三、
畑当番の途中、あまりの暑さに稲葉江が思わず唸ったところで、「ちょっと休憩しようか」と桑名江に声を掛けられた。
井戸端の木陰に避難して、降るような蝉時雨の中で稲葉江が帽子を取って汗を拭えば、その隣でもう一人の畑当番である笹貫も適当にうしろ髪を結い直している。井戸水で冷やしていた大きなヤカンには、厨で入れてきた麦茶がたっぷりと入っていた。それに気が付いた稲葉江は横に添えてあった湯呑みに注いで桑名に手渡す。
少し前まで「何故我がこんなことを」と文句をこぼしていた稲葉江が、そのまま黙って笹貫の分と自分の麦茶も湯呑みに注いでいる。そんな同派の様子をしばらく笑顔で眺めていた桑名江は、そうだ、と思い出して帽子を被り直した。
「僕、川の方を見てくるから。二人はしばらく休憩してて」
「はーい」
いってらっしゃーいと、ひらひら手を振る笹貫と共に桑名を見送った後、稲葉江の耳に聞こえてくるのは蝉の声だけになってしまった。
見上げれば、まぶしいほどの青に真っ白な入道雲が立ち上がっている。見事に夏そのものといった空を、湯呑みに口をつけたままぼんやりと眺めながら何を連想したのだろうか、笹貫が不意に口を開いた。
「結城秀康って、どんな男だった?」
問いの意味を図りかねて、黙って相手の顔を見る稲葉江に笹貫は軽く笑って見せる。
「名前くらいはもちろんオレも知ってるけどね。詳しいわけじゃないから」
乱世に数多くいた武将の一人。九州の刀である笹貫からすればその程度の認識だろう。
ただ、彼には他の武将とは明らかに違う点があった。
「徳川家康の実子で、一時的とはいえ豊臣秀吉の養子となった男。天下人である二人の名前を譲り受けておきながら、天下を掴むどころか関ヶ原の大舞台で名を上げることすらできなかった。で、合ってる?」
「合っている」
天下を二度も逃した男──そう語り継がれる彼は、稲葉江の元の主の一人である。
「稲葉はどう思ってるの?」
「どう、とは」
「歴史でも物語でもなくて、その目から見た『結城秀康』はどんな男だったのかな、って」
「……そんなもの、考えたこともなかった」
「まあね、刀のままなら考える必要もないし? でも、オレたちはこうして心と身体を持っちゃったんだよね」
ぺたり、と笹貫の手のひらが、稲葉江の汗ばんだ胸元に触れる。薄い布地越しに感じる熱い手のひらの下で、その心臓は規則正しく脈打っている。
意識しなければ、こうして触れられなければ気が付かないほど当たり前のことは、本来であればまったくありえないことだった。
「考えて、答えを出したからオレたちは心と身体を得た」
そうして今、ここにいる。
──軽薄そうな男。かと思いきや、ひとたび戦場に出れば勇猛果敢かつ冷静沈着。そんな薩摩の刀でありながら主のためにと命を捨てることなく、主の元へと必ず帰ろうとする刀。
時を経るごとにわからなくなる隣室の男は、結局、掴みどころのない奴だという初めの印象だけがそのまま残っている。聞いてもわからない、見ても理解できない、けれど隣にいて言葉を重ねることで、徐々に知っていくものはあった。
彼が言わんとしていることも、恐らくはそういうことなのだろう。歴史書に綴られたものでも、物語として語り継がれたものでもなく、稲葉江が直接触れた結城秀康という一人の男の話。
「我は……」
「その答えが見つかったらオレにも教えてよ」
「何故?」
「珊瑚の理由もそこにあると思うから」
いつかのお礼に笹貫が渡した小さな珊瑚の欠片は、今も稲葉江の部屋で大切にしまわれている。結城秀康と珊瑚の話について笹貫は御手杵から聞いていたが、稲葉江本人の言葉としてはまだ聞いていない。
「それは、」
「おーい」
稲葉の声を遮ったのは桑名の声だった。トウモロコシ畑をかき分けて戻って来た桑名の姿を見て、笹貫と稲葉はゆっくりと立ち上がる。
「休憩終わり?」
「いや、今日はもう当番おしまい。ほら」
そう言って桑名が指さした先を見れば、青々とした山の向こう側から黒い雲が迫ってきているのが見える。数時間後には雨が降り出すだろう。
「ここの片づけは僕がやるから、二人は川で冷やしてある野菜を回収して厨に届けてくれる?」
きゅうり、トマト、茄子に小玉のスイカ。竹籠ごと川の浅瀬に浸していた野菜を引き上げて台車に乗せていく。
「これで終わりかな?」
ぐぐっと腰を伸ばしながら笹貫が、回収漏れがないことを確認するためにあたりを見回した。真夏の川のせせらぎは、キラキラと跳ねる波しぶきだけでなくその音を聞くだけでも涼を誘う。
「雨雲が近い。戻るぞ」
「そうだね」
答えた笹貫は川に背を向けようとして、足元が縺れる。濡れた岩で足を滑らせたのだと、気が付いた時にはもう遅かった。ぐらりと身体が傾いて、持ち直そうとした足が更に空を滑る。慌てて何かを掴もうと手を伸ばす。
「おい!」
声を上げた稲葉江が伸ばされた笹貫の手に向けて、咄嗟に自分の手を差し出して――そうだ。手を伸ばすことができる。この身体は、自分の意志で。
そんなことを思いながら笹貫の手をしっかりと掴んで引き戻し、そのまま勢いで相手の身体を抱き抱えた。
「びっっっくりした……」
「それはこちらの台詞だ」
「本当だ、心臓がバクバクしてる」
稲葉に抱きすくめられたままの笹貫が胸元に耳を寄せて、笑う。そんな彼の脈拍が早いことも伝わっていたので、笑い事ではないだろうと咎める気も失せた。
二人で慎重に川から離れて、台車を置いている草地に戻ってからようやく安堵の息を吐く。
「いやぁ、落ちて流されなくてよかった。この川、どこに繋がっているのかわからないし」
「海だろう」
「あー、そっか。じゃあ頑張れば自力で戻れるか」
捨てられた、わけではないのだが、どこに行こうと自分の力で戻ればいい。今の自分にはそれができる足がある。
──けれど、かつての自分が本当に願ったのは、それではなかった。
「たぶんオレは、捨てられる前に、今みたいにこの手を伸ばしたかったんだよね」
あの竹藪の中で。或いは暗い海の底で。
「まあ、それも手足を得た今だからこそわかることだけど。刀の頃にはそんなものなかったから、ただ光るだけ」
「……十分に怪異だが」
「妖刀と呼ぶにはささやかすぎるでしょ」
鬼や異形を切ったわけでも、夢枕に立ったり霊力を放つわけでもない。ただ、見つけてもらうために光るだけ。
「稲葉にはまた助けられちゃったな」
そう言って笑う。その言葉はきっと、そのままの意味ではないのだろう。今の稲葉江には笹貫が言葉にしなかった思いが少しだけわかる気がした。
今目の前にいる彼が助けられただけではなく、かつての彼も少しだけ救われた。笹貫が伸ばすことのできなかった手を、誰も掴むことのないはずのその手を稲葉が掴み取った。
「……結城秀康は、手を伸ばさなかった」
「さっきの話の続き?」
「そうだ。あの男には伸ばすための手があり、歩くための足があった。それでも彼の者は本当に欲しいものに手を伸ばすことなく、家康から我を受け取ることで──父親からの信頼を受け入れて、動かないことを選んだ」
結城秀康は天下を掴み損ねたのではない。天下人に近い場所にいた、天下人の子であるからこそ、それに手を伸ばすことを許されなかった。そのことを冷静に理解できてしまう男だった。
父親の命運が決まる、その大いくさである関ヶ原の合戦。天下人となる父の隣で武人として華々しく活躍し、やがては天下人の跡を継ぐ、その夢物語を自らの手足で封じた。
我は天下一の男となることかなわず──天下に幾千万とある男の中の一人に過ぎない。
「我はその無念を思う。決して愚かとは思わない。だが、足掻く前に諦めたことは承服できない」
たとえそれが天下泰平のため、新たな混乱を世に齎さないためであったとしても。
それでも彼には、足掻くための手足があったのだから。
「だから、我は手を伸ばす。……今のところ、この手で掴めたのは天下ではなく貴様の手だけだが」
それも悪くはない、と稲葉江が笑ってみせれば、笹貫は驚いたように目を丸くした。その顔を見るのも二度目だ。
「そんなこと言われたらオレ、自惚れちゃうけど」
「何とも思わない相手に、何度でも探し出すなどと約するわけがないだろう」
「だってそれは珊瑚のお礼って、……あー」
天下にただ一人だけの。それに似合う珊瑚を。
「やっぱり大事な話だったじゃん」
海の底から、荒波に揉まれながら浜辺に流れ着いた珊瑚を拾い上げて、先に深く踏み込んだのは笹貫の方だった。