四、
朝からとても風が強く、遠くの砲撃の音までもが良く聞こえるようなその日、敵軍は箱館への総攻撃を宣言していた。
箱館湾では朝から軍艦同士の砲撃戦が行われている。最主力たる開陽丸をはじめ、所有していた軍艦のほとんどを失った榎本海軍は、しかし最後に残った蟠竜丸によって奮闘していた。
箱館の最も海側にある箱館山に、敵が現れたのはその日の早朝のことだったらしい。そのまま戦闘になったというが、傾斜の急な箱館山の山頂からの攻撃になすすべもない。
「っていうか無茶苦茶すぎろうだろう」
報告を受けた土方のつぶやきに、安富が応える。
「敵軍は昨夜、反対側の海側に船を寄せて箱館山に登ったということですけれど……獣道もないような断崖でしたよね?」
「よじ登ったのか。すげぇな」
もはやすごいとしか言いようがない。敵がそんな無茶をするとは思っていなかったので警備も薄かった。むしろそこから襲われたらどうすることもできないと、軍議でもやや投げやり気味だったのだ。それほどあり得ない戦略である。
思ってもみなかった背後からの強襲に箱館市中の配備兵は総崩れを起こし、大半は対箱館湾の砲台のひとつとして用意されていた弁天台場に逃げ込んだという。そのまま箱館市中を敵軍に押さえられたら、海に突き出した形の弁天台場は完全に孤立することとなる。
そしてそこには、もともと箱館市中取締を任されていた新選組もいた。
「出ますか」
「そりゃあ行くしかないだろう」
そうしなければ何のために戦っているのかわからないと、土方が笑う。それを見て、安富も久しぶりに笑みを見せた。
既にかなり激しい戦闘になっているであろうことが予想される戦場へと向かうのだ。今まで以上に無事で済むとは思えない。それでも土方の目はギラギラと光って、悲壮感などどこにも見えなかった。
戦いに行く。勝つために。仲間を助けるために。大切な想いを守るために。自ら選んで来た道を、この先も進むために。
それが生きるということなのだと、土方を一番近くで見てきた兼定はもう知っている。
一本木関門は箱館市中の外れにある柵の名で、ここを通らなければ市内に入ることはできない。五稜郭を出てまずはそこへと至る途中で、逆に五稜郭へ向かっている大野とかち合った。彼は弁天台場で新選組隊士の相馬とともに指揮を執っていたはずだ。
「ちょうどよかった、これから援軍をお願いしに行くところだったんですよ」
「市中の様子はどうだ」
「いやもう、散々ですね。だって山からの敵襲なんて無茶苦茶じゃないですか。驚きの方が強くて、ろくな戦闘もできずに慌てて台場に駆け込んだような状態ですよ」
そんな予想外の無茶をやってのけた敵将は黒田了介、この戦いにおける薩摩側の総大将ですとの大野の報告を聞いて、薩摩なら仕方ないとなぜか妙に納得している馬上の土方を見上げて、大野が笑う。
「先生、市中を奪還し、台場を助けに行きましょう」
「もとよりそのつもりだ」
そうして合流した大野と共にたどり着いた関門で、今度は市中方面から敗走してくる一軍と遭遇した。元御家人である滝川率いる伝習隊だ。彼は陸軍奉行である大鳥が深く信頼している元幕府陸軍士官の一人でもある。
「土方さん! なんで来たんですか!」
「なんでもクソもあるか。台場の連中を助けに行くために決まってんだろ」
「あは、あっは。そりゃそうだ」
十八歳の若き士官は馬上で声を上げて笑い、それからイテテと馬の首にしがみついた。自分の笑い声が傷に響いたのだろう。足からは赤々とした血が滴り落ちている。
「足をやられたのか」
「うっかり撃たれました。情けないことに歩くこともままなりません……うちの連中を頼んでも、いいですかね」
情けなさそうに、そしてひどく悔しそうにそう告げた滝川の背後で轟音が響いた。驚いて音の方角、箱館湾へと目を向ければ、軍艦のひとつが火柱を上げている。
「あれは」
「我らの蟠竜は無事です! 敵艦です!」
安富の、珍しく上ずった声での報告に、土方はぎゅっと兼定の柄を掴んだ。そのまますっと抜いて振り上げ、切先を天高く空へと向ける。
「この機を失うな! 進軍する!」
轟沈する敵艦の姿に、土方の声に、その場にいた兵たちが湧き上がる。士気は完全に高まった。この好機を逃すわけにはいかない。
「伝習隊は私が引き受けましょう。ここから先は混戦になるはずです。土方先生は戦線を切り開くまで、この関門を守ってください」
名乗り出た大野と、それがいいだろうと頷いた土方を見て、滝川は後を頼みますと深く頭を下げた。そのまま他の負傷兵とともに五稜郭へと向かう。
「市中のことは敵よりも俺たちの方が詳しい。そのことを思い知らせてやれ!」
土方の激励と共に、大野に率いられた伝習隊の兵たちが走り出した。高まった士気と興奮そのままに、わあわあと鬨の声を上げながら敵兵へ突撃する。けれども、湾の向こうに見える台場は遠い。その距離を目の当たりにして怯んだのか、後ずさりをした兵に土方は無情にも兼定の切先を向けた。
「貴様は、戦う仲間に背を向けて逃げるのか」
「い、いえ……でも……」
「退く者は斬る! 仲間に、敵に、背を向けることはこの俺が許さん」
――士道に背くまじきこと、と。その時つぶやいたのはたぶん、土方のそばに控えていた安富だったと思う。
遠くから絶え間なく聞こえてくる砲撃と、いくつもの怒声と。騒がしい戦場で、どうしてその小さな声が聞こえたのかわからない。
けれどなぜかその言葉ははっきりと聞こえて、それから一発の銃声が高らかに響いた。
それからのことは、実はよく覚えていない。
銃声と、馬から声もなく落ちていく土方と、駆け寄ってくる安富たちの姿と。
ただ、土方は最期まで兼定を手放さなかった。そのことだけは、その手のあたたかな感触だけは、忘れずに覚えている。
*
焦燥に駆られながら書き上げたその手紙は、横から見ても明らかに斜めっているようだった。焦る必要があるのかどうか、主を失ったばかりの兼定にはわからない。
筆を置いて、詰めていた息を細く長く、ゆっくりと吐きだした安富は、それから兼定を見た。壁に立てかけていたそれを手に取って、荒れた手でそっと撫でる。
土方の遺骸を人知れず葬り、その所持品を遺品として五稜郭内の奉行所に持ち帰ったのは彼だった。取り乱している周囲の者に指示を出し、戦場の混乱の中でも的確に処理を行い、必要な報告を終えて。伝令に来ていた相馬と大野を、仲間たちが待っている弁天台場へと半ば無理やり送り出した後、一人きりになる機会を得て手紙を書き始めた。
それは土方の死を、土方の故郷に伝えるための手紙だった。詳細はこの手紙を持って行った者に聞いて欲しいと書いているから、安富自身は行かず誰かに頼むつもりのようだ。死の瞬間に立ち会ったものは確かに彼の他にもいた。
自分も人と話すことができれば説明できるのにと、兼定はぼんやりと思う。刀である自分は、遺品として手紙とともに送られるのだろう。まだ戦えるのに、ここで戦いたいのに、最後までここにいたいのに。それは叶わない。
「先生、」
安富がぽつりと呟く。小さな声は、薄闇の中に空しく響く。
ふっと声が漏れて、ぽたりぽたりと、鞘に落ちてきた滴が涙と呼ばれるものであることを兼定は知っていた。出会ったばかりの頃、土方がそれをぽろぽろとこぼしたことがあったから。
それは、近藤という男の墓参りの時だった。ついてきた他のものたちに、しばらく一人にして欲しいと告げて。だからそれを見たのはそばにいた兼定だけだ。今こうして、彼の涙を兼定だけが眺めているように。
「先生、どうして、」
兼定を抱きしめながら、安富は静かに泣き続ける。
「どうして俺たちを置いて、いってしまったのですか」
子供のように声を上げることはできないまま、押し殺した嗚咽の中で、どうして、どうしてと子供のように繰り返す。
そうやって問いかけたところで明確な答えなどなく、もちろん返る声もない。そんなことはわかっていて、それでも問わずにはいられないのだろう。
こんな北の奥地まで来て、それでも土方は死ぬつもりなどなかった。それは本当のことだ。彼の目はいつだってギラギラと輝いていた。
けれど、この戦いの先まで生き抜くことができないであろうことも、みんなわかっていた。だからこれは、いつかは来るとわかっていた日で。
「それでも俺は、いつまでもそばに」
貴方に付き従っていきたかった、と。呟いた安富の言葉で、兼定はずっと抱いていた自分自身の気持ちをやっと知ることができた。
一緒にいたかった。どこまでもついて行きたかった。
どこまでも戦い続ける、彼の刀でありたかった。
願いはただ、それだけだった。
「あんたと俺の願いは、同じだったんだな」
会津の城で、出会った時からずっと。
兼定のその声が、聞こえたのかどうか。安富が不意に顔を上げた。けれども、誰もいない部屋の中でしばらくぼんやりとしたあと、再び手に取った筆を手紙の最後に走らせる。
隊長討死せられければ―――