君が名を呼ぶ、その声が、ゆっくりと胸に広がる。
真冬の張り詰めた空気に立ち昇る、淡く真白い吐息のように。
ゆわり、ふわりと。
「宇都宮」
肩よりもずっと下、低い位置から投げかけられる声。
呼ばれて振り返れば、いつものひらりとした笑顔がそこにある。
その安心感は、もはや手放し難いものになっている。
1.手袋
彼と自分との唯一の接点は大宮駅だ。数多の在来線と新幹線、そしていくつかの私鉄が発着し、駅ナカも駅の外も賑やかに煌びやかに輝く街の中心。
その大宮駅の一番端のホームを終着駅とする彼が、他の土地でどんな風に走っているのか自分は知らないし、当然この自分が他の土地でどんな顔をして、どんな名で呼ばれながら走っているのか彼は知らない。
いや、もしかしたら彼は知っているのかもしれない。特に最近は、――東北新幹線が新青森駅まで全通した今は話題になる事が多いから、何かで聞き知る事もあるだろう。しかし例えそうだとしても、敢えてそれを話題に上げて気づかせることはない。彼はそういう男だと自分は知っている。
だからなのか。彼といる時間はどこか心地よいものに感じられた。
自分を取り巻く全てのものを、捨て去りたいと思ったことはない。けれど、ひとりで四六時中抱えているには少々荷が重過ぎた。今の時期は、特に。
逃げていると言われればその通りなのだろう。けれど何も知らない、或いは知らぬ振りをしている彼の前では、自分は遥かな北国の歴史を背負った東北本線ではなく、単なる通勤路線のひとつ、首都圏在来たる宇都宮線だ。
この程度の小さな、ささやかな甘えを、許される場所を自分は他に知らない。
JRの宇都宮線と東武野田線とは、ひどく暑かった真夏にちょっとした邂逅を遂げて以来、時々大宮で昼食を共にする仲になった。
「なんだか久しぶりな気がするなぁ」
「バタバタしていたからね」
引継ぎや式典などで首都圏を離れていることが多かった宇都宮の言葉に、そうだなぁと野田が頷き返す。駅より少し離れた、野田の馴染みの定食屋へ向かう道は表通りから少し外れているからなのか、すれ違う人もあまりいない。不思議と静かな裏道だ。
それぞれの制服の上に支給のコート、首にマフラーを巻いた二人はぽつりぽつりと言葉を交わしながらのんびりと歩いて行く。重い雲が広がる空に立ち昇る白い吐息を眺めていた宇都宮は、不意に手のひらを掴まれた。
「野田?」
何故かわざわざ手袋を外した野田の、皮膚の硬い、けれどあたたかい手のひらにむぎゅっと包まれて、宇都宮は自分の指先がひどく冷え切っていることに気づく。
「やっぱりなぁ」
満足げに頷いて笑ったまま、もちろん手も繋いだまま。一人で何かを納得している相手に、いったい何のことなのかわからない宇都宮は不満な様子を露わにする。
「なに?」
「宇都宮は手が冷たいと思ったから」
そのとおりだったと笑う野田に対して、何が言いたいの?と返す言葉に棘が混じる。それに気づいているのかいないのか、恐らく気がついてはいるのだろうに何も言わず、ぎゅっと手のひらを握った野田が宇都宮の顔を見上げた。
「心があったかいと手が冷たいって言うだろ?」
「……え?」
思いも寄らなかった言葉に、宇都宮は思わず足を止めてしまう。
そういう言われがあることはもちろん知っているのだが、それを自分自身に向けられることがあるとは思ってもみなかったし、事実ただの一度だって言われたことはない。むしろ、この冷血漢!と埼京あたりに叫ばれたことなら何度でもある上に、自分でも自覚あってのことだったのだが。
「どうした?」
「なんでそんな、」
「だってそうだろ? 本当に冷たいのなら、手放したもののために何度も足を向けたりしないって」
遠い北国の、本州の果てまで。既に他者へと受け渡した、かつての己の一部のために。引継ぎ業務はほとんど済んでいるにも関わらず何度も様子を見に行ってしまう宇都宮のことを、やはり野田は知っていたのだ。
けれどそれ以上は何も言わず、空いていた宇都宮の反対の手を取って、外したばかりの自分の手袋を嵌める。
「でも、こりゃ冷やしすぎだ。手袋どうしたんだ?」
「ちょっと、忘れちゃって」
「じゃあ、メシ食ってあったまるまでこうしてようか」
親子ほどもの身長差があるのに、野田の方がまるで子供を相手にするかの様に手を繋いで歩き出す。その手に引かれるようにして宇都宮も足を踏み出した。
まだあたたかい手袋と、繋いだ手のひらと。相手のぬくもりが、冷たい指先にじんわりと広がる。
こんな昼間の往来を男二人で手を繋いで歩くなんて、と思うのだが、どうしても振りほどくことができない。ほんの少し、強く手を振ればそれで済むことなのに、それが途方もなく難しい事に感じられてしまう。
だから諦めて手のひらは繋がれたまま。
「ところで野田。君の手袋、ちょっと小さいんだけど」
「それフリーサイズ! 宇都宮の指が長いんだよ!」
「あっは」
長いと言われた指を野田の指に絡めてみる。ちょっと驚いたように顔を上げた相手に満足してふっと笑って見せれば、冷たい風に晒されて赤くなっていた頬が、僅かに赤みを増したように見えた。
包み込んだ指先に、ぎゅっと力が込められるのを感じる。
そうしてあたたかな指先を手放せないままに、曇天の下に伸びるおだやかな冬の道を歩いた。
―――『冬日和』収録「手袋」平成二十三年一月初出
2.うちわ
京浜東北がこちらの顔を見て、軽く首を傾げる姿が目に入った。さらりとした髪が肩口で揺れるのを何となく眺めていると、当の相手がこちらに近づいてくる。
「宇都宮、高崎は?」
「今頃は高崎支社の方にいると思うけど。なんで?」
「別に」
そう言いながら、うーんと小さく唸った京浜東北は、手元の書類を見て何かを思いついたように瞬きをした。
「ねえ宇都宮。ちょっとこれ、お隣さんに届けてくれないかな」
「お隣さんって?」
「東武野田線」
ここは大宮駅で、だから確かにお隣さんは野田線だ。あるいはニューシャトルか。なんで僕が?と問えば、暇そうだったからと即答された。そうして「よろしく」と強引に書類を押しつけた京浜東北は、有無を言わせず背を向けて立ち去ってしまう。
京浜東北が忙しそうなのはいつものことで、方々を走り回っていっそ神出鬼没ともいえる彼にこの書類を突き返すのと、すぐ隣に届けるのとどちらが早いかと言えば、明らかに後者だった。
「宇都宮がこっちに来るなんて、珍しいなぁ」
のんきな声を上げたのは、やや癖のある黒髪の男。ツナギ姿の袖口には「野田」と路線名が入っている。
「いつもは京浜東北が来るのに。あ、書類さんきゅ」
「……ここはなんでこんなに暑いんだ?」
京浜東北を探し回った方が幾分か楽だったかもしれない。東武の改札を通って、それ以前にJRの敷地を一歩出た時点で、最初に思ったのはそれだった。とにかく暑い。暑くてたまらない。
「こんなもんじゃないか? つか、そっちが快適すぎるだろ」
長袖の詰め襟なんか着ていられるんだから、と陽に焼けた二の腕を晒している野田が笑った。その腕にはきっと、半袖の跡がくっきりと残っているに違いない。
「えきゅーと、だったか。すごいよなぁ。この前、かにチャーハン食べに行ったんだけど」
「来たの?」
「私用だからちゃんと入場券買って入ったぞー。チャーハン旨かったし、やたら洒落た店が軒を連ねてるしでびっくりした」
空調も快適だし、と言いながら野田は首からかけたタオルで額を拭った。沿線の商店からもらったと明らかにわかるその白いタオルを見ながら、宇都宮はわざとらしくため息を吐いた。
「君のところは何にもないからねぇ」
「何にもなくはないぞ。売店とか東武トラベルとかあるし」
「それだけでしょ?」
「そっちが何でもありすぎるだけだって」
「まあ、君の場合は駅の設備より車両? 東上線に新型入ったって聞いたのは去年だったと思うけど、君のところはさっぱりそういう話を聞かないね」
「そりゃ、東上は東武の稼ぎ頭の一人だからな」
「そうなの?」
「そうだよ。東武の鉄道部門の収益の、三分の一は東上の稼ぎだ」
本線の伊勢崎、そして主要観光路線である日光を筆頭に、東武には数多の路線が存在する。
その中において、単独でそれだけの営業成績を上げることができるということは、それだけ優良路線であるということだ。
「そういうの、ちゃんと見ているんだね」
「当たり前だろ。俺だって東武鉄道の一員なんだから」
宇都宮が皮肉も込めて意外そうに言えば、ばかにするなよと言いながらも大して気にすることなく、野田はひらりと笑った。
なんとなく、調子が狂う。宇都宮の毒のある言葉に、高崎のように声を上げることも、京浜東北のように冷たく返すことも、もちろん埼京のようにヒステリックになることもない。
だからといって八高のように、わかっていて流しているわけでもなく、野田はただ単純にすべてを受け入れてしまうのだ。
「なんか頭痛くなってきた……」
「大丈夫か? そういや顔色も悪いぞ」
「そう?」
それなら押しつけられた用事も済ませたことだし、さっさと快適な巣に戻ろうと宇都宮はきびすを返そうとする。
次に気がつくとホームのベンチに横たわっていた。
「……え?」
「あ、気がついたか? 急に動くなよー」
そう言って、横にいた男が手を伸ばした。何をするのかと見ていれば、宇都宮の首筋にそっと触れる。
野田の少しごつごつした指先は、見た目に反してひやりと心地よい冷たさだった。なんだか気持ちいいなと思っていると、相手はきゅっと眉根を寄せる。
「宇都宮、朝メシ食べた?」
「牛乳飲んだよ」
「……それだけ?」
「それだけ」
「宇都宮ってさ、ばかだろ」
まさか野田にバカにされるとは思ってもみなかったことだったので、憤るよりも先に驚いてしまう。
「熱中症」
「は?」
「倒れたんだよ。だめだぞ朝はちゃんと食べないと。抱え上げたときにあんまり軽いんでびっくりした」
「……抱え上げたの? 君が?」
野田は宇都宮よりも、頭ふたつ分ちかく背が低いはずだ。
「鍛え方が違うんじゃないかなぁ」
そんなことよりもうちょっと横になって休んで行けよと、起きあがろうとする宇都宮を再びベンチに押し戻す。
「また倒れられたりしたら、困るから」
「他社なんだから、別に気にしなくて良いじゃないか」
「そんなこと言ったって、さすがに目の前で倒れられたら気にしないわけにはいかないだろ」
良いから寝てろって。そう言って笑った野田は、はたはたと手にしていたうちわで宇都宮を扇ぐ。
涼しげな薄青の水面に、滲んだ紅色の金魚が泳いでいる図案は、別段珍しいものではない。小さく商店の名前が入っているのを見れば、彼が首から下げているタオルと同じく貰い物だと言うことは明らかだった。
金魚の残映が目に鮮やかで、宇都宮はゆっくりと目を閉じる。
「お人好しだね」
「誰にでも、ってわけじゃないさ」
ささやかな涼風の向こうから聞こえた声に、ちょっと驚いて宇都宮は目を開けた。ともすれば聞き流してしまいそうなほどに小さな、さりげない言葉があまりにも意外に感じられて。
「君、いま何か言った?」
「あのさ、宇都宮。できれば名前で呼んで欲しいな」
そう言って野田は、うちわを扇ぐ手を止めて困ったように笑った。
「名前で呼ばれていないと、今の自分の名前がどれなのか、わからなくなりそうで怖いからさ」
――それは、生まれたときからひとつの名前しか持っていないものには、決してわからない感情だろう。
名前だけではなく、所属する組織すら転々としてきた野田にとって、他者から名前を呼ばれることがそのまま今の自分を確かめるすべなのかもしれない。
それは宇都宮にとって、わからない感情ではなくて。
「野田」
「うん?」
「今の野田は、どこからどう見ても東武の路線だよ」
こちらとは比べものにもならない駅内の設備とか、おなじみの車両とか。安物の貰い物を大事に使っているところとか。
「ありがとう」
「いや、ひとっつも褒めてないんだけど」
「宇都宮は優しいねぇ」
「……もういいよ」
諦めてため息を吐いた宇都宮の髪を、野田はくしゃくしゃと掻き撫でる。その大きな手を何となく振り払えないまま、宇都宮は目を閉じた。
調子が狂う。けれど、決して不愉快ではない。
再びさやさやと風を送られながら、思ったのはそんなことだった。
―――『夏季熱』収録「うちわ」平成二十一年八月初出
3.せっけん
ふわりと甘い香りがした。
不思議に思ってあたりを見回すが、こんな人もまばらな平日真昼のホームで、宇都宮の目にはくるんくるんと癖のある黒髪の中にある旋毛が見えるだけだ。首を傾げつつも他に思い当たるものが何もないので、とりあえず訊ねてみる。
「ねえ、野田。君なにか付けてる?」
「ん?」
頭上からの声に、野田は書類に落としていた視線を上げた。
「付けてるって?」
「まさかとは思うけど、香水とか」
「そんなもんは一度も付けた覚えがないなぁ」
そうだよねぇと宇都宮も納得する。真昼の炎天下のホームで、近所の商店から貰ったのであろうタオルで額の汗を拭っている男が、そんなものを使っているとは思えなかった。
しかしツナギの半袖から伸びている腕をくんくんと自分で嗅いだ野田は、ああ、と納得したような声を上げて笑った。
「もしかして、これか?」
ぐっと上に向けて差し出された野田の腕に、軽く腰を屈めて鼻を近づける。連日の地を焦がすような日に焼けて真っ黒になった肌からは、確かにほんのりと甘い香りが感じられた。
「香水じゃなくて石鹸だ」
「石鹸?」
「ちょっと前に柏駅のリニューアルをした時に、なんかカラフルな石鹸とかを扱っている店が入ったんだよ。そこが時々くれるから、柏駅の事務所に置いてるんだ」
確か……と野田が告げた店名は、宇都宮も知っている自然派のハンドメイドコスメと石鹸を扱う店のものだった。
繋がりのある店から貰って使っている、という意味では首からかけているタオルと同じなのだろう。けれど店名入りの粗品のタオルと洒落た石鹸とではだいぶ違う気がするのは宇都宮だけなのか。
それにしても、今日初めて気づいたということは、いつもはここまで香る事はないはずだ。
「今日は朝から力仕事が多くてなー。柏で休憩取る時に、ちょっとシャワー浴びてきたんだよ。その時にあそこの石鹸を使ったからじゃないかな」
これっくらいの、はちみつのケーキみたいで、見た目もにおいも美味しそうなやつ。と説明する野田にふうん?と頷き返す。
「野田って結構、きれい好き?」
「さすがに汗臭いままで仕事したり、会ったりするわけにはいかないだろうと思ってなー」
「会うって、今日は誰かに会う予定でもあったの?」
「宇都宮と会う約束をしていただろ」
ここで、こうやって書類を受け渡すために。その約束をしたのは昨日の事だ。明日の昼過ぎに書類を持って行くから、という程度の、約束というほどのものではなかったけれど。
「……僕、そんなに潔癖に見える?」
こんな真夏に力仕事をすれば、当然汗もかくだろう。もはや趣味としか思えないようなレベルで蒸気機関車の整備などを行った後の高崎は、汗臭い上にひどい油まみれだ。それに比べればどうということもないというのに。
「宇都宮がどうのこうのっていうか……」
「なに?」
「まあ、いいや」
そう言って何故か曖昧な苦笑を浮かべた野田は、手にしていた書類を元通りにまとめて宇都宮を見上げる。
「なんかあれだな。宇都宮って聞いていたイメージとちょっと違うというか」
「聞いていたイメージって、誰に聞いたのさ」
「常磐とか」
宇都宮にとって古くからの同僚である常磐と、野田は長い付き合いだ。それこそ柏駅で接続しているし、昔は乗り入れ等も行っていたのだという。
あの常磐に何を吹きこまれたのか知らないが、「東北本線」としての宇都宮の過去を、野田は恐らく伝聞でしか知らない。彼が直接知っているのは、彼が大宮駅に乗り入れた後の、大宮駅での宇都宮の姿だけだ。
「がっかりした?」
「どっちかって言うと、その逆かな」
そう言って笑う野田の事を、自分こそ詳しくは知らないのだと今更になって宇都宮は気付く。スイッチバック式になっていると言う柏駅の事も、隣人である常磐の方がよく知っているのだろう。
不意に先日の、不本意にも熱中症で倒れてしまった日の事を思い出した。名前で呼んで欲しいと言った彼の、その歩んできた道を、自分は知識としてしか知らない。
もっと知りたいと、思う。己の名に対して、もしかしたら自分と似たような想いを抱いているのかもしれない、それでもいつも変わらずに、ひらりと笑ってみせる彼の事を。
「石鹸」
「ん?」
「気になるから今度、柏駅案内してよ」
「いいぞー。他に何があるってわけでもないけどな」
真夏の陽射しの下で見る彼の笑顔に、何故か安堵をおぼえた。
―――書き下ろし
4.君の名を呼ぶ
大宮駅のエキュートでは、これからますます寒くなる冬に向けての商品で溢れ返っている。仕事の合間の時間に、何気なく眺めていた宇都宮はふと足を止めた。
ふわりとした織りが暖かそうな青いマフラー。それを見て思い出した顔を、初めて見たのはずいぶんと昔のことだ。
彼の路線の、大宮駅への乗り入れが完了した日に挨拶した。けれど千葉を拠点とする上に、開業時から常磐線と接続していたという彼とは他にこれといった接点がなく、業務上で話すことがある程度の隣人だった。
「総武鉄道の名前がね、変わるんだってー」
名前って言うか所属?と首を傾げたのは同僚の常磐線。地方へ疎開する人たちや、出兵のために上京する人たちでごったかえす上野駅で、肩や髪に薄く積もった雪を払いながら常磐は笑った。
「所属って?」
「東武と合併したんだと」
「……総武鉄道って、京成の傍系じゃなかった?」
京成電気軌道と東武鉄道の不仲はよく知られている。開業当時は実に仲睦まじい関係だったのだが、都心への延伸問題で亀裂が入った。特に不利を被った京成が東武を毛嫌いしているという。
「えっとねぇ、総武鉄道の前身の北総鉄道の、代表が京成の社長だったから、その関係で京成の傍系ではあったけど傘下ではなかったし、その社長さんが経営から離れてからは疎遠になっていたらしいよ?」
「それでこのご時世のごたごたで、東武と合併か」
疎遠になっていたとはいえ、そういう過去があったことは誰もが知っていることだ。しばらくは会社内で微妙な立場に立たされるだろうし、京成との接続駅でも気まずくなるだろう。
何でもひらりとかわしてしまう彼のことだから、きっとそんな様子は微塵も見せないのだろうけれど。
もともとは醤油を運ぶために作られた千葉の県営鉄道だった。京成の社長らの運動によって払い下げられて北総鉄道を名乗り、大宮駅への延伸が完了した後、もう北総地区だけを走る路線ではないからという理由で総武鉄道へと名前を変えた。
しかし県営鉄道時代から東武に合併される今に至るまで拠点地としている場所は変わらず、そもそも総武鉄道の名は国鉄総武線の昔の名であることもあって、彼の呼称はずっと「野田線」だった。
小雪の降るなか大宮駅へ向かう。白い息を吐きながら連絡通路を通り、滅多に赴かない隣人のホームへと足を運べばすぐに目当ての後ろ姿をみつけた。冷たい外気に晒されてやや赤くなっている耳や首筋を眺めながら、宇都宮は声をかける。
「野田」
あまり大きな声ではなかったが、ちゃんと届いたようだ。振り返った背の低い男は、いつものようにひらりと笑って見せる。
だから、その心の内はわからない。
「ねえ、宇都宮。うちの野田と仲良しだったりする?」
久喜駅で顔を合わせるなりそんなことを聞いてきたのは、東武の本線である伊勢崎だった。唐突な問いに、思わず首を傾げながら、小柄な相手を見下ろしてしまう。
「どうしてそんなことを聞くんだい?」
「うん、宇都宮なら知ってるかなぁって思って」
「大宮駅で接続しているだけの僕に、同じ会社の君以上に知っていることなんてないと思うけど」
至極当然のことのように淡々と答えれば「そっか。そうだよなー」と頷きながらも伊勢崎は話を続ける。
「野田が最近、マフラーつけてんの」
「マフラー?」
それが一体どうしたというのだろうか。寒さも和らいできたとはいえ、季節はまだ冬。今年はなかなか春の訪れが遅いようで、マフラーくらい着用していてもおかしくない気候だ。
「ただのマフラーだったらこんなに騒がないよ。どう見たって上等なものなんだよ? どうしたのそれって聞いたら、貰ったって」
「……もらいものだから、相手に気を使っているんじゃないの?」
「それもそうなんだけどさ!」
野田はそういう気配りができる男だ。その点で言えば、どちらかといえば目の前にいる童顔の男の方が足りていないことが多い。
「たぶんさ、好きな相手から貰ったんだと思うんだよ」
「好きな相手?」
不意に宇都宮の笑みがゆがんだのを見て、野田だからってばかにしてるだろ!と伊勢崎が文句を言う。意外だっただけだよと返せば、だからそれがばかにしているんだと憤慨して見せた。
「野田だって恋くらいするだろ。たぶん」
「その『たぶん』が気になるけど。それで? なんでそう思うの?」
「だって、そのマフラーのこと聞いたときに、すっごく嬉しそうな顔をしたから。しあわせそうな顔、かな」
いつものひらりとした笑みとは少し違う、とてもとても幸福そうな顔で笑って見せたから。
「それで、そのマフラーの送り主を知らないかと思ったんだけど」
「僕が? さあ、知らないねぇ」
「だよねー。ほんと誰なら知ってるかな」
心当たりを探してぶつぶつ呟いている伊勢崎は下を向いて、だから気づかなかった。目の前にいる背の高い男が、やや赤くなった顔を片手で覆って隠していることに。
――恋だって? 冗談じゃない。
青いマフラーを見て彼の顔を思い出したのは、寒そうに赤くなっている首筋や耳が記憶に残っていたから。昨年の夏、熱中症で倒れた自分を看病してもらった。その礼として渡した。それだけのこと。
控えめにラッピングされた包みを受け取って、野田は驚くと言うよりは不思議そうな顔をした。中身を見て、おお、と声を上げて。
「こんなに上等そうなの、貰っちゃっていいのか?」
「どうぞ」
肩をすくめて答えれば「さんきゅ」といつものように笑って。それだけだ。
気になると言えば気になる存在ではあった。何度も名前を変えて、所属する組織すら変わって。それは彼自身の意志とはなんら関係のない場所で行われて、けれど彼はひらりと笑ってそれきり。
何も思わないはずがない。自分だって、この「宇都宮」という名前に思うところがないわけでもないのだ。ただ、その感情を言葉にするのはひどく難しくて、そして表に出したところでどうしようもないことで。
似ているような、けれど全く違っている、それなりに長いつきあいの隣人。
寝ても覚めてもというような言葉があるけれど、別にいつも彼のことを考えているわけではない。毎日長い距離を走る中で、彼と接続するのはたった一カ所。大宮駅だけ。
何か些細なことをきっかけにして、不意に彼の顔が浮かぶだけだ。
だから、
「でも、それも恋って言うんじゃないの?」
あたたかい缶コーヒーで暖をとりながら、不思議そうにそう言って首を傾げるのは京浜東北だった。
「だって、相手を意識しているんでしょ?」
「いつもってわけでもないけど」
「時々でも十分じゃない。心のどこかに、その相手に対する気持ちがあるってことなんだから」
しかし君に好かれるなんて、相手も大変だねといいながらコーヒーを啜る同僚の言葉を、宇都宮は否定しなかった。まったくそのとおりだと自分でも思うからだ。
自分の難儀な性格は自分が一番良く知っている。あまのじゃくと言うよりはひねくれもの、それも捻れ方が尋常ではない。
そういう宇都宮の性格を知っているのかどうか、野田はひらりと受け入れてしまう。あまりにも手応えがないので、最近では彼に対して毒を吐くことも棘のある言葉を投げることもやめてしまった。
ときどき会って、自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、他愛ない話をして。
それはどちらかといえば、居心地の良い空間だった。
小雨の降るなか大宮駅へ向かう。白い息を吐きながら連絡通路を通り、最近になってちょくちょく赴くようになった隣人のホームへと足を運べば、すぐに目当ての後ろ姿をみつけた。青いマフラーの端が揺れる背中に、宇都宮は声をかける。
「野田」
あまり大きな声ではなかったが、ちゃんと届いたようだ。振り返った背の低い男は、いつものようにひらりと笑って見せる。
「どうした、宇都宮」
名前が変わっても所属が変わっても、この隣人は少しも変わらなかった。その変わらない笑顔に、名を呼ぶ声に、ひどく安心するようになったのはいつのことだったか。
変わったことと言えば、制服と車両、そして首にふわりと巻かれた青いマフラーくらいで。
そしてそれは、他の誰でもない、この自分が贈ったものなのだと思うと、何故かひどく胸がざわめいた。
――ああ、これは、恋だ。
唐突に自覚する。この胸のざわめきに名前をつけるならば、ありきたりではあるのがだそれ以外に思いつかない。
自覚して、不覚にも動揺してしまう。名前を呼んだきり黙ってしまった宇都宮に、野田は不思議そうな視線を向けた。その視線を受けて、何か言葉をかけなければと宇都宮は無理矢理口を開く。
「マフラー」
「うん?」
「そろそろはずしてもいいんじゃない?」
「そうかなぁ」
まだ寒いと思うんだけどなぁと答えた野田は、それに、と相手を見上げて笑って見せた。
「折角貰ったものだから、もうしばらく使っていたいんだけど」
「それは、貰いものだからってこと?」
「うん? そうだな」
こういうところで律儀な彼は、だから贈り主が誰でも同じように大切にするのだろう。そう宇都宮が思っているところに、意外な答えが返ってきた。
「これは宇都宮から貰ったものだから」
心なしか、その笑みは嬉しそうなものだった。不意に伊勢崎の言葉を思い出す。彼が見たという、幸福そうな笑顔のことを。
そしてその理由を考えてみるのだが、もしかしたら、とは思っても考えたところで答えなど見つかるはずもない。諦めたようにため息をついた宇都宮は、この際だからと小さく笑って口を開いた。
「僕、野田に恋しているらしいよ」
「奇遇だなぁ。俺もだよ」
「えっ」
笑ったままさらりと言われて、思わず声を上げてしまった。そんなに驚かなくてもいいだろうと苦笑を浮かべる野田に、だって、と子供のように返してしまう。
もしかしたら互いに抱いているのかもしれない、そう思っていたこの気持ちを自覚するのは、彼よりも自分の方が先だと何故か勝手に思っていた。
「いつから?」
「自覚したのは最近だけど、きっかけはずいぶんと昔の話だな」
懐かしそうに何かを思い出すように目を細めて、野田は宇都宮をまっすぐに見つめる。
「俺が東武と合併することが決まった直後、だったかな。あんまりこっち側に来ない宇都宮が、小雪の降る中わざわざ訪ねてきたことがあっただろう」
覚えているかなぁと首を傾げる相手に、覚えていると宇都宮は小さく頷く。もちろん覚えている。上野駅で常磐に話を聞いて、すぐに大宮に向かった日のことだ。
「あのとき、俺のことを『野田』って呼んだだろ? あの頃、他の連中はあんまり俺のことを名前で呼ぼうとしなかったんだよ。まだ合併の話が決まっただけで、微妙な時期だったから」
だから、名を呼ばれて嬉しかったのだと。照れくさそうに笑う。
「それだけ?」
「そ。それだけのことで、俺はずいぶん救われたんだ」
たった一言、名前を呼ばれただけで。
だからこそ、名を呼んだ声の主を意識するのは当然のこと。
それはとても古い、昔のはなし。けれど顔を合わせているうちに、名を呼ぶ声によって生まれたあたたかな想いは、少しずつでもゆっくりと大きくなっていて。
「ずいぶんと暢気な話だね」
自分のことながら、呆れたように宇都宮が苦笑すれば。
「お互いさま、だろ?」
そう言って、野田はいつものようにひらりと笑った。
「なあ、宇都宮」
君が名を呼ぶ。だから自分も同意して、静かに君の名を呼ぶ。
その名の重さを知るもの同士だからこそ。
―――『君の名を呼ぶ』(無料配布)平成二十二年三月初出