解説(千波矢著『環の出口』)

 二年後の大河ドラマが三谷幸喜脚本による『新選組!』に決まった二〇〇二年、東京大学史料編纂所の所長である宮地正人教授の元にひとつの公演依頼が舞い込んだ。依頼元は東京都日野市。「多摩では新選組で困っている、どのように評価していいかで意見が完全に分裂しており、しかも事実と小説の境目自体が不分明なので新選組について何か話して欲しい」というものである。引き受けはしたものの、新選組のリーダーである近藤勇に関する史料編纂が行われていないという「恐ろしい事態」に驚いている(宮地正人著『歴史の中の新選組』岩波書店、二〇〇四年)
 新選組はその知名度と人気の高さ故に、語る人の数だけ様々な形の「新選組」が非常に多く存在する。小説や映画、漫画といった創作物だけでなく、学術的な研究や考証、複数の史料を使った事実確認が全くされていない関連書や伝承も巷に溢れかえっている。伝承とは噂話のようなもので、長い年月をかけて本から本へ書き写され、人から人へと伝えられていくうちに原型をとどめなくなったり、派手な背びれ尾びれで飾られたり、まったく別の伝承が生まれたりする。
 そして確かな史料から読み取ることができる「歴史的事実」だけでなく、そういった数多の出処のわからない、けれどなぜか誰もが知っているような「伝承」からも次々と創作物が生まれているのも新選組という組織の特色なのかもしれない。メディアの媒体を問わず、毎年なにかしらの新選組をテーマにした創作物が世に出されている。来年は戊辰戦争が勃発した一八六八年から数えて百五十年を迎えるが、この一世紀半の間に膨大な数の「新選組」が描かれている。

 かつて漫画家の藤崎竜は、自身の作品である漫画『封神演義』のアニメ化に対して「漫画を『メタ封神演義』とするなら、アニメは『メタメタ封神演義』である」と述べたことがあった。そもそも中国三大伝奇小説のひとつである原作を藤崎竜独自の世界観で大幅にアレンジして描かれたメタ的作品が漫画版の『封神演義』であり、そこからさらにアニメオリジナルの設定をふんだんに盛り込んだ『仙界伝封神演義』は原作小説から見ればメタにメタを重ねたメタメタである、という話だ。私は今でも黄天化が土曜日の朝からギター片手に歌い出したことについて思うところがあるが、今回書きたいのはその話ではない。
 ほとんど創作に近い数多の伝承を含む、新選組を題材にした数多くの創作物を元にして描かれた新選組が「メタ新選組」であれば、それらすらも包括してむしろメタ的にネタにしている『幕末Rock』という作品は「メタメタ新選組」なのではないか、という話である。

 本書の前半、新選組結成前の近藤たちの物語は、『幕末Rock』の二次創作であることを知らなければ「メタ新選組」を描いた作品として読めないこともない。そもそも『幕末Rock』に登場するキャラクターたちが背負う過去はそれだけを見れば、様々に改変されているとはいえ他の幕末を題材にした作品でも見られるような物語である。土方と沖田はそれぞれ別の形で近藤と出会い、近藤を敬い、共に過ごすことでやがて家族のような存在として支えあうようになる。彼らはもともと「早いうちに両親を亡くし、姉夫婦に見守られて育った」という境遇が似ていた。近藤の元で兄弟のような関係になるのは自然な流れだったのだろう。他の多くの作品と同様に『幕末Rock』の三人もそのように描かれている。
 ところが後半になると、突如として「幕府お抱えの最高愛獲新選組」というパワーワードが全力で殴りかかってくる。本書でその単語を見た瞬間に「そうだこれは『幕末Rock』だった」と目を覚ますと同時に、初めてアニメを見た時に、殴られた頭を抱えてちょっと待ってくれと懇願している間にパッション大陸が始まってしまったのを思い出した。
 カラフルで派手な衣装も、現代的なビジュアルも、数多の漫画やアニメやゲームですっかり慣れたつもりでいた。アニメを見るより先にちらりと見ていた『幕末Rock』のキャラクタービジュアルだけでは少しも驚かないほどに慣れていた。
 それなのに改めて驚いた理由はいくつかあるのだが、そのひとつは愛獲として、人々に憧れられる存在として大きな舞台に立つ新選組と、その歌や踊り、パフォーマンスに熱狂する市民たちの姿である。それは、百年以上の歳月を経てたくさんの人たちに愛されるようになった「現在の新選組の姿」そのものであるように私には思えた。
 ひとつのキャラクター化された存在からの創作物として様々に描かれ、「メタ新選組」としても多くの人々に愛されている「現在の新選組」すらメタ的に取り込んだ「メタメタ新選組」こそ、『幕末Rock』で描かれた最高愛獲新選組ではないだろうか。新選組の名前を借りただけの別物のように見えて、実は鋭く切り込むようなネタが多いように感じられるのもそのためではないかと思う。少なくとも、幕末の歴史的事実に詳しい人間がメタネタを取り込みながら作っているのであろう面白さを感じる。
 例えば『幕末Rock』における沖田の病気は「愛獲としての人気をさらに強化するため」の演技である。これは多くの人が、新選組にあまり詳しくなくても「沖田総司は病気(結核)を患っていた」という歴史的事実を知っているからこそ成立するネタであり、さらには「強くて美しい青年が病気を患っているという悲劇性が民衆に好かれる」からの「だから美青年であるという確たる証拠が存在しない沖田が多くの作品の中で美形設定になる」という現状をも取り込んだネタであるように受け取れる。まさにメタにメタを重ねてメッタメタだ。

 そして私が『幕末Rock』で驚いたことがもうひとつある。近藤の死だ。
 この先の展開がどうなるのかわからないが、少なくとも現状においては、前述のとおり沖田の病気があくまでも演技であるため沖田が病没する展開がなくなった。戊辰戦争が起こらないので土方が戦死することもない。歴史的事実をこれだけ改変しておきながら、しかし近藤は死ぬ。
 だからといって決して、司馬遼太郎以降のメタ的な新選組創作の中でよく見られたように近藤が蔑ろにされているわけではない。人格者として描かれ、前線から離れているとはいえプロデューサーとして活躍し、土方や沖田はもちろん多くの隊士たちに愛されて慕われいる。むしろその死によって土方と沖田にとって何ものにも代え難い大きな存在として輝いていることが強調され、彼らがその遺志を継ぐことでいつまでも煌き続けている。
 歴史的に見ても、近藤一人では新選組が結成されることはなかっただろう。けれど近藤がいなければ新選組は存在しなかったはずだ。土方と沖田が出会うこともなかった。人の出会いは巡り合わせであるが、新選組を語るときに中心となるのはやはり、近藤以外にありえない。そもそも土方や沖田が最後まで慕い続けたであろう男が、そんな小さな存在であるはずがないというのが私の持論である。

 本書において、繰り返す世界の中で近藤が選ぶのは奪った相手を恨むことではなく、大切な者たちを守ることだった。秘密を抱えるだけでなく、自分が流れを変えることで何かを犠牲にしているかもしれないという、罪の意識と一人で戦いながら。
 井伊や徳川幕府へ復讐するのではなく、慶喜を救うという龍馬の意思に賛同した土方と沖田が受け継いだ近藤の遺志と魂とは、そういう人間としての優しさであり強さであるのだろう。自分のため、そして誰かのために戦い、歌い続ける彼らを近藤が見守り続ける。そうであることを、生きている者たちが心から信じている。
 土方と沖田が揃って近藤の墓前に並び、亡き人のことを語り合うというシーンは歴史的事実からあまりにもかけ離れている。近藤が死んだとき沖田は病床から離れることができず、土方は近藤から託された新選組を守る為に江戸から離れ、そして罪人とされた近藤の墓を建てることは許されなかった。それが現実だ。
 だからこそ悲しくも穏やかで優しいこの物語の結末は、しかし人々が愛する新選組を描いた『幕末Rock』という歴史のイフすらも超えた世界でさらに心地よく、煌めいているように思う。

 

 

2017/06/18