなのに、それらをきちんと覚えている和泉守に対して歌仙は感心していた。
「何でお前らひとつも知らないんだ!」
ついに叫びだした和泉守の肩を、いつのまに来ていたのか笑いを堪えた堀川国広がぽんぽんと叩く。
「兼さん、その二人は知らなくて当然だよ」
「何でだよ国広」
「だってあの人、京都ではひとつも詠んでいないから」
清光と安定の二人が前の主の佩刀になったのは京都に上がってからのこと。それ以前の、江戸にいた頃のことを、直接には知るはずもない。
「江戸を出て以降、あの人が句会に参加するようになったのは函館に行ってからだよ。だから兼さんは知っているけど二人は知らない」
それにねぇと、今度はなぜか歌仙の方を見ながら国広は苦笑を浮かべて見せた。
「兼さんが今挙げた句は、ほとんど江戸にいた頃に作ったものなんだけど。兼さんはそれを、あの人と別れて遺品として送られて、大事に保管されている時に覚えたんだよ」
「つまり?」
「直接、関節の接点を問わず、あの人を慕って次々に訪れる人たちは多かった。その人たちが、見せてもらったあの人の遺した発句集を、あの人を想いながら口にしていたから」
だから耳に残っていたのだ、と。
「僕はそうやって過ごした時間が兼さんよりも短かったせいか、兼さんほどには覚えていないのだけれどね。ああ、でもあれは覚えているよ。えっと――『早き瀬に力足らぬか下り鮎』かな」
「国広、それ違うぞ」
国広が歌仙に向かって説明している間、清光や安定とぎゃいぎゃい騒いでいたはずの和泉守がすかさず訂正を入れる。
「それはあの人が詠んだものじゃない。あの人の部下が、あの人の死を伝える手紙の最後に添えるために詠んだものだ」
「あれ、そうだっけ。僕は手紙しか見てないから……」
「俺はぜんぶ見てたから、知ってる」
国広は途中で故郷に送られ、和泉守は前の主の最期を見届けた。だからそこで、少しだけ情報に差ができてしまっているのだろう。
「でもさー、部下の誰だか知らないけど、自分の主を下り鮎に例えたりする?」
清光の問いに和泉守はうっと声を詰まらせる。見ていて、覚えていても、句を解釈することは彼には難しいだろう。
早き瀬に……と口に乗せて。ふむ、と小さく唸った歌仙が和泉守の顔を見上げた。
「その句には詞書、タイトルのようなものはあったのかい」
「あったよ。『隊長討死せられければ』って」
「隊長がお亡くなりになったので、作った手向けの句です、かな」
これは解釈のひとつに過ぎないけれど、と前置いた上で、穏やかな声で歌仙は続ける。
「『下り鮎』というのは、詠み人自身のことだったのではないかな――その彼は、それからどうしたんだい」
「俺を遺品として他の隊士に手紙と共に託して、自分は五稜郭に残るって……最後まで見届けるって、言ってたな。あの人に後を託されたから、って」
「ならばもしかすると、早き瀬の流れのその先を、見届けようとしたのかもしれないな」
抗うことも乗り越えることもできなかった激流に、流された先には何があるのか。あるいは、共に激流を乗り越えられた先に何があるはずだったのか。
「もちろん僕の勝手な憶測に過ぎないが、ずいぶんと風流な話じゃないか」
「なあ、之定」
次の編成と出陣先が決まったのだろうか、審神者に呼ばれた歌仙兼定の背に、共に呼ばれて後ろから付いて歩いていた和泉守兼定が不意に声をかけた。
庭に面した屋敷の廊下はよく磨き上げられている。きゅっと音を立てて立ち止まり、なんだい? と振り返れば、相手はなにやら神妙な顔で歌仙を見下ろしていた。
「言葉にできない想いを句や、うたにして詠むことは、あんたが言う風流なのか」
「うん、そういう見方もできるね」
君もわかってきたじゃないかと笑ってみせながら、その肩に乗っていた藤の花びらをひょいとつまみ上げて、庭へと落とした。ひらりひらりと左右に揺れながら、薄紫の花びらはゆっくりと地面に落ちていく。
歌仙を生み出した刀匠と同じ和泉守を、最後に名乗った刀匠が打った刀である彼はとても素直な性格で、思ったことはなんでもそのまま口にすることが多い。それはもしかしたら、刀として人に触れていた時間の長さの問題でもあるのかもしれない。
人には言葉にできない、或いは言葉にすることを許されない想いが、たくさんあるものだから。それを季節の花々に、移りゆく景色に、託してうたう。
早き瀬の句を詠んだ、後事を託されたという部下は、けれど本当は共に果てたかったのではないだろうか。最果ての地まで付いて行くほど慕っていた相手だ。それを誰にも言うことはできなかったけれど、せめての思いで句に託した。
すべては勝手な憶測でしかなく、本当のことは本人にしかわからないとしても。もしかしたら当の本人にも、本当のところはわからなかったのかもしれないけれど。
「之定」
「なにかな?」
「……ありがとう」
それはいったい、何に対する礼だったのか。
ただ、何か憑き物が落ちたように晴れやかな顔の相手に、歌仙は穏やかに笑って見せた。
*
審神者と呼ばれる存在の、不思議な力によって人と同じ姿形を得た今から思えば、それはとてもぼんやりとした記憶だった。それでも確かに覚えているのは、それが自分という存在を形作る元となった記憶だからだろう。
今の自分の姿形は、自分という無機物が持っている『記録』を『記憶』に置き換えて実体化させたものなのだろう。それはとても曖昧なもので、だからこそ一番強い記録が記憶として具現化されているのだと思う。
自分にとってのそれは、確かに前の主とその周辺の記憶だ。他には何も持っていないのだから。
*
焦燥に駆られながら書き上げたその手紙は、横から見ても明らかに斜めっているようだった。焦る必要があるのかどうか、主を失ったばかりの兼定にはわからない。
筆を置いて、詰めていた息を細く長く、ゆっくりと吐きだした男は、それから兼定を見た。壁に立てかけていたそれを手に取って、荒れた手でそっと撫でる。
兼定の主の遺骸を葬り、その所持品を遺品として五稜郭内の奉行所に持ち帰ったのは彼だった。取り乱している周囲の者に指示を出し、戦場の混乱の中でも的確に処理を行い、必要な報告を終えて一人きりになってから手紙を書き始めた。
それは主の死を、故郷に伝えるための手紙だった。詳細はこの手紙を持って行った者に聞いて欲しいと書いているから、彼自身は行かず誰かに頼むつもりのようだ。死の瞬間に立ち会ったものは確かに彼の他にもいた。
自分も人と話すことができれば詳細に説明できるのにと、兼定はぼんやりと思う。刀である自分は、遺品として手紙とともに送られるのだろう。まだ戦えるのに、ここで戦いたいのに、最後までここにいたいのに。それは叶わない。
「先生、」
男がぽつりと呟く。小さな声は、薄闇の中に空しく響く。
ふっと声が漏れて、ぽたりぽたりと、鞘に落ちてきた滴が涙と呼ばれるものであることを兼定は知っていた。出会ったばかりの頃、前の主がそれをぽろぽろとこぼしていたから。
「先生、どうして、」
兼定を抱きしめながら、男は静かに泣き続ける。
「どうして俺たちを置いて、いってしまったのですか」
子供のように声を上げることはできないまま、押し殺した嗚咽の中で、どうして、どうしてと子供のように繰り返す。
そうやって問いかけたところで明確な答えなどなく、もちろん返る声もない。そんなことはわかっていて、それでも問わずにはいられないのだろう。
こんな北の奥地まで来て、それでも主は死ぬつもりなどなかった。それは本当のことだ。けれど、この戦いの先まで生き抜くことができないであろうことも、みんなわかっていた。だからこれは、いつかは来るとわかっていた日で。
「それでも俺は、」
いつまでもそばに、貴方に付き従っていきたかった、と。呟いた安富は不意に顔を上げて、再び筆を手に取った。
隊長討死せられければ―――
2015-05-05