北の本線を待ち望んだ男の昔話。
※書いた時期が古いので原作と合っていない設定が随所にあります。
初出:2013.06.23発行 詳細:紫雨文庫・OFFLINE
どこまでも続くような真白い雪原に立てば、それがこの世界の全てだった。
太陽は薄く広がる雪雲に隠れて、それでも一面に広がる真っ白な雪の照り返しでひどく目に眩しく感じられる。ごうごうと低く鳴り響く風で白く舞い上がる雪の向こう側を、一筋の矢のように横切るものがあった。
真白の世界の中でその深緑は、ただひとつ色彩のようで。そしてこの世界にいるのは決して自分ひとりではないのだと思い出させる。
「上官」
隣に並び立つ、その色を許された男を呼ぶ。風の音に掻き消されそうなほどささやかなその声を、男は決して聞き逃さない。そのことをわかっているから静かな声で、睨むように前だけを見つめたまま、口元はゆるやかな弧を描いたまま。
「僕らの見た夢の続きが、あなたという存在なのです」
雪に埋もれ、その世界の中だけで閉ざされてしまいそうになるふるさとへ停車場を。距離にも天候にも左右されることなく土地と土地を繋ぐことができる存在を、『彼』はずっと待ち望んでいたから。
それは本来、自分に託された使命。己の存在意義ですらあったそれを奪われ、簡単に受け入れることはできなかったけれど。
真白い世界の中でまっすぐに走り続けた東北本線のその先、その続きに東北新幹線という存在がある。そのために途切れてしまった駅の先にも、鉄路は続き列車が走っている。そうあることを、人々に求められている。
雪の停車場へ向かう存在が、自分ひとりではなくなった。それだけのことだ。全てを受け入れるにはもう少し時間が掛かるかもしれないけれど。
かつて鉄路など不要とすら言われた地に、今や日本最速の高速鉄道が走っている。この景色を『彼』に見せたいと思った。この国に鉄道が走ったその日から、雪深いふるさとへの鉄路をずっと待ち望んでいた彼の人に。
途切れた夢の、その続きを。
凍えるような北の大地で、百年を超える時を走り抜けてきた。
それができたのは、確かに彼の言葉があったからだ。
「君をずっと待っていた」
雪原を貫くように走る、一筋のひかりのような存在を。
*
「あれ?」
小さく声を上げて、東北本線は首を傾げた。上野の停車場を出た列車はゆっくりと速度を上げ、リズミカルな音を立てながら乗るものをゆるゆると揺らしている。車窓はだんだんと建物が減り、緑が増え、懐かしい景色に変わってゆく。
「御子息が三等車にいらっしゃるようですが」
「若い内から贅沢を覚えてはいけないからな」
同じ車両へ一緒に乗るのは小さな子供のうちだけだと、一等車の柔らかな椅子に腰かけた男が父親らしく答えた。男のその言葉に、もっともらしく頷きながら言い添える。
「では時々、様子を見てお伝えしますね」
「頼む」
相手の即答に、東北本線は思わず笑ってしまう。長い付き合いで、彼の子煩悩ぶりはよく知っていた。
*
「父が、そんなことを言っていたのですか」
青年はそう言って、ふっと息を吐くように小さく笑った。
「とても、父らしいですね」
「はい」
厳格な父親が、実は誰よりも息子に甘いことは本人もよく知っていたようだ。
手振りでそっと促されて、空いていた向かいの席へ腰かける。しばらく無言で車窓を眺めていると、木々の緑が深くなり、列車が山へと向かっていることがよくわかった。
「こうして列車に揺られていると、時が経つことも忘れてしまいそうだ。ましてや今は目の前に、貴方がいる」
「初めてお会いした時、私は既にこの姿でしたから」
「父と会った時は?」
「まだ開業前で、もっと小さかったですし、あの頃はそもそも今と名前も違いました」
東北本線という今の名に落ち着いたのは、国有化されてしばらくしてからだ。それまではいくつかの名で呼ばれていたが、上野から白河を越えて、東北地域を繋ぐ動脈となる路線であることに変わりはなかった。
初めて会った時、ずっと待っていたと彼は言った。それはきっと、彼だけの言葉ではなかったのだろうと思う。だからこそ自分は白河以北も走り続けている。
「盛岡までは長旅だ。もしも迷惑でなければ、父と貴方の話を聞かせて欲しい」
もう、誰にも聞くことはできないから。
「不思議なことに、あれほど有名な、誰でも知っている父のことを、僕は『父親』としてしか知らない。たいへんな仕事をしていたことは知っているが、それがどんなもので、どのように評価されたのかも全く知らない。だから、だからどうして、」
声を詰まらせて、膝の上でぎゅっと握りしめたのは手紙だった。他に荷物と呼べるような荷はほとんどなく、それだけを手にしてこの列車へと乗ったのだろう。
「どうしてあの停車場で、父が殺されなければならなかったのかも、わからない」
「それは、私にもわかりません」
「それでもいい。ただ、教えて欲しい。僕が知らない父の話を」
彼の父が死んだ時、彼は遠い異国の地へ留学していた。彼の母は訃報と共に、はじめに志した学問を修めるまでは帰って来なくて良いと手紙に添えた。その母も夫の後を追うようにして鬼籍に入り、そうして彼はふるさとへ帰ってきた。
青年は跡継ぎの生まれなかった夫婦に、幼少の頃から養子として迎えられていた親族の子だ。実の親子ではなくても、夫婦は本当に彼を大切にしていたし、彼は養父母を慕っていた。だからこそ東北本線は、彼にしては珍しい柔らかな笑みを浮かべて口を開いた。
「あの方は――原先生は、私の養い親のような存在でした」
礼儀を重んじ、いつも厳しく、けれど時折見せる笑顔は包み込むような優しさを感じさせてくれた。そして何よりも、怯んで立ち止まりそうになる背を押し、この土地を走ることの意味を自分に示してくれた。
自分は多くの人々に助けられ、支えられてここまで走ってきたが、その中でも彼はまた特別な存在だったから。
「では、僕と同じですね」
青年がそう言って小さく笑った時、ゆっくりと速度を落としていた列車が白河へと到着した。ここから先は、かつて心無い人々に「一山百文」と呼ばれた、深い雪に埋もれるふるさとの地だ。
一、
開業の日を間近に控えた日本鉄道会社の起点、上野停車場の周辺は賑やかな声に包まれていた。けれどその中に批判の声が含まれていることを、小さな二区は決して聞き逃がさなかった。
予算が無いからと国が後回しにした路線。奥州へ向かう鉄道など不要だと、まさにこれから北へ向かう路線として予定されている二区の前で平然と言う者もいる。だから二区は、その原因となったこの国の、政府の人間が大嫌いだった。
民間会社でありながら幹部に政府高官を含む日本鉄道は、その設立の経緯もあって半民半官経営の会社とされている。そんな中で、嫌いだからと言って視察に来る政府の人間を蔑ろにするわけにはいかない。渦巻く気持ちとは裏腹に卒のない笑みを顔に貼り付けることばかり得意になった二区と、感情をまっすぐに表す一区との違いは開業前から明らかになり始めている。
だから喧騒から少しでも離れようと、試運転を終えて誰もいないはずの車両にそっと乗り込んで、その青年を見た時も咄嗟ににこりと笑ってしまった。
「そこで何をしているのですか?」
「君こそ、ここは子どもが入って良い場所ではないだろう」
訝しげな表情で立ち上がって二区を見返したのは、まだまだ珍しく見える洋装をきちんと身につけた、見目の良い二十歳半ばほどの青年。政府の役人かどこぞの青年実業家か知らないが、二区のことをただの子どもだと思っているのならば日鉄の社員や関係者でないことは明らかだ。
「許可はもらっています。貴方は?」
西洋人の子どものような服装で、大人びた口調で話す二区を関係者の子どもか何かだろうと思ったのだろう。再び席へと腰掛けた青年は、ちょいちょいと手招きをした。
「私も許可をもらってここへ来たんだよ」
一応、不審者ではなさそうだと誘われるままその向かいの席へ、ぴょんと跳ねて二区は座る。動かない列車の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。床に届かない足をぷらぷらさせていると、車内を眺めていた青年が不意に口を開いた。
「君は、新橋から出ている鉄道に乗ったことはあるか?」
「……見たことはあります」
勉強のためにと見に行った、新橋から京都・大阪を目指して延伸工事を繰り返している官設鉄道は、この国のはじまりの鉄道。二区が一区と共に見学に行った時は、最初の区間である新橋横浜間の複線化工事を終えたところで、列車の本数も増え、天下の大動脈としての基盤を着々と整えていた。
多くの人が往来する停車場で、一区と二区がはじめてお互いの他に見たその鉄道は、挨拶に来たふたり、特に一区を一瞥しただけですぐに忙しいからと踵を返して去ってしまった。薄々感じていた官鉄と日鉄の微妙な立場の違いはそれで決定的になり、もともと良くはなかった印象が最悪になっただけだった。
それでも、営業路線として多くの人やものを運ぶ彼の姿は、とても大きな存在で。これが近代国家の象徴なのだと、自分たちはそれを目指すのだと、走るその姿を目に焼き付けてきた。
「あれと同じものが、もうすぐ北に向かって走る。それを実感したくて、お願いしてここへ入れてもらったんだ」
「そんなことをしなくても、もう少し待てば走っている列車に乗れますよ?」
「実は天津領事を拝命してね。開業日の前後はその支度で忙しくなりそうだったから」
ということは、この青年は外務省の役人であったらしい。なるほどそれでここにいるのかと納得しつつも、どうしてそこまでして、と思わずにはいられなかった。
それが表情にも出ていたのだろう。青年が初めて、小さく笑って見せた。
「私の生まれは盛岡なんだ。西へ走る列車を見たその日から、いつかふるさとに停車場が出来、列車が走る日を待っていた」
まるで夢を見ているかのように嬉しそうな、けれどどこか険しさを含んだ視線で青年はゆっくりと車内を見回す。開業日に走ることが出来るのはこの上野から熊谷まで。彼のふるさとだという盛岡まで列車が走るのは、まだまだ先の話。
「いつまで国外にいるのですか?」
「三年から五年ほどかな」
「それなら、帰国の頃にはきっと、貴方のふるさとまで列車が走っていますね」
そういう計画になっている。二区は上野を出て途中で一区と別れ、青森へと向かう予定の路線だ。
「そうか。それは楽しみだな」
そう言って本当に、心から嬉しそうに青年が笑うから。二区も久しぶりに、愛想笑いではない笑顔を自然に浮かべることが出来た。
「鉄道は、日本の開化に絶対不可欠なものだ。それは既に走っている官鉄を見ても明らかなこと。それを西だけではなく北にも、そして全国のあらゆる場所へと走らせなければ、この国の開化は進まない。地域差はますます広がってしまう」
「日鉄は、国だけでは手が回らない日本中に列車を走らせることを目的として、だから『日本』鉄道を名乗っています」
「ああ、そうだった。君はよく知っているな」
よしよしと丁寧なしぐさで二区の頭を撫でた青年は、己に言い聞かせるような言葉を続ける。
「都から離れれば離れるほど交通は不便になる。交通が不便であると離れた地域との行き来をしなくなるから、地域間の折り合いも悪くなる。せっかく最新の技術を取り入れて開化しても、それが一地域に留まってしまっては意味がない。列車が走ることで開化が広がり、停車場が鉄路で繋がることで離れた地域間も今より密に繋がれば――」
堰を切ったように話していた青年は、そこで何かを思い出すように目をつむって。眉根を寄せて、膝の上の拳を握りしめて。
「あの哀しみを繰り返さずに済むはずだ」
彼がいったい、何を思い出しているのか。自分が走ることになる土地の記憶を少しずつ学んでいる二区にはわかる気がした。人々から、特に政府の高官から白河以北を軽視する発言が聞こえるのも、きっと根は同じものだ。
「交通が便利であったら、鉄道が走っていたら。奥州は賊と呼ばれずに済みましたか」
「……少なくとも他地域との連携は、もっとうまくできただろうな。物資や大事な情報の入手や共有も、容易にできた筈だ」
そうすれば、どうしようもない状況になってから降伏するようなことはなく、戦闘を回避することすらできたかもしれない。
「過去は仮定の話になってしまうが、これから先のことは別だ。過去の哀しみを繰り返さないために、ふるさとの将来のために。この列車はその一歩なんだ」
鉄道そのものが近代化の象徴だと思っていた。開業して、延伸して、終着である青森を目指せばそれでいいと思っていた。しかし、決してそれで終わりではないのだと二区も気が付いた。
「君は盛岡の、いや、奥州のどこでもいい、一人きりで一面の雪景色を見たことがあるか?」
「いいえ、まだです」
「一面の雪原は、陽のひかりを照り返してひどく眩しい。何もかも真っ白に覆い尽くして、ごうごうと低く鳴り響く風で舞い上がる雪に包まれてしまうと、まるで自分の他には何もない世界のように感じる。ふるさとを離れて暫く経つが、今でも時々、自分がその世界に立っているような気がする時があるよ」
それは想像するだけでも美しく、ひどく恐ろしい景色のように思えた。生まれてからずっと一緒にいた一区は途中の駅で分岐してしまうから、これからはそんな場所を、二区はひとりで走らなければならない。けれど。
「その雪の世界に列車が走り、停車場が出来て、大勢の人々が往来する。その光景を思い浮かべていた。ずっと、待っていた。それが数年後には実現するのだな」
走り続ける事こそが近代化であり、離れた地域を繋ぐことが奥州という土地のためになるのならば。険しい山を越えて、行き着いた先にそれを待つ人々がいるのならば。
聞こえてくる批判や嘲笑の言葉に耳を傾けている暇などない。それよりもずっと大きな期待のために、自分は走り続ける。
目の前の嬉しそうな笑顔を見上げながら、二区は決意を新たにした。
二、
上野は春を迎えて、かつて戦場になったという公園にも薄紅色の桜が咲き乱れていた。一方、北国の風は冷たく、まだまだ肌寒さを感じるが、よく見れば木々の蕾は少しずつ大きくなっている。
昨年の暮れに就任したばかりの新しい逓信大臣が、山形停車場の開業祝賀会へ参加することになったと高崎が聞いたのは、そんなおだやかな春の日のことだった。
「それでなんでお前が大臣に随行すんだよ」
「山形へ向かうには、上野から福島まで僕の路線を使うのだから当然じゃない?」
「そうだけど、そうじゃなくて」
かつて一区と呼ばれていた、上野の停車場から高崎を結ぶ路線は高崎線、上野から青森までの長大な距離を開通させた二区は奥州線と称するようになっていた。
「今までは社員が随行していただけで、お前が自ら出向いたことはなかっただろ?」
「やだなぁ、今までだって挨拶くらいはしていたよ。まあ、今回はちょっと特別だから」
「特別?」
鸚鵡返した高崎に、奥州は笑ってみせるだけで何も答えない。しばらくその顔をじっと眺めて、相方の強情さを知っている高崎は溜め息を吐いた。
「まあ、お前がいいって言うならいいんだけどさ」
「そんなに心配しなくても、僕ももう子供じゃないんだから。本当に嫌なことはちゃんと避けるよ」
「何言ってんだよ。お前そういうの子供の頃から上手いだろ」
それでも避けられないものがあったではないか、と。不服そうにしながらも、けれど彼が特別というのならば今回は本当に、いつもとは違うのだろうと高崎は自分自身を納得させる。
嘘や誤魔化しや、にこやかに見える笑顔で巧妙に隠してしまう奥州の本心を、直感で察することができるのは今のところ高崎くらいだった。
そうして高崎が耳にしたとおり、数人の供を連れて上野停車場へと足を踏み入れた大臣を、日本鉄道の社員たちが出迎えたのは夕暮れより少し前のこと。
午后五時に上野を発する下り列車、その一等席を大臣のために用意していた。逓信省は十年ほど前に内務省から鉄道行政の移管を受けており、その大臣に対する対応は当然、最上位のものとなる。
平均的な日本人に比べるとやや上背のしっかりとした体型に、ぴたりと合わせられた仕立ての良いスリーピースのスーツ。それをきちんと身にまとっている大臣は、巴里勤務経験の影響もあるがそれ以前から身なりにとても気を使う人である、というのを最近雑誌か何かで目にした。
これまで見た政治家や官僚たちの誰よりも洗練されているように感じるのは、もしかしたら自分の贔屓目なのかもしれないと思いながらも、誇りのようなものが奥州の胸の中で疼く。
「お久しぶりです、先生」
走り出した列車の中で声をかけられて、聞き慣れない声に不思議そうな顔で背の高い青年を見上げた大臣は、青年のにこやかな笑顔からかつての面影を探し当てて驚いたように表情を変えた。
「君は、あの時の」
そうして男は笑みを浮かべて差し出された手を取り、右手だけではなく両手でぎゅっと握りしめて、嬉しそうに目を細める。
「そうか、君だったのか」
「はい」
開業前に出会ったあの日から、十八年の月日が流れていた。
*
新しい逓信大臣は原敬と名乗った。盛岡南部家の元家老の孫として生まれたが、分家しているので士分ではなく平民である。
「祝賀会には君も出るの?」
「一応。挨拶くらいはしないと」
列車の出発を待つ間、福島停車場で待っていた出迎えの役人たちと原が歓談しているのを遠目に眺めながら、そう答えて肩を竦めた官設鉄道の奥羽線に奥州線は笑ってみせた。
「それなら、彼の話を聞くといいよ。官鉄様には必要ないかとも思ったけど、君も奥州を走る一路線ではあるからね」
「ああ、盛岡出身だっけあの大臣。でもあの男だって薩長に媚びた裏切り者じゃないのか」
「あの人は違う」
ふるさとの、奥州のためにと嬉しそうに笑った彼だから。確かに原は長州と薩摩の高官の目にとまって取り立てられて官吏となり、その娘を娶ることで親族となり、政府内での出世の道を開いたけれど。
「薩長による藩閥政府と呼ばれる中で、上に行くために必要だったことくらい、少し考えればわかることだろう?」
戦いに負け、賊と呼ばれた国に生まれた者には、目的のために手段を選ぶ余裕などなかった。使えるものなら何でも使って、それでも成し遂げたいことが彼にはあった。
藩閥政府が悪いわけではない。生まれたばかりで登用制度が確立していなかった政府の中で、大勢の官僚や役人を揃えるために口利きや紹介は必要なことだった。それが内乱の勝者側に有利になるようにできていた、ただそれだけのこと。
けれどそういう時期ではなくなってきている。そして何よりも、そういった過去の地域区分を人々の意識の中から取り崩すために鉄道を走らせるというのが、他でもない原の主張だった。
奥州の言葉に不服そうなまま山形へ向かった奥羽はしかし、翌日再び会うと原に対する態度がガラリと変わっていた。
「昨日、祝賀会で彼の演説を聞いた。お前の言うことが少しわかった気がする」
「そう?」
にこにこしながら、しかしどこか意地の悪く見える笑顔で出迎えた奥州に、奥羽はこれ見よがしに溜め息を吐く。
「……お前のその顔を見たくないから言いたくなかったけど。演説を聞いて、昨日の裏切り者はさすがに言い過ぎだったと思ったからな」
――維新後政治上の区域は撤廃されたが、山河その他の支障物のために遺風未だ全く去らず、地域間の交流はまだまだ少ない。この支障物を破るものは、鉄道その他の交通機関にあるのだから、地方人民これを利用して発達を図れよ。
演説の大意は、かつて開業前の奥州が彼から聞いた話と変わらないものだった。停車場ができ、列車が走り、人々が往来することで、断絶しがちな地域同士が繋がる。繋がることで、奥州にも開化が広がって地域が発展してゆく。
そのために走り続けるのがこの日本鉄道奥州線であり、そしてその途中停車場である福島と、終着の青森停車場を別ルートで繋ぐことを目指しているのが官設鉄道の奥羽線だった。
日本という国の背骨のように、縦にまっすぐ走る奥州線から枝葉のように鉄路が延びる。延びて、広がって、繋がって。山も河も乗り越えて、雨の日も風の日も、雪の日も走り続ける。
「しかし似たようなことをうちの本線様も仰っていたよ。まあ、あちらさんは日本って国を背負っていらっしゃるわけだけど」
東京と京都というふたつの都を結ぶ、日本最初の路線には他の路線にはない特殊な使命もあるのだろう、と。同じ官設鉄道でありながらどこか他人行儀な扱いをしながら、そういえばと奥羽は思い出したように奥州の顔を見上げた。
「先日会議で新橋に行ったら、うちの本線様が、なんだかやたらとお前のことを気にしていたぞ」
「東海道が?」
「青森停車場とか、様子をいろいろ聞かれたりした。適当に答えたけど、あれは何だったんだろうな」
そう聞かれたところで答えられるはずがない。そもそも官設鉄道の東海道線とは接点がまるでなかった。彼の起点駅である新橋停車場と奥州線の起点駅である上野停車場は馬車鉄道で結ばれているから、直接顔を合わせることはほとんどない。
開業後しばらくは何かの会合で何度か鉢合わせたことがあったが、彼が気に掛けていたのは奥州ではなく高崎の方だった。それはその当時、東京大阪間の幹線鉄道を東海道ではなく高崎経由で建設するという計画があったからだろう。
しかしその計画はすぐに変更され、東海道経由で数年前に全通している。なぜ今になって、それも高崎ではなく奥州を気にしているのだろうか。
彼のことだからどうせろくなことではないのだろうと、最初から好かない相手だった東海道の姿を思い出しながら奥州は眉を顰めた。
三、
その日、日本鉄道の本線は華やかな音楽が奏でられる広間にひとり足を踏み入れた。
真っ白に覆われた雪の中をひとりで走り続けてきたことに比べればこの程度、どうということはないと思うのに、少しでも気を抜くと足が震えそうになってしまう。何度も立ち止まりそうになりながら歩き続けるのは、そうしなければならないという強い思いと、目の前にあの男の背中が見えているからだ。
すれ違う政府の高官たちとにこやかに挨拶を交わしながら先を歩くのは、この場所へ本線を連れて来た男。
「東海道」
背中に声を掛けると振り返った相手は、この数ヶ月で見慣れた無表情に戻った。お愛想の笑顔よりもこちらの方がずっと良いと、思ってしまう程に弱っている自分に心の中で舌打ちする。
「ついて来い」
そう言って東海道が足を向けたのは、こんな遅い時間には出る人も少ないであろう中庭への扉で。情けないと思いながらも人知れず安堵の吐息を漏らした。
数年前から何度も議論が繰り返されていた鉄道国有法案が可決し、遂に公布されたのは数ヶ月前のことだった。日本鉄道会社も国有化される路線の中に当然含まれ、設立から二十五年続いた会社はもうすぐ消滅する。
わざわざ上野から馬車鉄道で新橋へ赴き、東海道線に乗って訪れたこの名古屋で開かれているのは、国有化が決まった祝いも兼ねて開かれた鉄道五千哩祝賀会である。
雨上がりの庭はむせ返るような緑の匂いがした。ゆっくりと深呼吸をして、やっと少し心持ちが落ち着く。
「そう緊張するな。こうした場所が初めてというわけでもないだろう」
「さすがに東京から西へ来たことはありませんから」
日鉄からも重役や社員が数人来ているが、国有化前の微妙なこの時期に彼らを頼るわけにはいかないと。そう思ってあえて東海道と行動を共にしていた。
上野と新橋という距離はあれど、今まで以上に顔を合わせることになるだろう相手は、ちょうど良い機会だと口を開いた。
「今のうちに聞いておきたい。お前が国有化を簡単に同意するとは思えなかったのだが、どういう心境の変化だ? 政府の人間は嫌いだろう」
「子どもの頃の話ですよ」
そう言って、本線は自分がうまく笑えたかどうかわからなかった。しかし、どうせ明かりの少ない薄闇の中、そして目の前にいる相手が相手だ。
「起点駅でもめたり、開業式を何度も延期させられたり、まあ色々とありましたけれど政府の方々のお世話になったことは確かですから」
「……思っていたよりも、ずいぶんと口が達者なようだな」
東海道は鼻で笑って、けれどそれきりだった。彼にしても、政府の人間たちには思うところがあるのかもしれない。そういえば彼が一時高崎にこだわっていた理由は、政府内で東海道ルートと高崎を経由する中山道ルートの対立があったためだ。
政府から少しの距離を置いていたからこそ自分に見えるものがあったように、政府の直下にあった東海道だからこそ見える、政府の歪のようなものもあったのだろう。それでなくても彼は一番初めの鉄道として、誰よりも長くこの国を見ている。
そして自分たちはこれから、それを直視することになる。
「あと、敬語なんか使うな。俺とお前はこれから同僚だろう?」
東海道の突然の言葉に、考え事をしていたために本線は一瞬、呼吸を忘れるほど驚いた。目を見開いたまま立ち止まってしまった相手に東海道は首を傾げる。
「どうした?」
「いや、……そうだね、君の言うとおりだ」
再び歩き出した本線は、いつものように笑って見せた。
*
最後まで国有化に反論を唱えていたのは、周囲の予想に反して本線ではなく海岸線だった。
「国が予算がない必要ないとか言ったから、俺たちは変則的なやり方で作られたっていうのに、今更国のものになれとか言われてはいそうですか、って簡単に受け入れられっかよ!」
古株である高崎と本線が黙っている中で、彼らに比べるとずっと小さく見える海岸がひとり、全身で怒りを表すかのように声を荒げる。
「お前らはどうなんだよ、高崎! 本線!」
「……俺は、本線の決定に従う」
渋面の高崎の答えは、けれど彼なりに考え抜いてのものだった。本線の苦悩をずっと間近で見てきたからこそ、既に腹を括っている彼の決定に従おうと決めていた。
なんだそれと高崎に食ってかかろうとする海岸に、本線は静かに声を掛ける。
「ねえ、海岸。確かに簡単には受け入れ難い話だけれど、それでも僕は受け入れようと思うんだ」
「なんでだよ、お前はそれでいいのかよ!」
良くはないけど、もう良いんだよと、笑って見せる本線から高崎は目を逸らした。
「だって、俺たちが勝ったということじゃないか」
「本線、」
「国にとって俺たちがどうしても必要になったと言うことなのだから。そうだろう?」
本線がそうやって無理にでも自分自身を納得させようとしていることは、高崎だけでなく海岸にもわかってしまった。
これまで何度も持ち上がっては消えてきた国有化の話がここへきて本格化したのは、先年の戦争によるものであることは明らかだ。大陸での露西亜との戦いのために、兵士や物資を大量に輸送することができる鉄道が活用された。
しかし東海道などの一部の幹線以外はほとんど私設の鉄道会社によって運行されており、規格などの違いもあって連絡や運行に何かと手間がかかる。主要幹線だけでも国有化して統一させようという声が大きくなるのは必然だった。
国の、政府の勝手な言い分だ。それでも。
「本線がそれでいいって言うなら、わかった。俺ももう、何も言わねぇよ」
主要幹線から重点的に国有化しようという話である以上、矢面に立つのはどう考えても本線と、高崎で接続する官設鉄道と上野を結んでいる高崎線だ。その彼らが納得しているのならば、それ以上言うべきことはないと海岸線はため息をついた。
それより数日前、日本鉄道の本線を説得するために上野の停車場から列車に乗ったのは、西園寺内閣に内務大臣として入閣した原だった。
「広軌論を除けたそうですね」
「時期尚早だ」
「では、私設鉄道の国有化は尚早ではない、と」
現内閣と彼の政策は、新聞などでも書き立てられていたから本線も概要は目にしている。けれど彼の口から、彼の言葉で聞かなければ納得できないと思った。
私設鉄道は会社という組織である以上、信念はあっても営利目的で運営されている。建設する鉄道路線も、収益が望める場所を選ぶことになってしまうのは仕方のないことだった。半官半民と呼ばれる日本鉄道ですらそうなのだから、もっと純粋に私設の鉄道である会社は推して知るべきであろう。
国有化されれば、収益が大して望めない場所にも必要であれば鉄道を建設することができる。それがその地域の、国民のためになるからだ。
けれど同時に、それが本当にその地域だけに限らず国のためになるのか、国の予算を使って建設するべきものを公平に選ぶことができるのかという疑問の声が上がっている。
もっとはっきりと、与党の政治家たちが選挙で票を集めるために、自分の支持者の地域の有利になるように建設計画を立てるのでは――いわゆる我田引水が行われるのではないかという批判が書かれていることが多かった。
「私が夢見て目指してきた場所に、この国は辿り着いていない。いつか君に話した、地域間の往来は以前よりずっと増えた。けれどまだ足りないだろう」
未だ地域差は大きく残っているように思えた。人々の意識も思っていたより大きく変わったとは言えない。政府内での藩閥意識は今なお色濃く残っている。
そんな中で広軌論など、東京大阪間の輸送力強化など以ての外だった。確かに国力の強化という国策としては正しいが、今のままでそれを行い、そちらに膨大な予算を割いてしまえばもっと地方の格差が広がってしまい兼ねない。
「地方の発展が、結果的に国の発展に繋がる。そのために全国に鉄道網を広げなくてはならない。広軌の高速鉄道の計画はそれが成された未来の話だ。今はまだ、その時ではないと思う」
「全国に、と言いますけれど、我田引水しないと言い切れますか?」
「そりゃあ東北に鉄路が増えるなら私も嬉しいけれどね」
けれどそれだけではダメなのだと原は断言する。
「東北だけが発展しても、国力がなければ国として成り立たない。私が目指しているのは、できうる限り全国に均しく発展が広がることだ。それに、どんな地域であってもその発展が国力に繋がるなら、引いては東北の発展にも繋がるだろう――そのために君が走っているのだから」
「僕たちの、日本鉄道の国有化も、巡り巡って最後は東北のためになると」
「そうなるように、私は全力を尽くす」
建前と本音を上手く使い分けながら、全体を見据える。彼のようなバランス感覚の持ち主ならきっと大丈夫だろうと、本線は確信した。彼のことだけは信じることができると。
四、
国有化からしばらく後、かつて奥州線と呼ばれていた元日本鉄道の本線は東北本線と名を改めた。薩摩や長州をはじめとする西国諸藩を称した「西南」に対する「東北」という言葉は、同じ地域を示していた奥州という言葉よりもひろく一般的になり始めている。
それは過去の地域区分を廃することに尽力している原を信じ、それに賛同する自分に似合いの名前だと東北は思った。
その東北地方が賊と呼ばれることになった内乱から五十年。本州で最後に降伏した地である盛岡で慰霊祭が行われ、それに参加するため原も東北本線で盛岡へと向かった。
――顧みるに、昔日もまた今日のごとく国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや。戊辰戦役は政見の異同のみ。当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり。その真相を語るものなり。
旧盛岡藩の一人として彼が唱え上げた祭文は、五十年という節目に相応しいものだと思えた。同時に、それだけの歳月を経ても主張しなければならないことだという事実を思い知る。
彼が主張した鉄道網の拡張はずいぶんと進んだ。けれどそれが東北の発展に繋がるには、もう少し時間が掛かるのだろう。
例えどんなに時間がかかったとしても、最初の目的を決して忘れない彼がいる限りは大丈夫だと。東北本線は何ひとつ疑うことなくそう思っていた。
*
その知らせを受けて、東北がまず真っ先に行ったのは手配できる列車の確認だった。できる限り一番良い車両を用意したいと思いながら。しばらく後になって彼の秘書から、やはり同様の手配を頼む旨の知らせがきて自分の判断の正しさを知った。
ふるさとの盛岡へ帰る、そのために彼は上野の停車場から鉄道を使う。今までずっとそうしてきたように。
そしてこれが最後なのだ、と。車両の手配を終えてからようやくそのことに気がついて、はじめて頬に涙が流れた。
総理大臣原敬が、東京駅内で刺殺された。
犯人は山手線大塚駅の駅員だった。それ以上のことは動機も背景も何もわかっていない。
カタンカタンと列車が揺れる。こうして列車に揺られながら流れる車窓を眺めていると、あの日からそれほど時が経っていないように思えてしまう。けれどあの日と違って東北はずいぶんと大きくなり、彼は目の前の棺の中だ。
「ほんの数日前に、会ったばかりでしたのに」
鉄道協会が行った鉄道五十年祝賀会に、首相であり、鉄道事業に深く関わっていた原も参加していた。式典が終わったあとの酒宴の席で盛り上がっていた、彼の将棋の勝負を見届けてからまだ一週間も経っていない。今度私とも一局、と笑いながら交わした約束も叶うことなく潰えてしまった。
中央に寝台を備えた病客車の窓は開け放ち、夜の冷たい風が吹き込んでいる。東北の生まれであるのにひどく寒がりで、けれど分厚いコートは不恰好だからとやせ我慢していた彼のために、彼の乗る車両はいつも窓を閉め切っていた。その必要も、もうない。
ふるさとの盛岡で葬儀を行うのは彼自身の希望だった。彼はこんな日を予測していたのかきちんと遺書を用意しており、それには墓石に刻む文面まで指定してあったのだという。用意周到な彼らしい遺書だと笑っていた、彼のよき理解者であった夫人も秘書も、さすがにこの数日の後始末に奔走して疲れ切っている様子だった。
盛岡へ着いたら、また座る暇もないほどに慌ただしくなるのだからと、今は隣の控室でそれぞれ休んでもらっている。彼らが休んでいても、列車は目的地へまっすぐに走っているから。
夜の十時に上野の停車場を出た列車は常磐線を通って北上し、仙台で東北本線に車両を受け渡した。その引き継ぎの際、必要以外のことは何も言わず、伸ばした手でポンと東北の肩を叩いて行ったのは彼なりの気遣いと優しさだったのだろう。
翌日の早朝一関に着くと、停車場や沿線で列車を待ち受ける人々の数は格段に増していた。黒沢尻を過ぎた頃にぱらぱらと降り出した雨の中でも、線路沿いに集まった人々の数は減らず、むしろ増えていく一方だ。
冬になれば雪深く埋もれる停車場に、大勢の人々が集まっている。停車場を作り、鉄路を繋ぎ、誰よりも強く東北の発展を願い続けてきた人を見送るために。東北から生まれた初めて首相との別れを惜しむという、そのために、離れた地域の人々の気持ちがひとつになっている。
彼が夢見て、目指してきた景色のはじまりがここにあって、けれどここに彼はいない。
首相である彼が中心となって改正の準備を進めていた、新しい鉄道敷設法によって定められた全国への鉄道網。それが揃った暁には、兼ねてより声が上がっていた東京大阪間の国際標準規格による高速度鉄道の計画が始まるだろう。それを、次は東北へと走らせる。西南に向かう鉄路があるのならば、東北へと向かう鉄路があって然るべきだから。
そしてそれはきっと、東北の本線たる自分の役目。東北のために走ることこそが、自分に課せられた使命だ。
彼は夢の続きを見る前に、その中心となるべき停車場で殺された。彼の遺志はきっと、彼の賛同者たちが引き継ぐのだろう。未来は彼の死によって途切れることなく先へと続いている。それでも。
「貴方に、見せたかった」
彼が望んだ、この夢の続きを。
列車が盛岡停車場に着くと、改札前の広場から開運橋の向こう側まで車と人とで埋め尽くされていた。
国外にいた彼が見ることのできなかった開業の日のように大勢の人が集まって、しかし既に遠くなったあの日とは違って人々は息をころし、深い悲しみに包まれている。
駅舎の入り口で遅い秋雨に肩を濡らして、東北本線は人々共に、棺を乗せた車の後姿をいつまでもいつまでも見送った。
五、
誰もいない東京駅丸の内南口改札口はひどく静かな場所だ。
かつて盛岡で彼の棺を見送り、戻ってきたこの場所は、忙しなく行き交う人々と列車の発着などを知らせるいくつものアナウンスで他のどの駅よりも騒がしい場所だった。それからしばらく、東京駅へ乗り入れている間もそれが解消された後も、宇都宮線という愛称がつけられた後も。この場所を訪れることはあまりなかったのだけれど。
「駅舎を復元するっていうから、ここも消されてしまうのかと思った」
「消さねぇよ。それも含めて、この駅の歴史だからな」
原が刺されたその場所にはプレートと印が残されていた。よくよく見なければ見落としてしまいそうなそれは、歴史の中に埋もれながらもそこに確かに存在している。その場所に立っている宇都宮を、距離を測り損ねているかのように少し離れた場所から東海道が眺めていた。
「お前がここに来るなんて珍しいな、宇都宮」
「ちょっと、立ち戻ってみようかと思って」
再び東京駅へと乗り入れる、その前に。
「ああ、それで思い出したのか」
「思い出してなんかいないよ。忘れたことがないからね」
戯言ようなその言葉に東海道は顔を顰める。こんなところで誤魔化すな、と。無言の圧力に屈したわけではないが、宇都宮は言葉を続けた。
「彼がよく使った号のひとつに『一山』というのがあって」
「白河以北一山百文、の」
「そう。負の感情をほとんど表に出さなかった、彼なりの抵抗だったんじゃないかな」
まるで何ごともなかったかのように、にこやかに笑って。
一山百文とは、白河以北――東北の地には大した価値がないとする侮蔑の言葉だ。それを号にするのだから、口には出さなくても反骨の気概は決して失っていなかったということ。
「彼は忘れたことはなかったし、彼の周囲も彼自身も忘れることを許さなかった」
そのために彼は目を瞑らずに、何もかも見据えていた。怒りも悲しみも決して表に出すことはなく、けれど何ひとつとして忘れないまま。
「それはお前も同じだろう?」
東海道が問いかければ、宇都宮は静かに笑うだけだった。そうして踵を返して駅舎の外へと向かう。
耐震強化工事、東北縦貫線計画と呼ばれる上野から東京へ各在来線の延伸工事、そして復元工事を行っている東京駅舎は未だブルーシートに覆われている。
工事中の駅舎を見上げる宇都宮の隣に立って、東海道は口を開いた。
「俺はこの駅と共に、この国の象徴だった」
「だけど今は違うじゃない」
そう言って、宇都宮は皮肉を込めて笑う。東海道のその言葉に対してそんなことが言えるのも、ここでは宇都宮くらいだろう。東海道に遅れて全通したとはいえ、東京と青森を繋ぐ東北の象徴であり、東海道と同じく、その象徴としての立場を後進へと譲り渡した存在でもある彼だからこそ。
東海道本線から東海道新幹線へ。東北本線から東北新幹線へ。東西の本線は高速鉄道へその幹線としての役目を譲り渡した。この国の現在を象徴する鉄道は、新幹線という名の最新技術。
「象徴としての立場を失ったところで俺自身の走る理由が変わることはない。今も昔も最初から、この国の為に走るだけだ。明治を象徴したこの駅が、明治という時代が遠くなってもこの国の中心として人々を受け入れ続けたように」
「それならどうして、象徴ではなくなった僕らがこの駅へ乗り入れることを望む?」
「それを望んだ人たちがいるからだ」
長い時の中で、たくさんの人々がそれを望んできたから。それを未来へ、自分たちへ託してきたから。
「俺は見せたいんだ。この駅の、本当の姿を」
そう言って駅舎を見上げる東海道の視線は、見たことがないほどおだやかなものだった。同じように未来を託されたはずなのに、どうしてこうも自分と彼とは違うのだろうか。どうして自分は、その未来を彼のように素直に受け入れることができないのだろうか。
新幹線という存在を。
「新幹線は、広軌の高速鉄道は。彼の夢の続きだった。だからそれを走らせるのは、東北の本線たる自分の役目だと、ずっと思っていた」
東北のために走ることこそが、自分に課せられた使命だから。
いつか、彼のために。彼の愛した東北のために。そう思っていたのに。
他の誰にも、高崎にも話したのことのない宇都宮の想いを黙って聞いていた東海道は、胸の前で組んでいた両手を解き、相手の肩を掴んだ。
「お前の役目は何だ、東北本線」
問われて、その手をぱしりと振り払った宇都宮は思い出す。
最初は奥州の開化のため。次は、東北の発展のために。そしてその根底にあったのは、内乱で負けてしまったがために後回しにされがちだったあらゆるものを、西だけでなく東へ、北へと届けるため。
そのために。
「君と、肩を並べることだよ。東海道本線」
誰もはっきりと口にすることはなかった。けれど、確かにそれが自分の役目だった。
東北の象徴であった自分が、日本という国の近代化の象徴であった彼と同格となり、肩を並べることで、東西に差はないのだと示すために。
はじめは、官設鉄道だから彼が嫌いだった。けれど自身が国有化された後も彼を好かない相手だと思っていたのは、それが理由だ。彼は馴れ合う相手ではなく、彼に勝とうと思うくらいの意気込みでいなければならなかったから。
「でも、もう必要ないだろ、そういうの。俺もお前も昔とは違う。張り合う必要はどこにもない」
原が憎んだ地域格差は、結局消えることはなかった。東西の意識の温度差も、現代においても全くなくなったとは言えない。それでも、かつて奥州と呼ばれた地域が賊と呼ばれることはなく、一山百文の言葉も遠い過去のものとなった。
そして、西へ東へ、それぞれの土地に合わせた特色を持った、高速鉄道が走っている。
「あの人が目指した、夢見た場所へ。僕らは戻れたのだろうか」
「お前が今も走り続けているのだから、大丈夫だろ」
少なくとも、俺はそう思いながら走っていると、この国のはじまりの鉄道は笑った。
*
東京駅に負けず劣らず騒がしい上野駅は、しかし東京駅とは違う独特の雰囲気を今も残していた。それは私設鉄道でありながら日本最長の路線を有した、日本鉄道の起点駅としての名残なのか、それとも北へ向かうはじまりの駅だからなのか。
始発列車に東京駅から乗り込んできた宇都宮を視界の端に捉えて、手にした操り人形の口をパクパクとさせた山手線は、けれど結局何も言わなかった。
だから宇都宮も何も言わずに、明け方からぱらぱらと降り出した秋雨に濡れた車両から、ひょいと上野駅に降り立つ。そして山手に向かってひらひらと片手を振れば、相手も人形を手にしていない方の手を振り返した。
緑ラインの列車を見送って、宇都宮は踵を返す。
「うーつのーみや!」
どーんという効果音と共に宇都宮を背後から襲ったのは常磐線だった。ぎゅっと背中に抱きついたまま宇都宮の腕の下から顔を前に出して、背の高い相手を見上げる。
「こんな朝っぱらからどこに行ってたのさ」
「ちょっと東京駅にね」
「あ、敵情視察?」
「まあ、そんな感じかな」
東海道が言っていたように、今の彼はただの同僚だ。もう張り合う必要はどこにもないのだが、東京駅とその先への乗り入れにはどうも敵地へと乗り込むような気概を抱いてしまう。それは共に東京駅へと乗り込む常盤も同じなのだろう。そしてきっと、高崎も。
今日が何の日なのか、どうして宇都宮がわざわざ東京駅を訪れたのか。東海道も山手も常盤も、そして向こうから歩いてくる高崎も知っている。東北本線が、どれだけ原という男を慕っていたのか知っているからこそ。
「おかえり、宇都宮」
「ただいま、高崎」
東京駅やその西まで乗り入れても、自分たちが帰るべき場所は、ただいまを言う場所はここであり続けるのだろう。
北へ向かう人々を受け入れて、北から来た人々を見送り続けたこの上野駅が、文字どおり自分たちの出発地だ。
東京を起点駅とし、上野は最初の停車駅でしかない新幹線とはそこが違う。彼らの使命である高速輸送にはやはりこの国の中心である東京駅が相応しい。けれどどちらも、東北のために走るという同じ役目を担っている。彼の夢の続きを走っている。
東北の象徴としての立場を譲り渡しても、東北のためにという自分の役目は少しも変わらなかった。雪に埋もれて閉ざされてしまう土地を繋ぐために、駅と駅とを繋ぐことこそが東北のためであるのだから。
この長い鉄路の先に、雪の停車場が待っている。
今も昔も変わらず、走り続ける事こそが全てだ。
幕、
煙を上げ轟音を立てながら、悠然と走る大きな陸蒸気。
その足元を支えるのは西に向かってまっすぐに伸びた鉄路。
――これが、欲しい。
瞬時に目を奪われて、そして殴られたような衝撃と共に浮かんだのはその思いだった。これが欲しい。あの山の向こうの奥州の地に。深い雪で埋もれるふるさとにこれと同じものを。
そして、そのための停車場を。
西南へと向かう鉄路があるならば、東北へ向かう鉄路があっても良いはずだ。何故ならこの国は近代化を目指し、それは都やその西側に限られたことではないはずなのだから。
今の非力な自分にはどうすることもできないけれど、いつか、いつかきっと。必ず肩を並べてみせる、と。
はるか西へと、まっすぐに走り去る近代化の象徴を見送りながら、青年は己自身に誓った。