2012-03-17 鬼の首:瀬戸内
2012-03-21 霧 雨:蒼紅
2013-03-29 満ち月:蒼紅
2012-06-07 烽 火:蒼紅
2012-07-13 分 岐:関ヶ原
*一人称と他人称を意図的に変えています。
*各話完結。シリーズ未完。
鬼の首
その日も雨が降っていた。
近頃は外に出ることすら稀になったという彼が鎧兜の紐を解いて平服でいるのは、敗者として謹慎の意を示しているのでは決してないということを勝者である男は知っていた。
彼にはもう必要がない。その身を守るための強固な鋼も、相手へ向ける鋭い刃も。何もかも必要なくなってしまったから。
「鬼の首をとった気分はどうだ、毛利」
「徳川よ、貴様がそれを問うか」
ふっと嘲るように笑って、けれどそれきりで。
あとはただ、降り続く雨の音。
☆
恨んではいないと目の前の男が言ったので、彼はそれを受け入れることにした。
「あの時の俺を殺したのは今のてめぇじゃないし、あの時に殺された俺は今の俺じゃないからな」
だから今の俺にあんたを恨む必要などどこにもないのだと言って、笑う。今も昔も単純な男だ。
「だけどな、てめぇがあの時と同じことをしたら、俺も同じことを選ぶぞ」
どういう意味だと問えば、男はその大きな手を伸ばして彼の首筋に触れた。白い首に脈打つ血の流れを、ゆっくりとなぞる。
それはかつて、男が彼に切り裂かれて血飛沫を上げたのと同じ場所で。
「昔のように策を弄するのはてめぇの勝手だが、それで俺を騙したり裏切ったり——ダチを傷つけたりしたら、今の俺が、今のてめぇを許さねぇ」
それだけは覚えておけよと笑うこの単純な男の思考など手に取るようにわかってしまって、元就は呆れたようにため息を吐いた。
元親は変わらない。何も変わっていない。あの時のまま、そこにいる。
——ああ、本当に面倒な男だ。
*
「徳川は保たねぇぞ、家康」
「だろうなぁ」
手当を終えた傷口にクルクルと晒しを巻きながらぼんやりと答えた相手を、手負いの男は片目で見据えた。
「アンタはもう権現じゃねぇ、ただの医者だ。見捨てても誰も文句は言わねぇよ」
「それでもワシだけは見届けなければならんだろ。なあ、政宗」
お前だってそうだろうと視線で問われ、男は肩を竦めた。今更言うまでもないことだった。
始まりの存在だったからこそ、その終焉を見届ける。自分たちがこの時代に生まれたのはきっと、そのためだ。
家康は徳川家の、政宗は伊達家の。その行く末を。
「だけど、俺とアンタは違う。アンタが作り上げたのはこの徳川の天下だ。このまま時代と心中する気か?」
「そこまでは出来ないなぁ」
使い終えた治療器と残った晒しとを片付けながら笑う相手に、隻眼の男は苦笑を浮かべた。
「見ているだけか」
「こうやって、手当くらいはするけどな」
それ以上は関わらない。関われない。今の自分は彼の言うとおり、ただの医者なのだから。
「それにワシはまだ、見つけていないんだ」
今この目の前で滅びゆく世界を作り上げるために、かつての自分は一人の男のすべてをこの手で奪った。
最期まで美しい目をしていた孤独な凶王。彼もこの時代に生まれているのならば、見つけ出して、そして。
「どうするんだ?」
「どうしようなぁ」
なんだそりゃと呆れて返せば、家康は困ったように笑みを浮かべるだけだった。
「会ってみないとわからないだろう。彼が何を考えているのか知らなければ決めようがない」
そうだろう? と問われれば確かにその通りだったと、政宗は数か月前の自分を思い返す。
けれど、自分と目の前の男とは、あまりに境遇が違っていて。だからこそ聞いてみたいのだと、開いた口は騒音によって塞がれる形になった。
「いえやすどのおおおおぉぉぉぉぉ」
けたたましい足音が聞こえたと思ったら、次の瞬間にはスッパーンと勢いよく障子が開かれる。彼が来るたびに何かが壊れやしないかと心配になるのだが、どういった加減をしているのか今のところ全て無事だった。
「家康殿! と、政宗殿!」
「よぉ。相変わらず騒々しいじゃねぇか」
そんなに慌ててどうしたんだと問われて、政宗の腕に巻かれた真新しい晒しに目を奪われていた幸村は本題を思い出した。
「た、大変でござる! 坂本殿が暗殺され申した!」
「坂本、……竜馬か」
家康の呟きに政宗も眉を顰める。とりあえず座れと、報告をもたらした闖入者に声をかけた。
「詳細は?」
「坂本殿は既に息絶えており、同席していた中岡殿はまだ少しばかり意識があると」
「アンタがそこまで知ってるってこたァ、土佐の連中にも当然もう知れているな」
「元親が、いや、元就が心配だ」
はっきりとした家康の言葉にスッと立ち上がった政宗は、どうして元就殿がと不思議そうな顔をしている幸村を引き上げながら障子を開く。夜風が吹き込んで燭台の火が揺れた。
「急ぐぞ真田。手遅れになる前にどちらか見つけねぇと。家康、アンタはここで待機だ」
「わかった。頼む」
真っ直ぐな背で頭を下げた家康を目の端に捉えて、政宗はトンと障子を閉めた。政宗殿!と状況を掴めないままの幸村の手を取って足早に廊下を歩き出す。
「説明は後だ。とにかく元親か元就か、どっちでも良いから早く見つけてここに連れて来るぞ」
「二人が一緒におられたら?」
「最悪だ」
吐き捨てるような政宗の言葉を受けて、幸村は走り出した。
*
瀬戸内海に船を浮かべているのだという。
男の出身は土佐で、長宗我部の遺臣である郷士の家系である。同じ生まれの男が船を持ち大きなことを始めるというので、その仲間になったのだそうだ。
聞いてもいないのに己の来歴を語る元親に、相槌を打つこともなくただ盃を重ねたのはこの世で再会してすぐのことだ。自分には特に語るほどのものもなく、あったとしても語るだけの口を持っていなかった。
ただ、長州の中でも瀬戸内に面した領地に生まれ、その海を見ながら育ったのだと。それだけを淡々と語れば相手は嬉しそうに笑った。
海が二人を繋いでいた。それは過去の話で、今のことではないのに。
「元就!」
同志たちと会合を開いている部屋へ、そんなことはお構いなくひどい形相で駆け込んできた男を見て、もはや仕方のないことだと元就は諦めた。
ひたと妨害者を睨みつける男たちを背にして立ち上がり、外に出るぞと相手を促す。ここで話ができないことは相手もわかったのだろう。何も言わずについて来るが、その苛立ちを隠そうともしなかった。殺気にも似た相手の感情が背を刺すのを感じながら、黙って裏路地へを足と運ぶ。
「こんな時分に何用だ貴様」
「竜馬が死んだ」
「そうか」
振り返りながら特に驚いた様子もなく応える元就に、元親はここへ来るまでに抱いていた疑惑を確信に変えた。
「てめぇ、知っていたな。てめぇらの強みはその情報網だもんな。当然、暗殺の計画のことも入手していたんだろ」
ギリッと右手の拳を握りしめながら、感情を抑えるように低く唸るような言葉を紡ぐ。
「知っていて、黙っていたのか」
互いの利害の一致という、そんな理由であっても手を組んでいた相手の暗殺計画を。それでなくても暗殺された彼が元親の友人であることを、元就は知っているはずなのに。
それは裏切りだと燃えるような片目が語っていた。それを感情の見えない冷めた目で見返しながら、元就は問う。
「ならばどうする」
「裏切ったら、ダチを傷つけたら、俺はてめぇを許さねぇと言ったはずだ!」
「……貴様は本当に、過去ばかり見ているのだな」
恨んではいないと言った。けれどそれだけだった。
過去と同じことを繰り返したら許さないと言った彼自身が、過去と同じことしか繰り返していない。
「貴様のような馬鹿に付き合うのも疲れた。もう、貴様の好きにするが良い」
「てめぇ…!」
許さねぇと叫んで、刀を抜く。
結局、彼は昔と何ひとつ変わっていない。彼と共に、その対面にいたいと願うのは自分ばかりで、そんな自分の想いを彼はこうやって必ず裏切る。
再び裏切るのならば許さないと言った。あの時と同じことを選ぶと言った。
白刃が煌いて、元親の激情の、その勢いのままに振り下ろされる。
「だから貴様は馬鹿だと言ったのだ」
それだけを言って、相手は目の前で簡単に崩れ落ちた。
その様をただ眺めながら、元親は相手の血に濡れた刀を手にしたまま呆然と立ち尽くす。
元就は、刀を抜いていなかった。構えることもなくそこに立っていた。反撃も抵抗もなく、もちろん逃げることもなく、されるままに元親に斬られた。
まるでかつての元親の最期を、再現するかのように。
「おい、元就……?」
呼んでも返る声はない。彼が伏した地にはゆっくりと、血だまりが広がっていく。
「うそだろ、オイ、応えろよ、元就、」
「馬鹿野郎!」
激しい動揺からよろけた元親に怒鳴り声を浴びせ、その頬を殴ったのはもう一人の隻眼の男だった。体勢を崩して膝をついた男の胸ぐらを掴み、もう一度拳を固めて殴りつける。
「まさむね」
「いい加減、目ェ覚ませよ。てめぇの目の前にいたのは誰なのか、その片目でとくと見やがれ!」
言われるままに、倒れた男に視線を向ける。
自分が一方的に斬り倒した相手は、小さな男だった。過去の彼も確かに小柄ではあったが、ここまで小さかっただろうか。こんなにも線の細い身体をしていただろうか。
「アイツが刀使えないって、お前知ってたか。あの刀は見せかけのものだって」
「知らねぇ」
「俺ですら知ってることをなんでてめぇが知らねぇんだよ。お前はすぐ目の前にいた男の、何を知っていた? 何を見て、何を聞いてきた?」
――答えられなかった。自分は何も知らなかった。
どうしてか、彼のことなら何でも知っているつもりだった。それだけの時間を共有していたと思い込んでいたのは、過去の自分なのか今の自分なのか。どちらにしても自分は彼のことを何も見ていなかったのだ。
あの時はこうだった、と。過去のことばかり自分は語ってはいなかったか。それを黙って聞いていた時の彼が、どんな顔をしていたのかどうしても思い出せない。
「俺は、」
「何をしておられるか二人とも!」
政宗の声に駆け付けた幸村が、胸ぐらを掴んだままの政宗と元親を引き離して叫ぶ。
「今は元就殿を助けることが先でござる!」
「悪ィ……真田。アンタの言うとおりだ。家康のところまで運ぶぞ」
手を離されて、力なくその場に座り込んでしまった元親はしかし、出血が止まらない左肩の傷口を縛り上げた政宗と幸村が二人掛りで抱えあげようとしていた元就を見て立ち上がった。意識のない身体を、二人から奪うようにして軽々と抱き上げる。
「家康のところに行けばいいんだな」
「出血が多すぎる。急げ」
「わかってるよ!」
大声を上げてなりふり構わず走り出す。抱き上げた身体は驚くほどに軽かった。
そうだ、この手の中の彼はもうあの鎧兜を身に着けていない。あれだけの大きさをきれいに振り回すものだと、密かに感心していた日輪も、もちろん持っていない。自分もまたそうであるように。
どうしてそのことに今の今まで気づかなかったのか。確かに彼の言うように、過去ばかり見ている馬鹿は自分だった。
☆
常に目の前にいた男を喪って、初めて気づいたことが色々とあった。
そのことに動揺した彼は、その動揺から目を逸らすには聡くありすぎ、直視するには時が遅すぎた。そしてゆっくりと己の感情を飼い馴らすだけの時間があった。重い鎧兜の紐を解き、穏やかさを取り戻した瀬戸内の海を眺めながら、その手中にひとつだけ、答えを残した。
自分はただ、あの鬼の首が欲しかった。いつも目の前にあって、この穏やかであるはずの海と心とを波立たせるあの目障りな鬼の首が。
けれどその首を手に入れて、初めて知る。本当に欲しかったものは、別にあったのだと。
☆
目覚めて最初に目に入ったのは、煤けた天井の梁と呆けた顔だった。
「おはよう元就」
「……家康」
相手の名を呼ぶと同時にほんの僅かに身体を動かせば左肩に鈍い痛みが走る。その先にあるはずの左腕に違和感を覚え、けれどそれ以上に気になることがあった。
「重い」
「つい先ほどまでは起きていたのだがなぁ」
苦笑を浮かべた家康の視線の先にあったのは、元就の上掛けに顔を埋めているぼさぼさの見慣れた頭。
「ワシが手当てを終えた後、寝ないでずっと看病していたから」
丸二日も眠り続けていたんだぞと言いながら、起き上がろうとする元就の背を支えて助ける。ゆっくりと寝台の上に半身を起こした元就は、右手を上げて左肩に触れ、そのまま左手の先へと己の指先を滑らせた。
「痛むか」
「多少」
「動くか」
続いた家康の問いに眉を顰めて、左手を右手で握った元就はふんっと鼻を鳴らす。
「藪医者め」
「結構頑張ったのだが、……すまぬ」
頭を下げた家康は、けれど時間をかけて慣らしていけば多少は動くようになるはずだと説明する。つまり元の通りには戻らぬのだなと理解して、動く右腕を振り上げた元就は自分の上に転がったままだった頭をべちんと叩いた。
「起きよ捨て駒」
「俺はてめぇの駒じゃねぇよ!」
ガバッと頭を上げた元親は反射的に叫んでから、目の前の顔を凝視する。手を伸ばして、確かめるようにその顔に触れて。そのまますがりつくように抱きしめた。
「痛い」
顔を顰めながらも振り払おうとはしない元就を見て笑った家康が、そっと部屋を出ていくのを一瞥して再び元親のその頭を叩く。
「痛いと言っておろう」
「すまねぇ……」
ようやく身体を離して、しかし伸ばした両手は元就の着物の袖を掴んだまま。
「俺は、本当に本当のバカだった」
「今更気付いたか」
「また、昔と同じ過ちを繰り返すところだった」
「貴様は救いようのない馬鹿だからな」
少しは学習しろと元就が吐き捨てれば、あんたの言うとおりだと大人しく頷く。
「家康に言われた。暗殺のことを知っていながら俺に言わなかったのは、俺を守るためだって」
聞けばきっと、後さき考えずに友のもとへと走って駆け付けていた。そして巻き込まれていたはずだ。それを誰よりもよくわかっていたからこそ、元就は黙っていた。
昔の元就ならば決してそんなことはしなかっただろう。けれど今、目の前にいるのは違う元就だ。そのことを理解していなかったから勘違いして、きちんと問い直すこともなく斬り捨てようとした。いや、家康がいなかったら確かにそのまま斬り捨てていた。
「今のあんたは俺を、裏切ってなんかいなかったのに」
――裏切ったのは自分の方だった。
すまねぇ、すまねぇと繰り返しながら俯く相手をじっと見ていた元就は、無表情のまま目の前のその頭をわしゃわしゃと掻き乱した。
「何すんだてめぇ!」
「貴様の馬鹿のせいで、我の左腕は当分動かぬそうだ」
「そうか……」
先に家康から聞いていたのだろう。動じることなく頷いた元親は元就の動かない手を取って、その大きな両手で包み込むようにそっと握りしめた。
己の短慮の結果がこれだ。ならば自分はそれを、この先もずっと背負わなければならない。
そのためには彼の傍にいるのが一番だと思ったから。
「元就」
「何ぞ」
「俺の友になってくれ」
「断る」
即答だった。けれどここで諦めるわけにはいかない。それでは過去と何も変わらなくなってしまう。
逸る心を抑えるためにぎゅっと拳を握りしめて、波ひとつない海のような、鏡のような元就の目をまっすぐに見つめる。
「俺はずっと、あんたが欲しかった。今も変わらず、欲しいんだ。俺のバカな頭じゃ何考えてんだか少しもわからねぇあんたが、それでも俺を見ていることが嬉しかった」
それは、かつての自分が最後まで気が付かなかったこと。
あの海の対岸にいつも相手がいた。乗り込めばいつも彼が出迎えた。国を背負って対峙して、自分たちの信じる者のために刃を交えて。敵対していても目の前に彼がいる、それだけで十分だと思っていた。
馬鹿な自分は、今この目の前で失うかもしれないと思って初めて、本当に欲しかったものに気が付いたのだ。
「貴様の友と同列になどするな」
「ハイ……」
「貴様を欲しいと思うている我が、友などという立場に甘んじると思うか」
「思いませ……ん?」
今なんと言った?
自分の耳が信じられなくなって相手の顔を凝視していると、ふんといつものように鼻を鳴らした元就が馬鹿にするように口を開いた。
「馬鹿でもわかるように言うてやったが、聞こえなかったか」
「聞こえた」
自分に都合の良い聞き間違いなどではなかったのだと、やっと理解して。
我慢できず、力任せに抱きついた元親に「痛い」と何度目かの文句を言いながら、元就はゆっくりと右手を伸ばした。日に焼けた首に片腕を絡めて、自分を包み込むその両腕の中で目を閉じる。
ずっと欲しかった鬼の首はこうしてようやく、本当に欲しかった形で手に入った。
霧雨
けが人の寝ている部屋から一人で戻ってきた家康に、声をかけたのは幸村だった。
「どのような様子でござった」
「うん、大丈夫そうだ」
元就も、元親も。そう答えた家康の笑みに安堵したのか、笑い返した幸村の顔はしかしすぐに曇ってしまう。おや?と思いながら部屋を見渡せば、そういえば幸村と共に様子を見に訪れて、家康の戻りを待っていたはずのもう一人の男の姿が見えない。
「政宗は?」
「政宗殿なら、小十郎殿に呼ばれて戻られましたぞ」
何やらあったご様子で、と答える声がだんだんと小さくなってゆく。勘だけは誰よりも優れている彼だから、わからないなりに何かを感じ取って不安になっているのだろう。感じるだけで説明できないその感情の揺れに戸惑っているように見える。
「ひとつ尋ねても宜しいだろうか、家康殿」
「なんだ?」
「数日前に見た、政宗殿のあの傷は、」
「あいつにも色々あるんだよ」
答えるつもりはなかった。それが約束だからだ。
彼もまたきっと、その進退を決めあぐねているのだろう。まだ出会っていない自分はどうしようかと考えを巡らせるだけで良いが、出会ってしまった彼は決めなければならない。
元就は、元親と出会ったその時にもう決めていた。彼の何物にも揺るがないまっすぐな意思は、昔の彼そのままだ。選び取るものが過去と違うのは、彼が変わったからなのか、それとも背負っていたものがなくなったからなのか。
政宗も自分も、元就と同じように考える時間だけは多く残されていたはずなのに、どうしても何一つ決めることができない。特に政宗は難しいだろうと隣から眺めて思ってしまう。
けれどそんな話は、幸村にはきっとわからないことで。
「元親殿は、元就殿と再会した時うれしかったと、申されておった」
膝の上でぎゅっと拳を握りしめながら、幸村が口を開く。
「某も政宗殿と再会できた時、だいじな団子を取り落としてしまうほど、うれしかった」
けれど。政宗も嬉しいと感じていたのかどうかわからない。ただ呆然と立ち尽くして幸村を見つめていた。この違いはいったい何なのだろうか。それが今も幸村にはわからない。わからないから不安になってしまう。
「なあ、幸村」
この二人の小さなすれ違いはきっと家康にとっても他人事ではないから。どこか祈るような気持ちで、家康は笑う。
「政宗が何を選んでも、許してやって欲しい」
「家康殿……?」
幸村のまっすぐな視線が揺らぐのを見ているのはつらかった。
部下である小十郎に呼ばれたのならば、政宗は仙台伊達家の京屋敷にいるはずだった。今の彼は伊達家に仕える家臣の一人である。
屋敷の場所はもちろん知っているが、他国の人間がほいほいと訪れて良い場所ではないことも知っていた。あとで佐助に頼んで文を届けてもらおう、彼も元就殿や元親殿のことを心配しておられたからと、霧雨の中を傘もしさずにぽてぽてと歩きながら考えていた幸村はふと顔を上げる。
「政宗殿!」
「よぉ。さっきは途中で悪かったな」
そう言って笑った顔が、どこかぎこちなかった。そのことが気になりつつも近くに駆け寄る。
「用事はもう終わったのでござるか」
「そのことなんだけど、な」
彼らしくなく言い淀む。こんなことが過去にもあったような気がした。今の世で再会する前の、遠き昔の記憶がゆるりとよみがえる。
確か、あの時も雨が降っていたはずだ。今日と同じ霧のような雨が。
「ちょいと国に帰ることになった」
「それはまた急な話でござるな。して、次はいつ頃こちらへ」
「次、はたぶんない。だからアンタにお別れを言いに来たんだ」
噛みしめるように告げられた言葉に、幸村はゆっくりと瞬きをする。自分が抱いていた予感はこれだったのだと、頭のどこかで納得しながら口を開いた。
「理由をお尋ねしたい」
「アンタとは一緒に居られない。それだけのことさ」
「それは理由とは呼べぬ!」
「悪いな真田。理由は、あの時と一緒だ」
共に同じ道を行くことはできない。あの日の誓いを果たすことは、できない。
「政宗殿!ひとつ答えて下され!」
背を向けて去って行く相手に問いを投げる。これだけはどうしても聞きたかった。聞かなければならなかった。
「某は政宗殿とお会いできてうれしかった。本当にうれしかった。政宗殿は、どうでござったか」
幸村の言葉に立ち止まった相手が、少しだけ振り返る。けれどその視線は彼方に向けたまま、笑った。
「嬉しかったさ」
語尾が震えていたように聞こえたのは幸村の錯覚なのか。
確かめることもできずに、ただそのまっすぐな背を見送った。
あの霧雨の日と同じように。
「真田は、アイツだけは再び真田家に生まれた。結末を見届けるだけの俺たちとは違う。アイツは真田の家と名を背負わなけりゃならねぇ」
「だから、遠ざけるのか」
「あの時と逆だ。俺は奥州筆頭として国を守らなけりゃならなかった。だからアイツとの約束を、誓いを果たせずに別れた。その最期を見届けることすら出来なかった」
ーーたとえば。もっと違う時代に、互いに違う家で生まれて、違う形で出会っていれば。もしかしたら新しく生まれ直した世で共に日々を過ごすこともできたのだろう。
けれど出会うのが遅すぎた。或いは、早すぎた。
「そういえばお前はずっと、真田としか呼ばなかったなぁ」
決して幸村とは呼ばなかった。それがはじめから決められたことであったかのように、頑なに。
「それで、国に帰ってどうするつもりだ?」
「それはアンタが作ったこの時代に聞いてくれよ、家康」
先のことなどわからないが、ろくなことにはならないだろう。あの坂本竜馬が暗殺されてからというもの、京は表も裏もひどく騒がしい。このまま何事もなく終わるとは到底思えなかった。
「もしかしたら、今度は俺がアイツの知らねぇ場所で斃れるのかもな」
あの時とは逆だから。
ああ、やはり彼は後悔していたのかと、家康はその時初めて理解した。国のため民のため、たった一人の男との誓いを果たせなかったことを。
そしてそれを、再び繰り返してしまうことを。
満ち月
政宗が京に来ていたのは、上洛している将軍警護の強化のためだった。
過去に関わりのある者のほとんどが京都に集まっていたため、結果的に集合する形になっていたが、それも偶然の産物である。江戸生まれの家康は西洋医学を学ぶために大坂の適々斎塾の門を叩き、そのまま京都に移り住んだのだという。長州毛利家の家臣である元就と、土佐山内家を出奔して坂本竜馬率いる海援隊に入っていた元親は、それぞれ今の仲間と共に活動するために京都入りしていた。
師に従って三年前に京都に来たという幸村は、松代真田家の御曹司だ。家を継いで松代国主となる立場からは遠いが、真田の家と名をその背に負い、有事には多くの家臣を率いる存在であり、その言動が取り沙汰されるような身分である。軽率な振る舞いは許されない。
過去の世とは違い国も家も背負う必要のなくなった者たちが多くなった中で、彼の存在だけが異質だった。他の者たちは、基本的には見守るだけだ。
仙台伊達家の上士格の家に生まれたとはいえ、国政に直接関わることもないただの一家臣である政宗に、できることなどそう多くはない。行く先を見守るだけというのは、そういう意味でもある。
現将軍による大政奉還が行われたのが先月のこと。つまりこの世は既に徳川の天下ではない。
けれど依然として諸侯の頂点にあり、この国の実権を握っている徳川家に対する西国諸侯の動きは、見えない場所でじわりじわりと進められているようであった。その先陣に立つのが薩摩島津家と長州毛利家である。土佐の上層部は徳川寄りの姿勢をまだ崩してはいないが、元親たち郷士と呼ばれる下級武士たちは薩長と足並みを揃えている。
うちはどうするのかねぇといっそ他人事のように思いながらひとり夜道を歩いていた政宗は、ぴたりと足を止めた。家康が小さな診療所を構える町屋へ至る道の途中、囲まれた壁と塀で満月の明るい光も遮られてしまうような薄暗い裏路地。雪でも降りそうな冷たい風に揺れる、柳の木の陰にそれはいた。
「こんばんは。竜の旦那」
今の自分は奥州の独眼竜ではないと、言っても聞かずにその名で呼ぶのはこの男だけ。
「一人で俺んとこ来るたぁ、珍しいな」
「竜の旦那に話があってね」
ないしょばなしだから、と。口元に一本立てた指を当てながら姿を現したのは、政宗の予想どおり幸村の付き人である佐助だった。今の彼は忍ではないが、主の影に常に付き添う姿は昔も今も似たようなものだ。今の自分の部下に昔と変わらず小十郎がいるように、主従関係というものは世を超えて続くものであるらしい。
「話ってのはなんだ」
「これ以上、うちの旦那に近づかないで欲しい」
直球だった。彼が今までもそう思っていたことはその態度から知れたが、ここまでまっすぐに要求してきたのは初めてだ。
「俺から近づいているわけじゃねぇよ」
「それなら竜の旦那から色々言って聞かせて遠ざけてよ」
「あのなぁ。そんなもん、そちらさんで言い聞かせれば良い話だろうが」
「それができたらこんなお願いしに来ないってば」
困ったように笑う佐助の、その両目に浮かんでいるのは苛立ちの色。焦っているなぁと思いながら政宗は組んでいた両腕を解いた。今まで曖昧に示唆していたものを急にこうして直接言いに来たのだから、相当に切羽詰っているのだろう。
「要するに、アンタらにとって俺は邪魔な存在なんだろう」
「ご明察」
正確に言えば真田家にとって、だけどねと。笑いながらゆらりと近づいてくる。
将軍が大政奉還を行った。つまり、徳川家が帝に政権を返還した、ということである。とはいえ帝とその周辺に国政を行うだけの準備はなく、だから徳川家が未だに天下の実権を握っている。現将軍は頭の切れる人物だと聞いたことがあるから、それを見越しての奉還だったのだろう。
けれど、そもそも何故そんなことを行ったのかといえば、帝の周辺に徳川から天下を奪おうとする者が集まっていたからである。いわゆる尊皇を称する一派であるが、その者達が今のこの状況を黙って見ているはずがない。徳川家から実権をも奪おうとするだろう。
徳川家と帝。ふたつの勢力がこの先、直接的に対立するであろうことは予測できる事態であった。それがいつになるのかまだはっきりとはしないが、ふたつの勢力のどちらにつくかでその後の命運も変わってしまう。つまり、三百年前の関ヶ原と同じだ。
帝を担ぎ上げる勢力は西国諸侯が多い。となれば奥州筆頭たる仙台伊達家は、今は日和見を貫いてはいるが最終的には徳川家を支持することになるだろう。一方、松代真田家はもともと尊皇派が主流を占めていると聞いている。その真田家の御曹司が伊達家の家臣と親しく付き合っているのは、好ましくない状況である。
「嫌だと言ったら?」
戯れのように笑いながら問えば、相手はすうっと表情を変えた。今の彼は忍びではない。だから殺気を消すことはないしその必要もない。
「実力行使も厭わないと、一応上から許可が出ていてね」
「他国の家臣に怪我を負わせてもいいとは、随分と乱暴な話じゃねぇか」
「死人に口なしって言葉、知ってる?」
冗談めかして言いながら、相手はためらいもなく片足を踏み込んだ。抜きざまにその勢いのまま向けられた小太刀の切っ先を、寸でのところで避けた政宗もまた抜刀する。
「俺を消したらアンタも消されるぞ。アンタはそれでいいのか」
「旦那の為なら構わない」
「アンタが死んだら誰があいつの面倒を見るんだ、よ!」
澄んだ金属音が響く。寸暇なく迫る白刃を返しながら、政宗は心中で舌打ちした。薄暗く狭い路地裏で、己の片目と勢いで抜いてしまった長い刀は明らかに不利だった。小回りの利く小太刀を自在に振り回しながら迫る相手に、徐々に追い詰められていく。
こちらも脇差に変えようと、姿勢を変えた隙を突かれた。右腕を斬られて刀を取り落としてしまう。
「ごめんな、竜の旦那」
白刃が煌くその奥に、泣きそうな顔が見えた。昔の彼なら絶対にこんな顔はしなかっただろうなと、思っている目の前でその刃が弾き返された。
「てめぇ、何してやがる!」
「遅かったな小十郎」
「政宗様が何も言わずに出て行かれるからではないですか!」
責められるのは筋違いだと文句を言うように声を上げた小十郎は、けれどすぐに佐助にその剣先を向けて睨みつける。弾かれた刀を拾うこともなく、両手を挙げて苦笑している佐助に、ゆっくりと立ち上がった政宗はため息とともに声をかけた。
「今のアンタは昔に比べて、随分せっかちになったもんだな」
「そうかな?」
「そっちがそんなに焦らなくても、俺はそのうち国に帰るよ」
だからアンタは安心して真田に付いていろと、そう言って笑った政宗に、佐助は目を細めて疑わしげな視線を向ける。
「どゆこと?」
「家を、国を、守らなきゃいけねぇって立場のことなら、よーく知ってるからな」
「政宗様それは、」
「いつかは来ると思っていた、その時が来ただけだ。先延ばしにして悪かったな、佐助」
満ち月の下で、時も満ちたことを知る。
立ち位置が逆転しただけなのだから、選ぶものは今も昔も変わるはずがなかった。ただそれだけのことだ。
好敵手と認め、誓いを交わした相手を一人の男と認めているからこそ、その顔に泥を塗るわけにはいかない。何もかもを捨てて、捨てさせて、相手を選ぶことは、できない。
「あの時と同じように、俺はあいつの前から姿を消す。――もう二回目なんだから、さすがにあいつも気付くだろ」
何よりも相手のことを考えるからこそ、相手との誓いを果たすことよりも大事なことなのだと。
再会して、無邪気に駆け寄ってきた今の彼はきっとまだ気が付いていないから。
今度こそは、知って欲しかった。
烽火
俺はアンタが嫌いだった、と。
政宗のその言葉自体は、佐助にとっては意外でも何でもなかったのだが。
「あれ過去形? 今は違うんですかい」
「そりゃ今のアンタは忍びじゃないからな」
忍びという存在そのものが嫌いだったのか。それはそれで納得できる理由のようでいて、けれどそれだけではない、もっと具体的な理由があったように感じたのは過去の己の勘違いだったのか。
「あの時のアンタは、あれだけあいつに尽くしていながらそれを『忍びだから』って理由で己の本心ごと誤魔化そうとしていた。俺はそれが気に入らなかったんだよ」
従者なら従者らしく己の全てを賭けて主に仕えるものだろう、それを隠そうとしていた意味がわからない、と。やはり従者を持つ者の立場で男は語る。
「上に立つものは、従う者から賭けられたら賭けられた以上に返そうと必死になるんだよ。あいつだってそうだ。なのにお前がそれじゃあ、あいつが不憫だろ。――まあ、今は違うみたいだけどな」
ずいぶんと従者らしくなったじゃねぇかと笑う男に溜息を吐きながら、差された指先をゆるりと払う。
「竜の旦那ってさぁ、なんだかんだでうちの旦那のこと大好きだよね」
「どうしてそうなるんだよ」
どうしてもこうしても無いと思うのだが、別れを選んだ今となってはもはや関係のないことだと、この男は思っているのだろうか。そもそもその選択だって、彼の立場を思ってのことだというのに。
「なんにせよ、今のアンタには安心してあいつを任せることができるってわけだ。なぁ、佐助」
別に任されなくても変わらず彼のそばに自分はいるのだが、相手の気持ちを汲んで黙っていることにした。
「佐助、政宗殿は」
「俺様なにも知らないったら」
「佐助」
誤魔化そうとする佐助を詰るでも咎めるでもなく、灯火の揺れる光を頬に受けた幸村はただ名を呼んで、真正面からひたりと見据える。激情に任せて大きな声を出してくれた方がこちらも気が楽なのにと思いながら、ため息を吐いた佐助はやれやれと首を振った。
「あーもー、察してよ旦那ァ」
「某も何もわかっていないわけではない。政宗殿を今すぐに追いかけたりしないと、約束する」
「へぇ」
少し意外だった。もちろん彼だって子供ではないのだから、己の立場も十分に理解している。けれどこと政宗に関しては、それを忘れてしまうことも少なくはなかったというのに。
冷静になって、どうしたらいいのかを考えているのだろうか。これが二回目だから、それだけ周りが見えるようになっているのかもしれない。今の彼は確かに、かつての彼とは少し違う。
「佐助、これだけは答えてくれ――政宗殿は、死地を求めているように見えただろうか」
不穏な世情は戦を予感させる。そしてその予感は多分、的中するだろう。
具足を身に纏った男たちの足音を思い出しながら、佐助はふうっと小さく息を吐く。任せると、彼は言った。もしかしたらもう二度と、彼は幸村に会うつもりがないのかもしれないと思わせるような穏やかな笑みを浮かべながら。
「そういう風に、見えなくもなかったね」
「そうか」
頷いて目を閉じる。ぎゅっと拳を握りしめて、ゆっくりと瞼を上げた幸村が浮かべたのは、いつもと変わらない笑顔だった。
「兄上と話がしたい。佐助、用意を頼む」
「ご当主に? そりゃまたなんで急に」
「先ほど、江戸の薩摩屋敷に火の手が上がったとの知らせがあった」
真偽のほどは定かではないが、この京で将軍慶喜が大政を奉還してからというもの、江戸では賊による窃盗や破壊行動が目に余るほどとなっており、その賊の正体は薩摩の手の者であったという。それは徳川に対する明らかな挑発行為であり、そうとわかっていながら、江戸の留守を守っている徳川側の者たちは賊が出入りしていた薩摩の屋敷を取り囲んだ。
屋敷に火を放ったのは薩摩側だったようだが、経緯がそのようなものであるだけに、この京へは徳川側による薩摩屋敷の焼き討ちとして伝わってきている。幸村がほとんど正確にその知らせを受け取ることができたのは元就のおかげだった。彼は先日負った怪我を理由にそれまでの活動から離れているが、その情報網は未だ手放していない。
「慶喜公の周囲では先日の王政復古の号令とやらのせいで、徳川の将軍家がないがしろにされていることに対する鬱憤が積もりに積もっているっていうのに。その上で今回のこの騒動って」
「衝突は避けられぬこととなろう」
連想するのはやはり関ヶ原での戦いだ。今回は徳川慶喜が拠点としている大坂と、薩摩をはじめとする西国諸侯が朝廷の警備の名目で軍を集めている京都との間で戦が起こるだろう。そして慶喜には会津と桑名、それぞれの国主が行動を共にしている。慶喜が先代将軍の後見職にあった時から京都守護職、京都所司代を勤めたことでそうならざるを得ない状況にあるのだが、それがこのまま続けば戦地は江戸から東北へと向かうことになるだろう。
そうなれば、奥州の雄たる仙台伊達家も動かぬわけにはいかなくなる。
「それで、それを踏まえて旦那はどうするの?」
「兄上へ早急に朝廷側へつくことを進言し、その先陣を某に任せて頂けるようお頼み申し上げる」
「それはまた……」
彼らしいまっすぐな意見だった。そしてそれは、今の彼と同じような立場にあったはずのかつての独眼竜が、決して選ぶことのなかった道。
「政宗殿が某のために離別を選んだことは重々承知している。けれど、死地を求めるというのならば、某は決して政宗殿を一人で逝かせたくはない。相見えることはできぬとしても、せめて同じ戦地で戦う者でありたい」
かつての自分が、――彼と別れて、戦場で散ることを選んだ過去の自分が、心のどこかでそれを求めていたことを知っているから。
できることならこの手で、と。思わず続きそうになった言葉を幸村はゆっくりと呑み込む。それはたぶん、かつての自分が求めていたことだ。今の自分の望みは違うものなのだと、ぼんやりとではあるが気付き始めている。
けれど上がってしまった烽火を前にして、それをはっきりとした形にする時間はなさそうだった。
分岐
街道沿いにある小さな旅籠は常連の逗留客が多い。だから店前での客寄せもしないのだが、隣の大きな老舗旅亭が大変に賑やかなので小さな宿は存在すら知られてはおらず、気にする者などいなかった。
その旅籠の申しわけ程度にかけられた暖簾を、勝手知ったる様でくぐった家康を出迎えたのは立ち姿の美しい女性。
「またお前か」
女将として客に対する態度ではなかったが、家康はこの宿の客ではない。
「やあ、孫市。今日も元気そうだな」
「二階の連中の方が無駄に元気だぞ。もう往診も必要ないだろうに」
「いや、今日は往診ではなく挨拶にきた」
下足番が用意した水で自ら両足を濯いでいる家康の言葉に、孫市は器用に片眉を上げる。
「大坂か」
「ひとまずは。その後のことはワシにもわからん。江戸あたりで収まれば良いが」
「それでは奥が黙っていないだろ」
だから政宗が動くのだろうと、視線だけで問われた家康は苦笑しながら頷く。旅籠の女将という立場を利用して毛利家臣などから伝達役を引き受けている彼女には、何もかもお見通しだ。
「鶴姫は元気か」
孫市と共に、公家の養女として朝廷側の立場で伝達役を引き受けている姫の名を出せば、孫市はいつもより少しやわらかな笑みを見せる。
「最近はさすがの姫も少し疲れが見えるようだ。さっさと世が静まってくれれば良いのだが」
「……お主も、そのようなことを言うようになったのだな」
意外そうにしみじみと呟いた家康を、孫市は冷ややかに見据えた。けれど何も言わずに、さっさと用事を済ませて来いと片手をひらりと振るだけで済ませる。
そんな様子に首を傾げながらも、二階へ上がってゆく家康の背を孫市はため息と共に見送った。
「あの男は本当に、何もわかっとらんな」
挨拶の前にひとまずいつもどおりに傷口の診察を行った家康は、その指先を見て驚いたように顔を上げた。
「もう動くのか」
「藪医者め」
ふんと鼻を鳴らした元就は左手を上げて、すぐ隣にいた元親をちょいちょいと呼び寄せる。何だ何だとにじにじ寄ってきた相手のその額を、ぺちーんと指先で弾いた。
「痛ってぇ! なんで俺なんだよ!」
「そもそもの元凶が貴様であることに変わりないであろう」
「そおおだけどおおおおお」
反論できずにケッと横を向いた元親は、しかしすぐに家康に向き直る。
「親玉が二条から大坂に移ったそうだな」
「ああ。それで、政宗も移ることになったから、ついて行くことにした」
あれはもともと将軍護衛のために江戸から上京していたからと、広げていた荷物を片付けながら語る家康を挟んで元親と元就は目を合わせた。
「政宗について行くのか」
「その方が都合良さそうだからな」
「どこまで行くつもりだ?」
問われた家康は顔を上げて、自分を見つめている二人を交互に見やる。
「この徳川の世の終わりまで、だろうなぁ」
「……違うだろ、家康」
押し殺した声で元親に名を呼ばれて、それでも家康は困ったように笑みを崩さない。少し落ち着けとばかりに元親の膝をぺちぺち叩いた元就は、相変わらずとんだタヌキだと溜息を吐いた。
「三成のことはもう良いのか」
「それは、」
「俺に言われたかないだろうけど、なあ家康。お前、何も考えてないだろ」
過去の自分が何を選んだのか。どうしてそれを選んで、その結末はどうなったのか。そしてそれらを考え知った上で、今の自分は何をどうしたいのか。
それを考え続けていた元就は元親を救い、考えていなかった元親は元就を殺しかけた。だからこそ元親は家康に問う。
「政宗はなんだかんだ言いながら結局、幸村のことを選んだだろう。幸村も馬鹿じゃないから、過去の自分と相手のことを考えて、今の行く先を決めるだろうな」
「道を分かつことを選んだのに?」
「それも相手を想うからこそ、だろ?」
背負うとか、見届けるとか、そんなものは二の次だ。
大義名分を掲げて、誰にでも胸を張れるような立派な理由をつけて。そうやって自分の本心から目を逸らし、偽ったところで、最後に選ぶものはいつだって一番大切なもの。
「なあ、家康。三成のことはもう良いのか?」
同じ問いを繰り返す。家康は応えない。答えることができない。
「答えることができない貴様に、三成を会わせるわけにはいかぬ」
「……知っているんだな、三成の居場所を」
そんな気がしていた家康はただ苦笑を浮かべた。今は怪我によって活動の前線を離れているとはいえ、知能派が集まる長州毛利家臣による情報戦の一端を担う男だ。その程度のことは調べ済みなのだろう。
「三成は、元気にしているのか」
「あれはもう答えを見つけている」
「そうか」
それでは本当に、あとはワシだけなのだなと力なく笑った家康は荷物を手にして立ち上がった。
「例え形だけの大義名分であっても、それでもワシはこの徳川の世の行く末を見届けなければならんと思っているよ。それが最初に徳川を名乗り、最後は権現として祀り上げられたワシの役目であることに変わりはないからな」
今ここで答えることができるのはそれだけだった。もちろん全く何も考えていないわけではない。けれど、逃げていたこともまた確かで。
既に答えを見つけているという三成はきっと、どこかでこの自分を待っているのだろう。そんな気がした。ならば確かに自分は答えを見つけて、彼に会いに行かなければならない。
あの雨の日に彼を殺めたのは、自分だから。