一、
顕現する刀の増加と共に増改築を繰り返した本丸は、途方もない広さになっている上に各自の部屋が点在している。
「それで、新入りにはとりあえず空き部屋へ入ってもらっただろう? だから年末の準備を始める前のこの時期に、全員に希望を聞いて回っているんだ」
とりまとめ用の控え帳を手にして説明する歌仙兼定の言葉に、短く問いを返したのはこの部屋の主である稲葉江だった。
「希望?」
「同じ刀派で並びの部屋にしたいとか、君の身内の話だと畑への出入りがしやすい部屋が良いとか。新年に合わせて気分転換に部屋を変えたい、という希望も時々あるけれど、まあ色々さ」
少しずつ増えていく仲間に対してその都度対応するのではなく、年に一度、決まった時期にまとめて部屋替えを行う。年末の準備と並行することで、荷物の移動と同時に大掃除も済ませてしまおうということだろう。
「そうか。希望がなければ現状で良いのだな」
「もちろん。……君のところの五月雨江と村雲江のように、誰かと同室という希望も受けているけれど」
「今のところは必要ない。我ら江は『れっすんるーむ』とやらも与えられている。集まる場に不自由していない」
「まあ、そうだね」
なんとなく歯切れの悪い様子の歌仙に、特に言及しないのはわざとなのか気づいていないからなのか。いつもと変わらぬ稲葉の表情からは何も読み取ることができないまま、それじゃあ、と歌仙は目線を少し横へと移動させる。
「笹貫は?」
「オレも今のままでいーよ。裏口が近いから海に出やすいし」
「ああ、確かに表玄関からだと遠くなってしまうからね」
彼らしい理由に納得して頷く。稲葉江と笹貫の名前の下にそれぞれ『希望無し』と書きつけた歌仙は顔を上げて、笹貫の手元を覗き込んだ。
「器用なものだね」
「でしょー」
机に向かっている笹貫が手にしていたのは小さな筆、それから稲葉江の長い指だった。形の良い爪先のひとつひとつに、黒橡の色を丁寧に乗せている。
「いつも見てたらやってみたくなったから、やらせてもらってんの」
どうして君が、と歌仙の顔に書いてあったのだろう。笑いながら答えた笹貫は筆を動かす手を止めないまま、そっと目を細めた。
「部屋の話。オレは『帰る刀』だからさ。帰るべき本丸に自分のための部屋がある、ってだけで嬉しいから、部屋自体は本丸のどこでもいいんだけど」
顕現したての時も同じことを言って隣にある自分の部屋に入った。それから時を経て、ひとつ変化した点がある。
「今は稲葉の隣だと楽しいかな」
「なるほど」
希望無しではなく現状維持希望。そう二人の名の下に書き加え、邪魔したね、と立ち上がった歌仙はもうひとつ用事があることを思い出した。
「そうだ、稲葉江。今夜から景趣を冬のものに変えるという話は聞いているかい?」
「今朝早くに、篭手切が冬支度の装備を大量に運んで来た」
「ああ、篭手切江が準備したなら安心だ。大丈夫だとは思うけれど、初めての冬だからね。もしも足りないようなら追加の毛布もあるから、いつでも声を掛けてくれ」
「承知した」
「笹貫は?」
「オレも琉球の連中が持って来てくれたよ。もこもこになってた」
「すっかり冬の風物詩だねぇ」
「毎年のことなんだあれ」
「あまりにも寒そうにしているから、周囲がどんどん着せていくんだ」
着ぶくれてころころと丸くなっている三人組を思い出して、歌仙は口元を綻ばせる。二人の話を聞き流しながら爪先の仕上がりを眺めていた稲葉江は、顔を上げてその名を呼んだ。
「歌仙兼定」
「なんだい?」
「篭手切がこの本丸に来たばかりの頃、そうやってあれこれと気にかけてくれたのは歌仙だと聞いた」
「その頃はまだ、他の江の者も来ていなかったからね」
「主を同じくする篭手切だけでなく我のことも含めて、ことさら気にかけているように見えるのは我らが稲葉家にゆかりある刀だからか」
稲葉江の名は、その持ち主であった稲葉重通、道通の父子に由来する。重通の婿養子、稲葉正成と春日局の間に生まれた正利が細川家預かりとなって篭手切江が両家を行き来するようになった頃、細川家は歌仙兼定の持ち主である忠興の息子・忠利の時代であり、稲葉江は結城秀康の後継で松平に姓を戻した越前松平家の所有となっていた。
「まあ、細川の刀としてはね。もちろん君が稲葉家を出た後の話だということも、僕自身が直接関係しているわけでないことも承知しているよ。それでも無意識に動いてしまう」
迷惑であれば言って欲しいと歌仙は苦笑を浮かべた。お節介であることは自覚しているらしい。
「篭手切はともかく……いや、心遣い感謝する」
家と家との関係が、歴史の流れの中にあるものならば。『家の刀』であった自分たちもまた確かに、その歴史の流れの中にいる。
*
するりと褥から抜け出した共寝の相手が、廊下に出る気配で稲葉江は目を覚ました。
隣の自室に戻るのかと思えばそうではなく、足音も聞こえてこない。部屋の前、裏庭に面した廊下でただじっと立っているのだろうか。
そのうち戻って来るだろうと寝直そうとして、しかしいつまでも動く様子のない相手のことがどうしても気になってしまう。仕方ないと諦めてため息を吐き、分厚い綿入りの袢纏を手にして部屋を出た。
肌を突き刺すように冷たい夜風はそれほど強くない。いつの間にか降り出していた雪が、ゆっくりと裏庭の暗い地面を染めている。板張りの廊下に立ち尽くす笹貫は、白い息を立ち昇らせながらそれを眺めていた。
雪の降り積もる音が聞こえそうなほどに、静かな夜だった。その静寂を、敢えて破るようにして稲葉は声をかける。
「いつまでそうしているつもりだ」
「だってほら、雪がこんなに」
そう言いながら笑みを作ろうとした相手の顔面に袢纏を押し付ける。うわっと小さく声を上げつつ受け取った笹貫の、その指先はすっかり真っ赤になっていた。
この身を得てから初めて目にする雪。そういう意味では確かに稲葉江も興味はある。しかしこんな冷える夜中に、いつまでも真剣に眺めるほどのものではなかった。
「薩摩にも、その後に在った場所にも雪は降っただろう」
「うん。毎年ではないけど」
「物珍しいというわけでもない筈だ。先ほどから何故そんなにも熱心に眺めている」
渡された袢纏を肩に掛けて再び庭へと視線を向けていた笹貫は、そのまま稲葉の問いに答える。
「薩摩の、樺山家にいた頃。オレは晴れの日にしか出されない刀だったからさ。そういえばどんな雪だったのかなぁって思って」
「どんな?」
「大西郷の出陣の日。薩摩では六十年ぶりの大雪だった」
薩摩の大西郷。大雪の中の出陣。それが何を意味するのか、稲葉江もすぐに思い当たった。
「西南の役、か」
南国では珍しい大雪の中での出陣は、その結末の悲劇性も相まって民衆に好まれ、錦絵も多く作られた。そのいくつかを稲葉江も見た記憶がある。
「あれは薩摩の、同郷の者同士のいくさでもあったから。戦いのあと、二度と故郷に帰らないと誓った男たちがたくさんいた。周りに何を言われたところで帰ろうと思えば帰れただろうに。どうしてだろうってずっと不思議に思ってた」
人である彼らには、帰るための手足があるのに。
「自分が一度決めたことに対する意地というか。強情なんだよね。頑固者。オレよりも稲葉の方が、よほど気持ちがわかるんじゃない?」
「どうだろうな」
――武士が生まれ、武士の世が終わるまでの凡そ千年。薩摩の地で刀を打ち続けた波平の祖、行安の太刀。
その行安の太刀である笹貫を、薩摩島津に連なる樺山家が宝刀として伝えてきたこと自体は何も不思議ではない。どのような伝承や逸話があろうとも、彼が家宝として大切にされてきた刀であることは残された文献でも明らかである。
何より、降り続ける雪を眺めながら語る声は穏やかで。その優しい声色を耳にすれば、薩摩の者たちにとって彼がどのような存在であったのか稲葉にもわかるような気がした。
――たとえ帰ることが叶わないとしても。帰らないことを自ら選んだとしても。
帰りたい、帰ってきて欲しいという、誰かの願い。祈り。
それは、稲葉が伝え聞いてきた薩摩の武勇とは少し違っていた。けれどきっと、伝聞とはそんなもので。
「そういえば薩摩に雪が降ること、よく知ってたね」
「かつての主が聞いた」
「へぇ。誰に?」
「天璋院だ」
「……、島津の姫様?」
予想外の名前が出てきたことに一瞬、声を詰まらせた笹貫が目を丸くする。いったいどこで接点があったのだろうかと考えている横で稲葉は顔を上げ、庇の向こうに視線を向けた。
「西南の役、明治十年で六十年ぶりの大雪だったということは、薩摩の雪を語った天璋院自身が故郷に積もる雪を見ることはなかったのだな」
「そういうことになるか。――彼女も、薩摩には一度も帰らなかったから」
いつかの日に誰かに語られた、懐かしい故郷の、見たこともない景色の話。どんな心でそれを語ったのだろうかと目を細めた笹貫は、けれどもそれ以上は何も言わなかった。
ただ、降り続ける雪を見て彼らのことを思う。
「積もるかな?」
「この降り方であれば、明朝はそれなりに積もるだろう」
「ほんと? 雪遊びしよ? 雪合戦したい」
やったことないんだよね、と目を輝かせた笹貫の腕を振り払った稲葉は、盛大にため息を吐いた。
「我を巻き込むな。大人しく雪うさぎでも作っていろ」
「提案がかわいいんだよなぁ……」
小声で、しみじみと呟いてしまう。雪に慣れていない身を配慮した結果の雪うさぎだろう。まあ初めての雪遊びだし、そのあたりから始めるのもありかなと笑う笹貫の顔を、稲葉が訝しげな様子で見降ろす。
「何を笑っている」
「なんでもない。雪うさぎがあるなら雪パンダもありかな」
「勝手にしろ」
――その翌日。
「雪パンダの黒い部分、どうしたらいいと思う?」と笹貫に聞かれた稲葉が畑帰りの桑名江に助言を求めた結果、いつの間にか混ざっていた短刀たちと共に巨大なパンダの雪像を作る羽目になるのは朝餉を終えた後のこと。
二、
男が取り囲まれたのは、出て来たばかりの江戸の屋敷の目と鼻の先、外堀に掛かる橋の上だった。
月が雲に隠れた、一瞬の薄暗闇。その足元には、咄嗟に主人を守ろうと前に出てしまった従者が気を失って伸びている。
「こういう時こそ、以蔵の奴にいて欲しかったんだがなァ」
いない者の名を呼ぶ声にはどうしようもなく疲れが滲む。いかんいかんと己の両頬を両手で挟むように叩いて、対峙する相手を睨め付けた。
目の前の敵の風体は、よくわからない。薄暗闇の中だからというだけではなく、なぜか輪郭がぼんやりとしてうまく捉えることができない。
こんな日に限って供を一人しか連れていなかった。あるいはそういう日を待っていたのかもしれない。もしもそうであれば、用意周到にこの瞬間を狙っていたということになる。
「目的は何だ? この安房守の命か。だとしたら、黙ってくれてやるわけにはいかねぇよ」
自分にはまだやらなければならないことがある。
とはいえ多勢に無勢、文字どおり手も足も出ない。姿を現してから一言も発することのない、不気味な連中に囲まれてじりじりと欄干に追い詰められながら、一か八かで反撃に出るのと堀に飛び込むのとどちらの生存率が高いかと考える。
後者であろうな、と覚悟を決めて足先に力を入れたその瞬間に、背後からぬっと人の気配がした。
背後、つまり橋の外側。驚いた男が振り返るよりも先に、欄干を飛び越えて橋に降り立った人影がそのまま襲撃者と男の間に割って入る。思わぬ乱入に驚いたのは襲撃者も同じであったようだ。相変わらず声は無いまま、しかし明らかに動揺した様子の相手に向かって乱入者は静かに刀を抜いた。
長身で筋肉質な体躯に似合う、迫力のある重厚な刀。ちらりと見えたそれが切れ味を発揮する前に、得体の知れない襲撃者たちは音もなく姿を消してしまった。
残されたのは男と、伸びたままの従者と、無言のまま刀を鞘に納めて片膝をついた青年。それから、こちらに向かって駆け寄ってくるもう一人の青年。
「ご無事ですか、安房守様」
こちらも男の前でサッと跪いて顔を下げる。腰に佩いた細身の刀を見るまでもなく、その所作から武家の者であることは明白だった。
「助かった。が、お前さんたちは?」
「さる御方から密命を受けて参りました。至急、安房守様のお耳に入れたい話がございます」
「たいそう胡散臭いが命の恩人だ。聞こう」
包み隠さない直球の物言いに、動じることなく頷いた青年は自分の腰から刀を鞘ごと引き抜いた。後ろに控えていた大柄な青年へ刀を渡してから立ち上がり、男の耳元に低く囁く。
「――それは本当か」
「我々も半信半疑ではございましたが、先ほどの連中を見て確信いたしました」
「それが目的なら俺を襲ったところで……ああ、人質か。なるほどなァ」
交渉の材料として自分ほど相応しい者はいない。現状、代わりがいないという意味では、奥に引っ込んでいる総大将よりも重要で面倒な立ち位置にいる。
男の名は勝安房守。号は海舟。存亡の危機に瀕した徳川家の、最重要人物の一人だ。
「首謀者は」
「我々の仲間が調査中です。なかなか、一筋縄ではいかないようで」
「こちらに全く勘付かせなかったくらいだからな。いや、可能性はあったか」
今夜の襲撃のように虎視眈々と機会を狙っていたのならば、江戸の町全体が慌ただしく落ち着かない今この時期が将に好機である。
「とりあえず護衛を増やすことにしよう」
「此度の件は、出来うる限り表沙汰にしたくないというのがさる御方のお考えです」
「だろうな。無用の火種だ」
あらゆる方面に問題が山積みになっている、この微妙な時期にそれは困る。さる御方とやらは見当もつかないが――憶測だけなら数人、思い当たる人物がいないわけでもないが、そのあたりの考えは海舟と同じなのだろう。
「お前さんたちの目的は?」
「標的にされた御方の、その御意思をお守りしたい」
聞いた海舟が驚くほどの即答。そして彼自身の言葉でもあるのだろうと、確信させる力強さだった。
不気味な襲撃者も、都合よく現れた助っ人も、正直どちらも同じ程度には怪しい。だが、海舟の問いにまっすぐ応えた目の前にいる青年の方が信用できるだろうと、直感的に判断する。
だからこそ、彼らに懸念を託すことにした。
「俺は他にも狙われる理由がいくらでも、それはもう山のようにあるからいいとして。いや全然よくは無いが、それよりお前たちに護衛を頼みたいお人がいる」
「確堂様、でしょうか」
頷いて答えた青年に、海舟は片眉をひょいと上げる。
「やけに話が早いな。さる御方とやらも、それを危惧してお前さんたちを寄越したか」
「とはいえ、素性を何も明かせぬ以上は屋敷に近づくことも叶いませんので」
「そういうことか。ならば俺が話をつけてやる。屋敷に戻るから付いて来い」
ついでにそいつを介抱してやってくれと、海舟が示したのは気を失ったまま倒れている可哀そうな従者だった。大柄な方の青年が黙って頷き、ひょいと背負って立ち上がる。
「そういやお前さんたち、名は? ああ、この場で名乗れる名で良いぞ。無いと呼ぶ時に不便ってだけだからな」
「では笹貫で」
「……稲葉、とお呼びいただければ」
気軽な様子で答えた青年と、丁寧ではあるが眉間に皺を寄せたまま低く答えた青年。対照的な二人の顔を交互に見比べた海舟は、面白そうに笑って見せた。
「稲葉だけなら普通の名だが、二人並ぶとまるで名刀の名のようだな」
名刀のよう、なのではなく名刀そのものなのだが、もちろん名乗った二人は黙っている。
慶応四年、四月。
二条城での大政奉還、王政復古の大号令、鳥羽・伏見の戦い。前年から続く怒涛のような時代の流れは改変されることなく歴史の流れどおりに進み、戊辰戦争は北へと移動する。その最中の江戸の町では、十五代将軍慶喜の謹慎、度重なる交渉による江戸総攻撃の回避、そして将軍不在の江戸城明け渡しが行われた。
笹貫と稲葉江たちの部隊が送り込まれたのは、徳川家から朝廷軍、旧幕府から新政府軍に江戸城が引き渡された直後。ひとときの安堵の中で次の火種が燻る江戸の町である。
「天璋院様の、奪還?」
江戸の屋敷――一橋邸に戻った海舟から話を聞いて、困惑しきった様子で声を上げたのは津山松平家の先代藩主、松平確堂だった。慶喜謹慎後の江戸城を預かり、城の明け渡し後は静寛院宮と天璋院の警護を朝廷から命じられている。
「こんな時期にどうして」
「こんな時期だからこそ、でしょうな。混乱に乗じようという魂胆かと」
「どこの誰だか知らないが、何を今更勝手なことを」
状況を把握して困惑が収まれば、次に湧き上がるのは怒りの感情だ。
天璋院。薩摩の島津家から出て十三代将軍家定の正室となり、家定の死後は出家して天璋院を称し、十四代将軍家茂の正室であった静寛院宮とともに江戸城の大奥を統括した。
徳川の御台所として徳川家存続と江戸の町を守るため尽力し、江戸開城に伴う大奥の明け渡し手続きも滞りなく完了させた今は十二年暮らした城を出て、この一橋邸に移っている。
その天璋院の奪還。つまり、実家である薩摩へ帰そうと目論んでいる者たちがいる。
彼女自身が屋敷の奥から出ることは滅多にない。それを許される立場にないということでもあるのだが、彼女が諸事を託している海舟が代わりに狙われたのであるならば、次に標的とされるのは同じく深い信頼を得ている確堂であろう。
「それで、とりあえず屋敷と貴方の警護にこの者たちをつけておきたい、というわけです」
「彼らに警護されながら彼らを監視すれば良いのだな」
「そういうことです」
「そういうことだったのかぁ」
海舟と確堂の会話に、呑気に笑った笹貫へ稲葉がそっと非難の視線を向けるが効果はなかった。
怪しまれることは想定した上で、この作戦を決めたのは笹貫だった。結果的には予定どおりの任務を行える形になったので問題ないのだが、もっと他に方法はなかったのだろうかと考えてしまう。
稲葉と笹貫が天璋院の周辺人物の護衛を行い、不慮の事態に備えている間に他の仲間たちが調査を進め、首謀者と繋がっているであろう遡行軍を叩く。
今回の任務の目的は、歴史どおりに天璋院を『徳川の御台所』として江戸に留め置くこと。
その部隊に薩摩の――『帰る刀』である笹貫が選ばれたことは、主に何か考えあっての事なのだろうか。それとも稲葉江が選ばれたのと同じように、多少なりとも所縁がある刀の方がわかることも多いだろうと、それくらいの気持ちであったのか。
任務を拝命した笹貫は特に何も言わず、ただいつものように目を細めて笑っているだけだった。けれどいつもと違って軽口のひとつも叩かなかったのだから、彼なりに思うところがあるのかもしれない。そう感じる程度には親しい付き合いになっている。
海舟と確堂の相談の結果天璋院への仔細の報告は明朝以降とし、今夜はとにかく屋敷の警護を強化することに決まった。笹貫と稲葉は控えの部屋をひとつ与えられ、とりあえずは作戦どおりに進んでいる。
案内された部屋に落ち着いて、一息ついたところで笹貫が口を開いた。
「どうだった?」
「どう、とは」
「稲葉の元の主だろ、確堂様」
松平確堂が藩主となった津山松平家は、結城秀康を祖として代々『稲葉江』を所持した家だった。そして確堂自身は養子であり、十一代将軍家斉の十五男である。
天下人の子として生まれ、しかし跡継ぎにはなれなかった男を祖とする家に養子入りした、将軍の子。
「歴代の持ち主のひとりに過ぎん」
「そっか」
「……だが。あの男に聞いてみたいと思ったことはある」
「聞けるといいねぇ」
そう言って笑う笹貫こそ聞きたいことがあるのではないかと稲葉は思うのだが、思うだけに留めた。本丸に雪が降った夜のことを思い返せば改めて聞くまでもない。
島津の姫君は、どうして故郷に帰ることを選ばなかったのか、と。
三、
海舟が連れて来た二人の青年は、確堂が新たに雇った護衛という扱いになっている。
清水邸を訪れた確堂に護衛として着いてきた二人が、肩を並べて待機している裏庭の竹藪からは、天璋院の意向を受けた確堂が関係者と対談を続けている部屋の様子を伺うことができた。日が明るいうちの襲撃はおそらくないと思われるので、どちらかといえば護衛としての姿を見せるための警護に近い。
連日繰り返される会談、報告に相談、文書のやり取り。将軍職を返上し、江戸城の明け渡しこそ無事に終わったものの徳川家の問題は未だ山積みである。特に確堂たちを悩ませているのは徳川宗家の相続者問題だった。
「亀之助様でほぼ決まってるだろ?」
一橋家、清水家と並ぶ御三卿のひとつ、田安家に生まれた御年五歳の若君の名前を上げて首を傾げた笹貫に、まだ確定してはいないと稲葉が首を振る。そもそも徳川家の存続自体が危うい橋を渡っている最中である。その上で、徳川に連なる家同士の微妙な駆け引きが新政府軍との交渉の裏側で行われていた。
将軍の実子でありながら継承権を持たない、徳川縁者の中でも年長者に位置する確堂は、それらのまとめ役としての立場を任される形になっている。
「稲葉」
竹藪から名を呼ぶ声は笹貫のものではなかった。姿を見せない相手を気にすることなく、稲葉はそのまま声を返す。
「五月雨か」
「はい。先日の襲撃の、首謀者がわかりました。やはり薩摩の者で間違いないようです」
だろうねぇと稲葉の隣で笹貫が頷く。予想どおりの調査報告には、しかし続きがあった。
「彼らの周辺に遡行軍と接触した形跡がありません」
「つまり、更に背後で、手を引いている者がいるかもしれないってこと?」
「恐らくは」
「特定できそうか」
「それがなかなか尻尾を掴めず……お二方はもうしばらく、警護をお願いします」
「わかった」
稲葉が頷くと同時に小さな葉擦れの音が聞こえて、それだけだった。五月雨江は調査に戻ったようだ。まるで忍者みたいだと笑った笹貫は、しかしそのまま何かを考えるように黙り込んでしまう。
「どうした」
「いや、どうして天璋院なんだろう、って」
本丸で任務内容を聞いた時は特に疑問に思わなかったが、現地の状況を眺めながら改めて考えると何かが引っかかる気がした。
「天璋院が薩摩に帰ったとして。その場合は当然、彼女が帰らなかったという歴史そのものは変わってしまう。だけどその変化が、歴史の大きな流れに対して直接影響すると思う?」
言われてみれば、と稲葉も考えを巡らせる。彼女が新政府軍にいる縁者に対して、徳川家存続を訴える最初の文を出す前であれば多少なりとも歴史は変わったかもしれない。しかし今この段階において、徳川家を守るための彼女の戦いはほとんど終わっていた。
あとは田安家から若君を十六代目として迎え入れて、その成長と徳川宗家の再興を見守るのが彼女の『歴史』だ。
「まだ上野戦争もあるから終わったとは言えないし、奥羽各地での戦闘が始まったら列藩同盟に檄文を送ったりもするけど。それ自体はあまり影響があったとは言えなさそうだし」
「敵の真意は他にある、と」
「天璋院が薩摩に帰ってしまった場合、一番に影響を受けるのは誰だろう」
もちろん彼女に関係する人物たちすべてに多少の変化は出るだろう。しかしこのタイミングで、一番大きな影響を受けるのは誰かと考えた時。
「オレ、静寛院宮だと思うんだ」
十四代将軍家茂の正室、和宮親子内親王。江戸城を出た今は、この清水邸に滞在しているはずだ。
天璋院と同様に徳川家の御台所として、実家である宮中には戻らないことを宣言していた。そうすることを決意する前、実家と婚家の間で板挟みとなってしまったことに悩んでいた彼女の思いを後押ししたのは、他でもない天璋院である。
その天璋院が故郷に帰ってしまうことによって静寛院宮の決意も揺らいでしまうのではないか。
かつて公武合体――朝廷と徳川の結びつきを強化するために降嫁した内親王が、今も徳川に残っている。それ自体に大きな意味がある。
「静寛院宮が徳川を見捨てて実家に帰る、なんて改変が生じたら歴史はどうなるのか。ちょっと予想がつかない」
この先にある時代の流れの中で、影響力を増していくであろう歴史改変の、その後の予想がつかないから対策も立てられない。歴史を守るためには最も避けたい事態だった。
長い会談を終えて文机に向かった確堂は、書き上げた報告の文を従者に託し、ふぅっと肺の底から息を吐きだした。
あと少し、あともう少しと己を鼓舞してきたが、その気力もさすがに長くは続かなくなっている。藩主時代も忙しい日々を送っていたが、家督を譲って隠居したというのに忙しさも心労も更にひどくなっている気がする。
美作国津山松平家が将軍の子である確堂を養子として迎え入れたのは、かねてからの宿願である封土の増加のためでもあった。長じて藩主となった確堂はそのために奔走し、願いどおりとはいかなかったがある程度の成功を収めている。
領民のための施策を数多く実現させ、学問を振興し洋学も積極的に取り入れた。隠居後は将軍の子として、結城秀康の末として。徳川の家を守るために戦い続けている。
どこかで何かを諦めていればきっと、静かで穏やかな日々を得ることもできただろう。それをしなかった、選ばなかった自分はたいそう欲張りなのだろうと苦笑を浮かべたところで、静かな足音が聞こえて来た。
「確堂様。お茶をお持ちしました」
「君は確か――稲葉、だったか」
海舟が連れて来た二人組の、長身の方。丁寧に置かれた熱い湯呑を手に取って、休憩のついでだと確堂は口を開いた。
「津山の家にも同じ名を持つ名刀がある」
「……よく、存じております」
「そうかそうか。藩祖、秀康公の話は有名であるからな」
徳川家康の実子で、豊臣秀吉の養子となった男。天下人である二人の名前を譲り受けておきながら、天下を掴むどころか関ヶ原の大舞台で名を上げることすらできなかった。
「私もね、ある意味では秀康公と同じく、二度天下を逃した男だ」
その言葉を聞いた稲葉が伏せていた顔を上げる。それこそ、機会さえあれば彼に聞いてみたいと思っていたことだった。
天下を逃した一度目は、将軍の実子として生まれながら養子に出されたことだろう。津山松平家は徳川の家門筆頭とはいえ御三家、御三卿の下に位置する。徳川宗家の子としての将軍継承権は消失することになる。
「その二度目とは、清水家への養子入りの話を断ったことでしょうか」
「私から断りを入れる形にはなったが、もともとうまく進むような話ではなかった」
それでも御三卿のひとつである清水家に養子入りすれば、将軍継承者の候補として名が挙がる。天下人――将軍になる可能性を確堂自ら手放したことは事実だ。
将軍の子であること。結城秀康を祖とする津山松平家の当主であること。自分で選んだ生まれや家ではない。それでも、どちらも手放すことなく確堂は己が進む先を選んで来た。
「私にも意地がある。徳川に生まれた者として。そして津山松平家当主として」
お家の勝手で一度養子に出しておきながら、再びお家の勝手で後継者候補にしようなどと、理解はできても納得はできない。
「秀康公も、もしかしたら『そう』だったのかもしれないと。己が進むべき道に悩んだ時は稲葉江を手にして思いを巡らせてきた。……もちろんそれだけではないだろうし、考えたところで本当のことは何もわからないが」
そう言って笑ってみせた確堂に、だから彼の呟くような声が記憶に残っていたのだと稲葉江はようやく気が付いた。
彼は誰に語るでもない心の内を刀に語り掛けていた。その刀の来歴を思い浮かべながら。
徳川家康から結城秀康に託された刀。それは徳川の命運を決める戦に赴く総大将の背後を任せるという、父から子への大きな信頼の証でもあった。
徳川の家から出されて、それでも徳川の家の者として、徳川の家を守る。天下を掴むことはできなくても、大舞台で名を上げることも叶わなくても。天下泰平の安寧を守るために。
父家康から稲葉江を受け取った秀康は、確かにその道を選び取った。
いつか遠い昔に聞いた、今は目の前にいる相手の、心の内からあふれて零れ落ちたような声を稲葉は思い出す。
『徳川の家を守ることは、この稲葉江と共に藩祖から受け継がれる我が津山松平家の使命』
だからこそ。
『徳川を、己の在るべき場所と選んだ彼女の覚悟に最後まで添いたい』
――二度と帰らないと誓った故郷の、見たこともない雪の景色を聞いたその日からずっと。
四、
確堂がその話を聞いたのは、江戸の町に雪がちらつく寒い夜だった。
前年の火災で江戸城の二の丸が焼け落ちたため、天璋院は西の丸に居を移している。その部屋の、床の間に掛けられた力強く勢いのある笹竹の絵は天璋院自ら筆を執ったものと聞いていた。
年が明けてすぐに始まった鳥羽、伏見での戦いは大敗に終わったと、にわかには信じられない報が既に入っている。その件で呼ばれたものと確堂も思っていたのだが、上座で寛いだ様子の天璋院が口にしたのはまったく別のことだった。
「薩摩にも雪が降る。意外であろう?」
「……ええ、驚きました。広大院様からもそのような話は聞いたことがありません」
確堂の父、家斉の正妻は薩摩の姫君であった。大奥で生まれた将軍の子は全て正妻の子として扱われる。幼き頃からよくしてもらった覚えはあるが、薩摩の雪の話は記憶にない。
滅多に降ることがない故に知らなかったのか。それとも、帰ることのない故郷の景色を江戸では敢えて口にしなかったのか。
「私も知っているだけで、その雪に覆われた故郷を見たことはない」
「薩摩に帰りたいとお思いですか?」
「それをお前が聞くのか」
「聞くのであれば今しかないと思いましたので」
そしてそれを、徳川の家の中で正面から聞くことができるのもまた、彼しかいないのだろう。
しばらく確堂の穏やかな顔を眺めていた天璋院は、それもそうだな、と淡々とした様子で答えた。
「私が一度でも薩摩へ帰れば、江戸へと戻ることは二度と出来ないだろう」
徳川の家へ嫁いで来た時と同じように。本人の意思とはまったく関係なく。どちらかしか選べないのであれば己の在るべき場所、帰るべき場所は自分の意志で決める。
これはきっと、私の意地のようなもの、と。天璋院は微笑を浮かべた。
「私は先の将軍家定が御台所、天璋院である。そうであればこそ、薩摩に帰りたいとは露ほども思うはずがない」
自分の意志で進むために、その道を守るために、選んで、捨てる。故郷へ帰る道を手放す覚悟は既に決めている。
「――あるのは、生まれ故郷を懐かしく思う心だけだ」
二度と戻らないと決めたからこそ。
「私が帰るのは徳川の家。それでも、見ること叶わぬ景色を想うことくらいは、許せ」
「……この胸に秘めおきましょう」
雪の夜に語られた、懐かしい故郷の、見たこともない景色の話を。
笹貫の予想は当たっていた。敵の真の狙いは静寛院宮であり、遡行軍が接触したのは宮中の人間だった。
徳川の家に囚われたままの――実際はどうであれ彼らにとってはあくまでもその認識である静寛院宮をお助けしたい、という一部の過激派は本来の歴史の中にもいた。遡行軍との繋がりさえ絶てば歴史どおりの流れに戻るだろう。
敵の本陣を叩き、遡行軍の力で襲撃用に集めている武器を回収すれば、任務は無事に完了となる。
「これでやっと戦さができるねぇ」
警護中も小規模な襲撃は幾度もあったのだが、確堂や海舟の手前、男士としての正体を隠したままだったので存分には戦えていなかった。
「何も言わずに出てきたけど、あとで挨拶をするくらいの時間はあるかな」
「どうだろうな」
肩を並べて五月雨江たち別動隊との合流地点に向かいながら、不意に稲葉は『この先の歴史』を語り始める。
「十六代目を迎え、その後見人となった確堂と共に徳川再興のため尽力した天璋院は、確堂よりも先に世を去る」
「薩摩に帰らないまま」
「一度も戻ることのないまま。その死を悼んだ確堂が手向けた歌が残っている」
――御姿を仰ぐも悲しぬかつけば 落るなみだに雪もきえつゝ
「……江戸の雪なんて、あっけなく消えちゃっただろうね」
流れ落ちる涙はきっと尽きることもなく。その熱で、天の下に降る雪はすっかり溶けてしまっただろう。
悲しみは決して、彼女の境遇を哀れと思ったからではなく。
「天璋院のこと、勝手に嫁に出されて、江戸に向かわされて、死ぬまで故郷に帰ることができなかったかわいそうな姫様だと思ってた。何も知らなかったとはいえ、いや、何も知らなかったからこそ申し訳ないと思う」
だからこそ、と。帰る刀は改めて思う。
「やっぱり故郷に帰してあげたかったと思うよ。帰りたいと思う気持ちはきっと、最後まで消せなかっただろうから――もしかしたら遡行軍もそう思ったのかな。歴史を変えるためというよりも、ただ彼女たちを故郷へ返してあげたいと思ったのかもしれない」
「笹貫」
「わかってる。それは彼女たちの選択を、その覚悟を否定して、踏み躙る行為だ」
モノとして物言わぬ刀と違って、人は自ら選ぶことのできる身体を持つ。笹貫も稲葉もその身に焦がれた。自らの手を伸ばし、行く末を選びたいと願った。
けれども人の身は、思っていたよりもずっと不自由なものでもあった。人の身であっても己が生まれる家を選ぶことはできない。
――それでも確かに、彼らは自分の心で進むべき道を、帰るべき家を選び取った。
生まれた家や来歴がなんであれ、その先に進むべき道を選ぶのはその人自身。人々が、それぞれに抱えた願いや思いから選んだ、その道の先にあるのが歴史。それを守るのが刀剣男士であるならば、きっと。
歴史を守るというのは、その人の覚悟も守るということになるのだろう。
「戦うのなら、その覚悟を守る側でありたいと思うよ」
「それが我らの使命だ」
稲葉江の静かな、それでいて揺らぐことのない声に目を細めて笹貫は笑った。
どちらもかつては、誰かの家の刀だった。家の願いや祈りを託され、伝えられ、誰かが手放し、誰かが手に入れて。
長い歴史の先で、こうして肩を並べて立っている。
家の刀として人々から託された、いくつもの祈りを忘れたわけではない。それでも、人の身を得た稲葉江がどんな思いで届かないものに手を伸ばすのか、笹貫は知っている。もちろん笹貫がどれほどの強さで何を一番としているのか、稲葉江も知っていた。
それはどちらも、願いから生まれた意地のようなもので。
「戦って、勝って、帰るぞ。我らの本丸に」
歴史に、人々の決意に思いを寄せる。隣に並び立つ相手の心にも同じように。