早き瀬に - 3/6

二、

対極であるゆえに、兼定の目から見てもあまり仲が良くないように思えた大野と安富だが、しばらく二人で新撰組をまとめることになった。紆余曲折の末にたどり着いた仙台で、大野が他の仲間たちと共に新選組入りすることになったからだ。
それを二人に命じた土方といえば、仙台集結していた旧幕府軍と再び合流した後、その代表の一人として仙台伊達家を相手に立ち回っていたため、新選組から少し離れている。それでも、会津に残ることを選ばずにここまでついてきた安富ら古参の隊士たちは、何かと理由をつけて土方の顔を見に来ていた。
お前らそんなに暇なのかと叱りながら、それでも追い返すことはしない。この人こそ情が深いのだろうと、側にいる兼定は何となく気が付きつつあった。
――そんな仙台での、ある日のこと。土方は兼定の下げ緒を、それまでつけていたものから浅葱色の組紐に変えた。黒を基調とした洋装の腰に差した、赤錆色の拵にその組紐の色は少しあざやかすぎるようで、すぐに気がついた安富が声を掛けてくる。
「先生、どうしたんですかそれ」
「慶邦様より拝領した品だ。懐かしい色だと思って、な」
「ああ、浅葱色の羽織の……」
言われてみれば、と、納得したらしい安富が改めて下げ緒を眺める。
「この兼定はあの羽織を知らないが、あれはやっぱり、俺たちの誓いの象徴みたいなもんだったから」
新選組のはじまりを作った男が、遺していったものだ。彼を排除したのは自分たちなのに、こうして彼の遺したものを想うのは勝手すぎるとは思うのだが。それでも思い入れの強いものだから、と。
「まあ、派手すぎて使わなくなっちまったけどな」
京の町でこの色の羽織なら確かに目立っただろうが、さらに派手であったという。いったいどんな代物だったのだろうかと兼定が首を捻っていると、安富が同意するように頷いて見せた。
「目立ちましたよねあれは。私が入隊した時にはもう、先輩隊士がとりあえず手元に残しているような状態でしたね」
「永倉なんかは特に大事にしていたな……」
土方はそうやって時々、兼定の知らない、ここにはいない人物の名を挙げては懐かしそうに笑うことがあった。かつての仲間の名なのだろう、ということしか兼定にはわからない。
ただそれが、土方にとってかけがえのない、大切な思い出なのだろうということは、その穏やかな笑みから察することができた。それほど大切なものを、彼はどうして手放してしまったのだろう。
「そうだ、安富。仙台を出る日が正式に決まったぞ」
「やっとですか。出ること自体はとっくに決まっていたのに、ずいぶんと時間がかかりましたね」
「まあ、ここに残る者も多くいるからな。各隊の再編成や調整に思ったより時間がかかった」
仙台伊達家と旧幕軍との交渉は既に決裂して、旧幕府軍は降伏を決めた伊達家の領地から離れることになっていた。
会津や、主戦場となった長岡や二本松などの惨状を聞いて、或いは目の当たりにした他国の、矜持よりも領民を守ることを優先させた苦渋の決断を、余所者である土方たちに責められるはずがない。しかし奥州の雄たる仙台を離れて次にどこへ向かうと言うのだろうか。軍艦、蝦夷地、箱館、という単語は土方たちの会話の中で何度か耳にしていたが、そこから想像することは兼定には難しかった。
行けばわかるか、と思っていたところに、いつもの笑顔を浮かべながら大野が土方の部屋を訪れる。ご所望のものを借りてまいりましたと、土方と安富の前にばさっと広げたのは大きな地図だった。
「予定どおり、榎本艦隊の軍艦が停泊している松島から乗船して、本州での最終寄港先はここ、盛岡南部家の領地である宮古湾だそうです。南部家はこの状況でもまだ降伏を決めていないので、追い返されるということはないでしょう。この辺りの海岸は断崖が多く、中でも大きな軍艦を寄せられるような場所は他にほとんどありません」
とん、と指を置いた場所が宮古湾であるならば、そこから南北に繋がる線は海岸線だろう。海岸線は途中で西へと折れてしまい、不思議な形を描いて日本海側へと繋がっている。その不思議な形の部分の西側に「津軽」と書かれていた。土方と他の幕臣の会話に何度か出てきた弘前津軽家のことであろう。
南部と津軽の北端から、海峡を隔てた先に大きな菱形の陸地が描かれ、そこに「蝦夷地」と書かれている。その先にはいくつかの島しか描かれていなかった。
どうやら土方たちは本州を離れて、北の果てへと向かうつもりらしい。蝦夷地は南側にしか地名の記入がなく、北側の大部分は空白地帯となっていた。これが本州で入手した地図であるのならば、あまり本州の人間が行くことのない土地なのだろう。
「この、蝦夷地の南端、本州側に飛び出した部分の窪んだあたりに箱館があります。箱館は開港地ですのでもちろん軍艦を停泊させることができる港がありますが、直接ここへは行かずに、まずはこちらの鷲ノ木に上陸するそうです」
そう言って大野が最後に指差したのは、箱館から少し離れた北側の海岸だった。
「箱館からだいぶ離れたところに上陸するんですね」
安富が不思議そうに地図を眺める。いくつもの軍艦で乗り込むのだから直接箱館に行けば良いのにと、兼定と同じことを思っているのかもしれない。
「蝦夷地とはいえまだ雪はないと聞きましたが、この距離を、大人数での行軍になりますよね? 用意できる兵糧にも限りがあるのに」
「直接軍艦で乗り込めば戦闘になる。箱館は開港地。横浜ほどではないとはいえ港町は賑わっているし、異国人も多くいる。できれば箱館の市街を巻き込むような戦闘は避けたい――そういうことだろう?」
「「あ、」」
そういうことか、と納得したように安富と兼定の上げた声がぴったりと揃ったが、それを知るのは兼定だけだった。土方先生の言うとおりですと大野が頷いて、再び地図に視線を向ける。
「我々の目的は箱館の奪還、というか乗っ取りです。そして箱館を拠点とした、蝦夷地での新政権の確立を榎本さんたちは目指しています。住民や、最終的には政権の承認者となってもらわなければならない異国人の心証を悪くするわけにはいけませんから」
開港地である箱館には奉行所があり、今は新政府側の支配下に置かれている。そこを奪還して、新しい政権を立てる。ただ戦いを続けるだけではなく、その先のことも考えていたのかと考えてみれば当たり前のことに今更驚きながら土方の顔を見れば、なにやら難しい表情を浮かべていた。
「箱館の奪還自体はそう難しくないだろう。我々以上に向こうは寄せ集めの即席軍だ。統率力も装備もたいしたことはない。だが問題はその後のことだ。榎本たちの思惑どおり、うまくいくと思うか?」
声を潜めた土方の問いに安富は首を左右に振り、大野は困ったように笑いながら肩を竦めた。
「いくら本州から離れた土地と言っても、敵さんが黙って見逃してくれるとは思いませんので」
これから徳川に変わる新政府として諸外国を相手に外交をしようという時に、国内に二つも政権があるというのは不都合な話だろう。奥州での戦闘が落ち着き次第、蝦夷地にも攻め入ってくるはずだ。それに対抗するだけの戦力があるとはとても思えなかった。
元幕府海軍の榎本率いる艦隊は、数年前に就航したばかりの最新の軍艦である開陽丸を筆頭にこの日本で最強の艦隊と言われている。とはいえその実力は、実際の戦闘がほとんどなかったためによくわからない。
それ以外の、陸戦での兵力と装備だけならば圧倒的に不利である。旧幕府軍が蝦夷地を押さえても、新政府軍が奥州を平定すれば蝦夷地以外のすべてが敵になる。
「それでも私は、箱館を死に場所にするつもりは全くありませんよ」
生きるために、大切なものを守るために戦い続けることを選んだのだから。大野がそう言えば、土方がそれはそうだと頷いた。そうして兼定と安富がじっと見守る中で、大野に向かって小さく笑ってみせる。
「戦って死ぬつもりなら最後まで会津に残った。恩義ある会津にそれでも残らなかったのは、この先も戦い抜くためだ」
それ以上でもそれ以下でもない。
自分でその道を選んでここまで来たし、それが自分の為すべきことであり。今の自分にできることはそれしかないから、と。
それは確かに、どこかで聞いた言葉だった。

海はひどい大荒れだった。まるで彼らの先行きを暗示するかのように。
けれど兼定はその船中で、そして予定通りに上陸した鷲ノ木から箱館に至るまでの行軍や、度重なる戦闘の中で。飛び交う怒声と銃砲の音を聞きながら、仙台で聞いた土方の言葉のことを考えていた。
彼には、兼定と共に託された容保公の想いがわかったのだろうか。この先も戦い続けるための刀を下げ渡された、その理由を。だから会津に残らなかったと、そういうことなのだろうか。
今までもそうやって、何かを手放してきたのだろうか。