北海道新幹線と函館本線と黒田長官の話。
情緒めちゃくちゃのまま書いた掌編3本。
初出:2022.11.20 ガタケット172発行 詳細:紫雨文庫・OFFLINE
もくじ
星の夢を見る
彼はただ、運が良かったのだと聞いた。
「例のアレ、七番に決まったそうだぞ」
「意外だな。廃線になったばかりで訛りも抜け切っていない田舎者だろう?」
「東海道上官様のご指名だそうだ」
「お偉方の出来レースかと思ったらそうでもなかったのか」
「有力候補は三番だったからな。何かあったのか。それとも上官様の気まぐれか?」
「どちらにしても運のいいやつだよ」
運の良さというのは、まあ、必要なのだろう。自分にはとにかくそれが欠けていた。
だからこそ努力を怠らなかった。候補生に用意されたいくつもの試験で常に好成績、品行方正、礼儀正しく協調性を持ち、しかし意見ははっきりと述べて中心に立つ。
人々の考える上官――新幹線としての姿を模索し、それを弛まぬ努力で維持し続けた。その上で出来うる限りの根回しも手を抜かず、ほぼ確定であろうというところまで整えて。
それでも結局、自分は運に見放されたのだ。
「国鉄篠山線、ね」
一度は消滅し、しかし新幹線として蘇る。そんな彼らの心情など自分にはわかるはずがない。わかりたくもない。
彼らは一度でも愛されたことがあるではないか。利用者に、地元の人々に、その名を呼ばれて走ったことがあるではないか。
生まれることなく未成線のまま廃止になった自分には、僅かな痕跡以外には何もない。ないからわからない。彼らはきっと、この自分が受けた屈辱など知りもしないのだ。
知らないまま栄光と共に走り出す。
選ばれることなく、候補生三番ですらなくなった自分はまた、誰にも知られないまま消えていくのに。
最初の名前を知っているものは、いる。その名を呼んでくれた人がいる。未成線として捨て置かれた自分を呼んで、まだ小さかった手を引いて、何かと面倒を見てくれた人。
真っ直ぐに伸びた背中が眩しくて、いつもその背を追いかけていた。自分は、彼がその背に負ったたくさんのもののひとつでしかない。もちろんそれは知っていた。けれども自分にとっては彼しかいなかったから。
「……会いたいなぁ」
本線。小さく呟いて、ぎゅっと体を縮めて丸くなる。
ぼんやりと揺蕩うような微睡の中で、夢を見る。
遠い空に力強く、明るく輝く星を。それが見えている限り自分が道を失うことはない。不安も迷いも何もない。
彼が覚えていなくても構わない。自分が忘れずに覚えているから。いつかきっと再び彼と会える、その日のために。
今はただ静かに、星の夢を見る。
閑 話
立ち寄った大宮駅の休憩所で、偶然顔を合わせたのは珍しい相手だった。
「あ、東北本線。ちょうどよかった」
そう言って笑った信越本線は、そのまま笑顔で踵を返そうとした相手を待て待てと呼び止める。
「聞きたいことがあるんだけど!」
「業務上の質問ならメールでどうぞ」
「業務上の話じゃないし、文面で残るとお互い微妙な話なんだよ」
その言葉で興味が湧いたらしい。なにそれ、という顔をして向かいのベンチに腰を下ろした宇都宮線が、長い足を組んだのを見届けてから信越は再び口を開く。
「許しを乞われたこと、あるか?」
「……誰に」
「上官」
──呼び止める声を無視してさっさと出ていけばよかったと、宇都宮は隠すことなく深いため息をついた。
この場合の上官とは、つまりそれぞれの上官のことだろう。
「そんなもの僕に聞かないでよ……」
「東海道に聞いても仕方ないだろ」
「アレがアレだから、僕らがこんなことになってるんでしょ」
「兄弟の弟なんてめちゃくちゃなところに落ち着きやがってな。最初に話を聞いたつばめがすごい顔してたって噂で聞いたぞ」
「だろうね。それで、君はなんて言われたの」
ここまで来たら全部聞くつもりになったのだろう。毒を食らわば皿までぺろりと食らい尽くす男だ。
「『信越は、いつになったら許してくれますか?』だってさ」
その言葉に、さすがの宇都宮も目を丸くする。
「それ、長野じゃなくて?」
「北陸。すごいだろ。許されることが前提でそれを疑いもしないんだ、あれは」
信越の心が落ち着くまで、自分の力ではどうにもならない現実を受容するまでの、時間の問題でしかないと思っているのだろう。そしておそらく、その自覚もない。自覚がないから躊躇することなく口にすることができる。
もちろんそんな彼も、彼の兄に対してはまた違う思いがあるのだろう。この場合、本人の意識よりも相手に問題があると信越は誰よりもよく知っている。
「だからお前のところはどうなのかなって」
上越は状況が微妙に違うし、羽越と奥羽はミニ新幹線だからやっぱり同じとは言えない。西の方は良くわからないからお前に聞きたかったんだと、自嘲するような笑みを浮かべる信越に宇都宮──東北本線は改めてため息をついた。
「上官が本線に許しを乞う、ねぇ。僕がその行為をあれに許すと思う?」
「あー、お前の場合はそこからか」
許されるとか、許すとか、許さないとか。そもそもそういう話ではない、ということだけは一致していた。
星めぐりの歌
「ほぉぉぉぉんしぇぇぇぇぇん」
半べその、甘え交じりの、力強い声。官舎の休憩所にいた函館本線はそれを聞いて、いつもの苦笑を浮かべた。
「おかえり上官」
「ただいまですううううううう」
これから北の大地の期待の星、北海道新幹線として開業する男がこんな調子で大丈夫だろうかと不安に思ったのは一瞬のこと。すぐに業務上の問題はないと判断し、そのまま開業後の日常と化した。彼は函館本線と二人きりでなければ大変に優秀な高速鉄道である。
彼がこうなってしまった原因の、その一因は確かに自分にある。それくらいはさすがの函館本線も自覚していた。
ひしっとしがみついてきた自分より大きな男の手首を掴み、その勢いを殺すことなくくるりと捩る。え? え? と驚いている相手を、そのままクリーニングに出すためにまとめてあった布団の山に投げ飛ばす。
「ほ、本線!」
慌てた様子の抗議の声に構わず布団を使ってぐるぐると簀巻きにする。ぐええとカエルのような声を上げた年下の上官は、しかし特に抵抗することもなく大人しく転がされたので立派な巻き寿司が完成した。
「なーんかこれ懐かしいな」
「ちょっと何が懐かしいんですか僕以外の誰を簀巻きにしたって言うんですか!」
「酔った長官」
本線の即答に、ぐるぐる巻きのまま床を転がっていた北海道は何とも言えない顔をする。
「あー……え、本線もやったんですか?」
「うん」
本線も、というのは、かつて長官が簀巻きにされた話が残っているからだ。あれは確か長官が東京にいた時の出来事で、だからその場にいなかった函館本線はもちろん、まだ影も形もなかった北海道新幹線が知るはずがないのだが、どこかで目を通した何かの資料に載っていたのだろう。
北海道の歴史。開拓使の歴史。その長官だった男の歴史。何かしらの形で公式の記録に残っているものであれば、彼は新たな新幹線としてここに来た時点でほとんど全てを把握していた。
勤勉で、努力家。目的のために計算高く振舞うことができるのに、そうしてここまで来たのにも関わらず、本来の誠実さを捨てきれない。
ごめんなさい、こんなつもりではなかったのだと、彼は言う。
跪き、泣きながら謝罪を繰り返し、許しを乞う。
それでも彼が、未来へと向かって走るスピードを緩めることはない。それが函館本線から何もかもを奪うことになると理解した上で。
――だからこそ、彼なら大丈夫だと思ったのだ。
この男は帰って来た。何度も挫けて、心折られて。それでもただひとつの願いを諦めず、決して手放すことなく。遠回りをしながらも『星』を目指してこの大地に戻って来た。
そしていつかその『星』を――函館本線を、新しい時代の象徴として殺すことになったとしても。必ずこの大地を走り続ける。
それが二人の望んだ未来であると、二人が共に辿るべき道であることを、他の誰よりも確かに理解しているから。
「僕は、貴方が走り続けたこの大地で、貴方と生きたい。この大地のために走り続けたい。僕の願いはそれだけです」
いつの日か、自分たちにはどうにもできない理由で終わりを迎えてしまうかもしれない。それでも、少しでも長くと願わずにはいられない。胸を掻きむしりたくなるほどの切なる願いであるからこそ、わずかな迷いもなくはっきりとした、力強い答えに心から満足して函館本線は笑った。
「だから、お前が良いんだ」
そうしてようやく腑に落ちる。だから、長官はこの地で誰かに殺されたかったのだ。
輝ける偉大な星を殺し、故郷を失い、第二の故郷として選んだこの大地を照らした光となるために――その願いも、果たされることなく潰えてしまったけれど。
「おいは『星』を殺した。ふるさとの、一番大きく輝く星を」
大地が深い雪に覆われた静かな夜。長官が語ったのは、官営幌内鉄道が生まれる数年前に起こった内戦の話だった。
開拓使。屯田兵。決してその内戦のために作られたわけではないのに、まるでそのために用意されたかのように出番と役割を得た存在。それを率いた長官が、かの地での活躍を自分の口から語ることはなかった。
活躍したと、聞いている。けれど彼自身は活躍したと思っていないのだろう。
長官が、自ら星と呼ぶ男を殺めたわけではない。ただ、その星と理想を共にして作り上げた屯田兵は、星を相手に華々しく戦った。
幌内はただ黙って長官の話を聞く。これはきっと、彼の懺悔のようなもの。
「許されたいとは思っていない。あの人はきっと許してくれるだろうが、おい自身がそれを許せない」
この先も永遠に後悔し続ける。許しを乞うべき相手はもういない。勝者の側として歴史の中で正当化されても、そもそもそれ以外の選択肢がなかったとしても。
「だからおいは、故郷には二度と帰らない」
そして彼は自分を殺しに来いと叫ぶ。故郷から遠く離れたこの大地を第二の故郷とするために。この大地で、次の時代の礎となるために。
地上を走る開拓の星に、明るく照らされる未来を見たからこそ。
彼の願いは叶わなかった。けれども彼の存在は、彼が描いた未来の続きは、確かにこの大地に残っている。
「鉄道の子。新たな時代の象徴、我らが開拓の星よ。お前は──」
いつか、その時を迎える日まで。
星はめぐり、めぐる。おおぐまの足の北、こぐまのひたいの上。輝けるひとつ星を目印にして。
開拓の星と呼ばれて走り続けたその先にあったのは、自分達の力だけではどうにもならない、行き詰まりのような現実だった。けれどもそんな自分の、かつての輝きを目印にして。消えたと思っていたひとつの星が帰って来た。
走り抜けた過去の光は、確かに彼の未来を照らし続けていたのだ。
戸井線から北海道新幹線へと姿を変え、必死に未来を繋いだ彼がこの大地にいる。自分が走り続けた道の先を彼が走り続けていく。それこそが、自分という存在がこの大地を走り続けてきた確かな証になる。
どうにもならない現実の中で、それでも共に生き続ける道を決して諦めようとしない彼だからこそ。懸命に走り続けたこの道が簡単に消えることはないと心から信じることができた。
彼が走り続ける限り、その隣で未来を見ることができる。かつての自分がそうであったように、未来を照らす星の光。
『鉄道の子。新たな時代の象徴、我らが開拓の星よ。お前は最後まで、この大地を駆ける星であれ』
星のめぐりの、その軌跡の目印として。
自分が彼に願うこともまた、同じだった。