珊瑚は海の底 - 2/4

二、

「笹貫さんがいません!」
 隊長である前田藤四郎の悲鳴のような声が上がったのは、山中を駆け抜ける撤退戦の最中だった。本丸への帰還ポイントまでもうあと少し、というところで、いつのまにか太刀が一振りいないことに気が付いた。
 そこまで誰も気が付かないほどの退却であったと言えばそれまでの話ではあるのだが。
「お前たちは先に本丸へ」
 絵に描いたように見事な、苦虫を嚙み潰したような顔でそう言って仲間たちに背を向けたのは稲葉江だった。毛利藤四郎がその隣に駆け寄る。
「でも、」
「あの男に何かあった場合、担いで帰ることができるのは我だけだ」
 短刀たちには文字どおり荷が重すぎる。いくら刀剣男士として、見た目どおりの子供の力ではないとしても単純に身体の大きさが違い過ぎた。その武器も、誰かを抱えて逃げながら戦うには明らかに不利であろう。
 どうしよう、と困ったように振り返った毛利に、前田が頷いて見せた。
「稲葉江さんにお任せします。すぐに援軍を呼んで戻りますので、笹貫さんを見つけ次第、どこかに身を隠してください」
「承知した」
 短く答えて走り出した稲葉江に背を向けて、前田と毛利も帰還ポイントへと急いだ。

 

 敵に囲まれたのは遠征任務の途中だった。
 突破口を開き、山中を駆けるその最中。一番後ろを走っていた笹貫が一人その場に留まったのは、このままでは逃げきれないと判断したから。
 背後に迫っていた敵の短刀を振り向きざまに仕留め、続く脇差と打刀を一振りずつ倒したところで近くの竹藪に飛び込んで身を潜めた。運が良ければ敵よりも先に味方の援軍が見つけてくれるだろう。それまでは何とか一人で持ち堪えようと、そう思っていたところで。
「貴様はそこで何をしている」
 隠れ潜む笹貫を、誰よりも先に見つけ出したのは渋面の稲葉江だった。そのまま笹貫の隣に、同じように身を隠す。
「迎えに来てくれたの?」
「捨てがまりは好かない」
 確かにこの男の好みには合わないだろうと笹貫も納得する。
 あれは仲間を犠牲にすることを前提とした戦法であり、同時に、主君や仲間のために犠牲になることこそを誉とするような者たちにしかできないものだ。
 理解し、納得した上で、どうしても余計なことを言いたくなってしまう。
「関ヶ原にいなかったのに、よく知ってる」
 目を細めて笑った笹貫を睨んだ稲葉は、しかしすぐにため息を吐いた。
「あれ?」
「戦場で仲間を挑発するな」
 なるほど堅物。戦の最中に私情は挟まない。
 だからこそ、隣室でありながら決して仲が良いとは言えない笹貫を探しに来たのだろう。状況から冷静に判断した上での行動だ。
 薩摩の捨てがまり――退却の途中で留め置かれた少人数の部隊が、死ぬまで戦うことで敵を足止め、全滅したあとは別の部隊が同じように足止めし、繰り返すことで本隊と大将を逃がす。その決死の撤退戦法が有名になったのは関ヶ原の合戦、島津の退き口と呼ばれる戦いのこと。
 その時の持ち主が関ヶ原の戦場にいなくても、同時代を生きた武将の刀として話を聞く機会は多かっただろう。そして薩摩の刀であれば、と稲葉江が思ったのも当然の流れだった。
 竹藪の中で身を寄せ合ったまま、相手につられて冷静になった笹貫は小さく苦笑を浮かべる。
「捨てがまり、かぁ。最初からそんなつもりはなかったよ。オレは必ず、帰る刀だから」
 本丸に。主の元に。刀として得た伝説の結末のとおりに、人の形を得た今は確実にそれを成し遂げる。
「だからこそ折れるまで戦ったりしないで、こうして竹藪に隠れ潜んで機会を伺っていたわけで。薩摩の刀としては確かに失敗作なんだろうね」
「それでは因果が逆になっている」
「そう?」
「勘違いをして悪かった」
 稲葉の謝罪の言葉に、笹貫は目を丸くする。まさか素直に謝られるとは思っていなかった。
「なんだその顔は。貴様は我の言葉に腹を立てただろう」
「怒ったというか、まあ……いや、オレの方こそ、いじわる言ってごめんね?」
「意地悪だったのか」
「たぶん」
 相手の勘違いに腹を立てたので意地の悪いことを言ってしまった。先ほどのやり取りをまとめれば、確かにそういうことになるのだろう。
 認めてしまえば簡単で単純な話だった。

 援軍と無事に合流し、敵軍を撃破して帰還した翌日。
「はい、これ。あげる」
 朝から海に出かけていたらしい笹貫の髪からは、強い潮の香りがした。
 入るよーと稲葉江の部屋にやってきて、その目の前に差し出したのは小さな淡い朱色の、美しく輝く珊瑚のカケラ。
「これは、なんだ」
「なにって珊瑚。昨日、迎えに来てくれたお礼。前に主と万屋に行った時に、珊瑚の話をしてたの思い出したから」
 もっと大きくて立派なやつが良かった? と首を傾げる笹貫に、そういうことではなく……と稲葉江は言葉を詰まらせてしまう。
「貴様は、結城秀康の珊瑚の話を知っているのか?」
「え、知らない。なんか大事な話?」
「いや。……よくある些細な話だ」
 天下に手を伸ばさなかった、伸ばすことを許されなかった男の未練の話。
 だから稲葉江は手を伸ばして、笹貫の掌から小さな珊瑚を摘み取った。
 受け取ってもらえてよかったと笑った笹貫は、それからそっと、相手から目を逸らす。
「あの時、さ。オレは何としても帰るつもりだったし、味方の援軍が来てくれるってちゃんと信じていたけど」
 それでも、と。言うべきかどうか悩みながらも笹貫は言葉を続ける。
 稲葉江が素直に謝罪の言葉を口にしたからこそ、互いの誤解を改めることができた。わだかまりなく本丸へと帰ることができた。だからもう少しだけ踏み込んで、お礼と共に本心を伝えるのも悪くはないだろうと。
「竹藪の中にいるオレをすぐに迎えに来てくれたのは、正直、すごく嬉しかった」
 仲間はたくさんいるけれど、真っ先に迎えに来てくれたのは一人だけ。それが誤解から来るものだったとしても、その誤解はもう解けている。
「そうか」
 短く答えた稲葉の反応は、笹貫の予想どおりのもの。だが、予想に反して稲葉の言葉はそれで終わらなかった。
「ならば何度でも我が探しに行ってやろう。珊瑚の礼だ」
「……やっぱりそれ、大事な話じゃないのか?」
 ねえ、ちょっと、と焦り始めた笹貫のことは気にせず、稲葉江は小さな珊瑚を丁寧に茶棚へとしまった。