四、
伸ばした手は届かない。歩む足は辿り着けない。
それがどんなに遠くとも、たとえ最初から結末がわかっていたとしても。未練を残すくらいなら、そして手足があるのならば一度くらい、諦めずに足掻いて欲しかった。足掻いてみたかった。
──きっと、それが自分の出した答えだ。そうして何かを強く望む心を持ち、手足を持つ身体を得た。
だから手を伸ばす。遠い空の果てにある天下に。深い海の底にある珊瑚に。
「え、海に入ったことないの?」
「必要がない」
丸めた座布団を枕にして寛いでいた笹貫の声に、書物から顔を上げることなく稲葉江は答えた。
笹貫が稲葉江の部屋で遠慮なく過ごすようになった当初は律義に読書を中断して話を聞いていたのだが、他愛もない雑談に対してそこまでする必要はないと今は学んでいる。
それが学びなのかどうか稲葉江にとっては微妙なところだが、どちらにしても笹貫が気にする様子はなかった。彼にしてみればどちらでも構わないのだろう。確実に聞いて欲しい大事な話であれば、笹貫もそれなりの態度で切り出す。
「この前の連隊戦は?」
「我が呼ばれる理由がない」
「来年か再来年には呼び出されると思うけど」
修行に出たら水砲兵三人抱えられるようになるだろうし、という笹貫の言葉を聞いて、ようやく稲葉が顔を上げた。
「何の話だ」
「んー、戦術の話?」
笑いながら立ち上がり、ごろごろと寝転がっていたせいで乱れたシャツの裾を直した笹貫は、自分のサングラスと共に茶棚の上に置いてあった稲葉江の帽子を手に取る。
「じゃあ行こっか」
「……今から?」
「今から行けば夕飯までには戻れるだろ。どうせ波打ち際に足をちょっとつけるだけになると思うし」
そう言いながら笹貫は本に栞を挟み、稲葉の頭にぽすんと帽子をかぶせた。
本丸から歩いて行ける距離にある浜辺は、稲葉江が知っている海とはずいぶん様子が違う。まるで南国のように遠くまで透き通った青い海と、キラキラと小さな光が無数にきらめく砂浜が広がっていた。
「うん。川もよかったけど、やっぱり海がいいな」
履物を置いて、素足で浜辺を歩きながら笹貫が笑う。夏の連隊戦が終わったばかりの今の時期は人影もなく、ただ繰り返す波の音だけが聞こえる。
「貴様は、海を厭わないのだな」
「捨てられたのに、って? そこはほら、波平の刀だし」
波は平らかに行くは安し――自ら打った刀を捧げることで荒れ狂う海を鎮めた伝説を持つ鍛冶師の刀だ。
「でもちゃんと、怖いよ」
怖いけれど嫌いではない。克服する手段を得て、その上で笹貫は笑う。
掴みどころのない男だという印象は、結局のところ、彼が物事を柔軟に捉えようとしているから生まれるものなのだろうと稲葉江は考えている。拘らず、凝り固まらず、立ち止まることなく歩き続ける。それでも彼を形作った物語と、そこから彼自身がたどり着いた答えが変わることはない。
帰るために、そのただひとつの望みのために彼は何度でも足掻いてみせる。物言わぬモノとしてただ待つことしかできなかった頃とは違う。待つだけの身の無力さを知っているからこそ、最後まで決して諦めることなく。
自分たちは、手足を持つ身体を得たのだから。
「ところで稲葉、なんでさっきから突っ立ったままなの?」
「……波が引く時に、足がぞわぞわして、動けん」
打ち寄せた波が引く時に、砂を崩して連れていく。しっかりと踏みしめているはずの両足の周りからさらさらと流されてしまう。先ほどから稲葉江がずっと眉を顰めていたのはそのせいだったのかと、笹貫は笑ってしまった。
「わかるわかる。オレも最初は動けなくなった」
ほら、と目を細めた笹貫が手を伸ばす。その手を取って、寄せる波を小さく蹴り上げながら稲葉江は歩き出した。
ぺたりぺたりと二人分の足跡が浜辺に並び、波に流されて消えていく。
天下の夢は、遠い空の果て。珊瑚は深い海の底に。浜辺に流れついたそのカケラは、縁もゆかりもない誰かに拾い上げられて。
そうして今は、伸ばしたこの手の届く場所に。