「島さん!」
呼ばれた男が振り返ると、声の主が後ろから駆け寄ってくる。開業を目前に控えた東海道新幹線だった。
「辞任なさるって、どういうことですか!」
「総裁が辞職したのだから、総裁に呼ばれて来た私がここへ残っているわけにはいかないだろう」
「しかし……」
はいそうですかと、素直に納得することはできない。そもそも先の総裁の辞職だって、東海道は少しも納得していないのだ。
様々な困難を乗り越えて、やっと開業することができるのに。時には強行な手段を選ぶことを辞さなかった、総裁や目の前の人の力が大きいことは誰の目にも明らかなのに。
思わず俯いてしまう東海道に、男はふっと表情を変えた。
「東海道!」
鋭い声で呼ばれ、東海道はハッと顔を上げる。厳しい表情をしていた男は、しかしすぐに優しい面持ちで東海道を見つめた。
「何があっても顔を上げなさい。背を伸ばしなさい。いつもまっすぐに走りなさい。それがこの国の未来に続く君の使命なのだから」
厳しいけれど柔らかな響きを持つ声。その声に励まされ、支えられ、ここまで来たのだ。
「今はひとりで心細いかもしれないが、すぐに山陽新幹線も開通する。東北や上越、成田の計画もある。あとから生まれるものたちのためにも、君は胸を張って走れ」
気高く、力強く、そして何ものよりも速く。
「それが、私からの餞別の言葉だ」
忘れてはいけないよと、肩を叩く。ぐっと唇を噛んだ東海道は、言われた通り背を伸ばし、顔を上げた。
右手の白手袋を外し、てのひらを胸に当てる。
「誇りはいつも、この胸に。あなたの言葉と共に」
「よい返事だ」
そう言って、男は満足したように笑った。
ミーティングのため会議室に向かうと、何故か扉を背にして山陽が突っ立っていた。長身の彼がそうしていると、どうやっても東海道は会議室に入ることができない。
「何をしている」
「いやあ、ちょっと準備に手間取っちゃってて。もう少し待っててくれないかな」
「?」
いったい何の準備に手間取っているというのだろうか。配布する資料は東海道が持っているし、ミーティング中に摂取する飲料や簡単な食料は基本的に各自持参だ。
「何を準備する必要があるんだ?」
「東海道ってば、毎年のことなのにほんとすぐ忘れちゃうのな」
はあ、と大袈裟に、わざとらしくため息を吐いてみせた山陽にむっとしながらも、頭の中のカレンダーを確認する。
そうしてすぐに、気が付いた。
「そうか、明日は」
自分の――東海道新幹線の開業日だ。
「思い出してくれてありがとう。そういうわけだから、ちょっと待っててな」
長野が張り切りすぎて慌てているからと聞いてしまった東海道が、文句など言えるはずがなかった。
「いつも思うのだが、毎年毎年そう大袈裟に祝う必要もないだろう」
「そうか?お祝いごとなんだから過ぎるくらいがちょうど良いと思うぞ」
なによりお前は、特別だから。
そう言って笑う山陽を見上げて、東海道は怪訝そうな顔になる。まだ日が浅い長野や秋田ならともかく、とうに四十年を越える自分の開業日を、内輪でとはいえ毎年毎年盛大に祝う理由など東海道には思いつかない。
「どうして私が特別なんだ」
「それはお前がお前だから、だよ」
ふっと笑った山陽が、ひどく穏やかな表情で東海道を見つめる。
「何があっても顔を上げて、背を伸ばして。いつもまっすぐに走るお前が、俺たちの目標だ」
それは山陽だけではなく、東海道のあとから生まれたすべての高速鉄道たちの想い。
「開業日おめでとう、東海道」
晴れやかな笑顔と共に差し出されたのは一輪の花。その花弁は、真白い車体に映える晴天の色に染まっていて。
ちょっと驚いた東海道は、けれどゆっくりと手袋を外して手を伸ばし、そっとその花を受け取った。
まっすぐに伸びるやわらかな茎を潰してしまわぬように。
かの人の言葉は、あの頃と変わらぬ誇りと共に今もこの胸にある。
そしてあの頃と違い、今ではこうして開業日を祝ってくれる仲間たちが共に走っている。
気高く、力強く、そして何ものよりも速く。
顔を上げ、背を伸ばし、まっすぐに。
走ることのできない理由など、どこにもない。
「島さんは、このあとどうなさるおつもりですか?」
「宇宙開発センターに行くことにしたよ」
意外な言葉がに目を丸くした東海道を見て、男は子供のように笑ってみせた。
「あちらはまだ開発を始めたばかりで、あらゆるものを模索中だと聞いている。だから、この先に続くための礎づくりに励もうと思ってな」
それは彼が、今日この日まで力を尽くしていたことだった。
「この国の高速鉄道の礎は、今この目の前に成った。ならば次は、宙を目指すのも一興だろう?」
彼はこうやって、前に進み続けるのだ。何もなかった大地を踏みしめて、次に続く者たちのために道を作り続ける。
顔を上げて、背を伸ばして、まっすぐに。それは自身に言い聞かせている言葉なのかもしれない。
産みの親とも言うべき男のその姿こそ、東海道の誇りだった。
東海道上官開業45周年記念本『アンビシャってるかい!?』寄稿